第9話 リヒャルト シュトラウス 交響詩群 カラヤン ベルリンフィル

 一時期、ヘルベルト フォン カラヤンは、まさに「クラッシック界の帝王」であった。音楽雑誌で批評家は「カラヤンの指揮した演奏」というだけで無条件に特選盤や推薦盤にしていたように思える。

 おそらくはその反動で、いつしか彼はいわれのない、或いは的外れな批判や非難を浴びるようになった。その初期には、なるほど、と思わせる評論もあったが、すぐに「人間には盲目的な追従ついしょうという愚かな機能が備わっている」、と言うことしか分らぬ批評・非難、無視がそれに続いた。大指揮者の死後34年を経て今なおその愚かさは続いているが、クラッシック音楽の真の愛好家なら彼の才能を決して軽んじてはならないし、そんな愚行はするまい、と僕は思っている。とりわけリヒャルト・シュトラウスの演奏はカラヤンに勝る演奏は滅多にない。チャイコフスキーとドボルザークの弦楽セレナーデなども絶品で、やはりオーケストレーションに秀でた作曲家の演奏にカラヤンが抜群の才能を示すことは明らかであり、それは最初の一音で分るたぐいの物である。


 カラヤンによるリヒャルト・シュトラウスのレコーディングは幾つかの時期に分かれるが、ざっと四つの時期に区分していいと思う。1)若手指揮者時代 2)ウィーン国立歌劇場時代 3)ベルリンフィル前期 4)ベルリンフィル後期である。この区分は他の作曲家、例えばベートーベンやブラームス、モーツアルトの交響曲などにもほぼ当てまり、レパートリーの広い彼はいずれかの曲でその足跡をディスコグラフィに遺している。だが、それは結果的に彼の陽の側面であると共に負の側面も伴った。

 カラヤンへの批判の一つにコマーシャリズムがあり、これはカラヤンのレコーディングが非常に多い事と無関係ではあるまい。リヒャルトシュトラウスに限っても多いものでは3種類の演奏が存在し、ほぼそれが主要レーベルからの「スタジオ録音」による発売であることを考えると、レコーディングのたびに悪い言葉で言えば、がっぽがっぽ儲けていたのではないかと邪推されても仕方有るまい。その演奏の質や精度が後の録音になればなるほど上がればそうした批判もないのだろうが・・・。


 今はともかく戦前或いは戦後まもなくの頃はレコーディングそのものがかなりのヴェンチャー的作業であったことは想像に難くない。今ほど録音機器にしても配布にしても技術的に高コストであった。特に配布は(少なくとも初期は)レコードという手段しかなかったわけでその製造には初期コストがかなりかかる。従ってレコード化そのものが容易ではなかったであろう。ただでさえ少ないクラシック音楽愛好者(とその経済的、およびレコードやCDを保存する物理的スペース)のパイを全取りしようとしていたのではないかと邪推したくもなる。(現実にあおりを食った指揮者もいるであろう)

 だがその行動が批判したいなら、その行動を批判すればいい話で、その行動が演奏の質といささかも関わるわけではないと言うことは肝に銘じなければならない。質の悪い感情で筋の違う批判をするのは評論家としても鑑賞家としても失格であろう。


 まず、「ツァラトゥストラはかく語りき」から聴いてみたい。ウィーン時代の録音はレコードのものを聴いたが、針を落とした途端にするレコード特有の雑音が懐かしい。その雑音の中から有名な冒頭部分が湧き出てくる。

 一般論としては、特にリヒャルトシュトラウスのような作曲家の曲はダイナミックレンジや音の澄明性が重要な要素であり、他の楽曲に比しても古い録音にはディスアドバンテージがあるのは否めない。この録音もCDで再発されているらしいので、おそらくはそちらの方が聞きやすいであろう。

 だがアナログ音源から立ち上がってくる若い日のカラヤンの演奏は今なお、別格の高貴さを耳に響かせてくる。端的に言えば、カラヤンの名声はこの時代、ウィーンを振っていた時に確立し、生涯キャリアの基盤になったといって差し支えない。リヒャルトシュトラウス以外にチャイコフスキーやベートーベン、ホルストなどの録音が存在するがそのどれもが刮目かつもくする質の演奏である。

 後のベルリンフィルとの演奏に比較すると、オーケストラの音質は軽やかである。演奏時間がこの盤では33分弱、1973年のベルリンフィルとのものが35分弱、最後の1983年のものが36分弱、と少しずつ遅くなるのは、年齢を重ねる指揮者の一般的な傾向で、カラヤンに特有の物ではない。しかし、そのテンポを生み出すオーケストラの音は後年の物とは随分と異なっている。後年のものになるほど、音の質は厚く、重たげになる。それを嫌う人もいようが、リヒャルトシュトラウスに関しては正直、どちらのアプローチもありだ、と思わせ、そのどちらをも高いレベルで完成させているのがカラヤンの凄さである。

 このウィーンフィルとのものは「一度で聞き惚れる」と言って良いレベルの演奏であり、幸いなことに「何度も聞き返したくなる演奏」でもある。2001年宇宙の旅にこの演奏が使われたのは映画にとって大変結構なことだった。何度流れても飽きの来ない演奏なのだから。

 1973年のグラモフォン盤はシュヴァルベがバイオリンを担当している。Daz Tanzlied(舞踊の歌)の彼の演奏はやはり名手と言われるだけあってとりとめもなく美しい。そのシュヴァルベが(カラヤン指揮限定で第1)コンサートマスターであったベルリンフィルとの蜜月時代の演奏はウィーンフィルのものより随分と音が分厚くなっている。冒頭、オルガンの通奏低音から立ち上がる管弦楽器のところではまだその予感はないが、ティンパニに導かれる重奏部分とそこからはみ出すように演奏される弦楽部分は挑戦的にさえ聞える。ウィーンフィルとの物に比べて「圧倒感」がある。寧ろこの圧倒感を出すために再録されたのではないか、と思われるほどで、一度聞くとしばらくはいいかな・・・と思えるほどである点はウィーンフィルの物とだいぶ違う。


 因みに「圧倒感」に関連して言えば「ツァラトゥストラはかく語りき」というニーチェの著作に沿ったタイトルと、その重々しい旋律に難解さを感じる人もいようが、リヒャルトシュトラウスにそれを感じる必要は毛頭無い。

 彼の交響詩のタイトルを辿れば「ドンファン」「ティルオイレンシュピーゲル」「ドンキホーテ」と大言壮語型・自己陶酔型の破滅タイプが出揃った感じで、あとグリーグの「ペールギュント」を加えれば「自己陶酔型駄目男の大四喜」ともいえる。それに沿って言えば「ツァラトゥストラ」もどこか大言壮語「的」といえそうで、そうした人物こそはリヒャルトシュトラウスの創作意欲をかき立てるタイプの人間像なのであろう。

 そもそもfrei nach Friedrich Nietzscheという説明用副題からして、「なんとなく」感の強いタイトルですよと作曲家自身が断りを入れているわけだから、そこに哲学を持ち込む必要はなく、作曲家がイメージした美しい旋律を楽しめば良い話なのだ。


 さてカラヤンはその十年後、今度はトーマス ブランディスをバイオリン独奏として再録を行っている。(ちなみにブランディスはこの年ベルリンフィルの第1コンサートマスターを辞する)この1983年の再録演奏に関して、気になるのは「その目的」である。オーケストラも同じで全体的な印象も1973年盤を引き継いでいるこの演奏のレゾンデートルは何か?

 まず技術的なことを言えば、その10年の間に録音のデジタル化が行われた事実がある。カラヤンは技術的な興味も存分にあった人間だから、デジタル化の意味も知っていただろうし、録音をし直したいと考えたとしても不思議ではない。それを購入するかどうかは別として、僕自身は「演奏家のそうした思い」を否定する気にはなれない。技術は芸術に対してニュートラルではない。特にクラッシック音楽ではモノラルとステレオという(現実的には殆どの聴衆にとっては意外に僅かな)違いが「大きな違い」として認識されてしまったため、その後の技術に関してもかなり注視していただろう。結果として「それは演奏そのものほどの違いを齎さない」ことは明白となったが、録音を重視する指揮者であったカラヤンにとっては無視できないファクターであったに違いない。

 因みに指揮者には「録音」を重視するタイプと「その場一回限りの演奏」を重視する一期一会いちごいちえタイプの指揮者がいて、チェリビダッケが後者の典型であればカラヤンは前者の典型である。そのどちらが良いというわけではないが、後者の方がそのアプローチとして哲学的・芸術的である(ように、少なくとも見える。なぜなら経済という芸術と無関係、ないしは相反するファクターを忌避しているのだから)事は否めない。しかし、その録音が後世に残って評価の対象になるという現実を考えた場合、録音を大切にするという姿勢を否定することも出来ない。結果的にチェリビダッケにしても録音が残っていたからこそ、今の評価が存在するという側面は無視できないだろう。


 話を元に戻そう。例えばティンパニが1973年盤に比べたら押しつけがましくない響きだとか、序章の終わり方の切れが良いとか、そういう細かい話は別にして1973年盤と1983年盤には大きな違いは無い。この二つだけを比べれば、その違いを拡大鏡のようにして論じることもできるだろうが、「カラヤン以外」とカラヤンのような比較と同等に論じることは出来ないし、カラヤンとウィーンフィルの演奏との違いほどにも大きくない。正直に言えば、よりストレートで緻密な1973年盤の方が僕の好み(1983年盤は若干の緩みと同時に音がややヒステリックに響く箇所がある)だが、1983年盤をけちょんけちょんにけなすような論調には同意しない。ただ1983年盤を録音した趣旨や「新たな録音のレゾンデートル」という点で「疑問符はつく」のは事実で、これはリヒャルトシュトラウスのみならずベートーベンの交響曲全集などにも敷衍ふえんされうる視点である。

 要は「もし再録するなら、再録音の「音楽的」意味が欲しかったなぁ、という「がっかり感」がある。だが、「新録音は無意味で音楽的価値も低い」とも思わない。音楽というのは「絶対値」であって「比較値」ではない。後年の演奏に「再録としての音楽的意味」を感じなくても、演奏としての「音楽的意味」は十分にあるのである。帝王でなければ出来ないことを帝王がやって、後々批判の対象になるというのはナポレオンと少し似ているかも知れない。


 同じ事は「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」についても言える、ウィーンフィルの頃は軽妙な「らしい」ティルは年を経るにつれ、若干陰険さを身につけて厚い音の中からゆらりと立ち上がってくる。その死も後になるほど陰鬱になる傾向はあるが、やはり「どちらもあり」なのである。

 「ドン・ファン」はベルリンフィル初期の録音を欠いているが、ウィーンフィルのものと、ベルリンフィルとの1986年の録音を聴けば、その二つの線上にある音楽を、別の二つの曲の変遷を方程式のように当てはめれば想像がつく、そんな気がしてくる。

 カラヤンは他にも「死と変容」「メタモルフォーゼン」などをDGに数回にわたって録音しているが、なぜか「シンフォニア ドメスティカ」(家庭交響曲)だけはEMIに録音していて、再録もない。

 家庭交響曲はリヒャルトシュトラウスにとってその題材の取り方が他のオーケストラ曲と異なり(歌曲はよくあるのだけど)非常に個人的なものとなっているが故に指揮者のイメージと合わなかったのであろうか?とはいえ、これも十分に優れた演奏である。だが特筆すべきは最盛期、1974年にグンドラ ヤノビッツ(カラヤンのお気に入りのソプラノで「合唱」でも共演していたと記憶する)録音した"Vier letzte Lieder"(4つの最後の歌曲)であろう。死を目前にした作曲家による死を題材にしたこの曲集は、大言壮語の漢たちに憧れた作曲家の内心のロマンティシズムをオーケストラ伴奏による歌曲という形で昇華し、その複雑な成り立ちをカラヤンの指揮は十二分に表現している。

 試しに他の指揮者によるリヒャルトシュトラウスを聴いてみよう。

 例えば"Vier letzte Lieder"をフラグスタートと共に初演したフルトベングラーの演奏(曲目は「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」)を聴くと、リヒャルトシュトラウスを「劇的に演奏する」ということの善し悪しが露骨に出てくるのを感じる。やや居心地が悪いのだ。同じくベルリンフィルを振ったカイルベルトの演奏を聴くともっとはっきりするのだけど、劇的なワグナー的演奏は意外と「リヒャルトシュトラウスには相応しくない」のではないかと思えてくる。ワグナーは明らかに「親ナチ的、反ユダヤ的、神話的、パターナリズム、復古的」という特徴を有しているが、リヒャルトシュトラウスの真髄はそこにはない。むしろ「面白さ」とか「美しさ」という情動を大切にする作曲家であり、その曲も「劇的な要素」は音符の中にあるので演奏家は「劇的に」なってはいけないような気がするのだ。だからカイルベルトの演奏を否定するわけではないけど、不用意にカイルベルトを聴くと「混乱」しかねないとは思う。 

 僕がカラヤンに次いで最も薦めたい指揮者はフリッツ・ライナーである。カラヤンの指揮とは全く違う色調であるが、その正確無比なタクトによる音の迫力はカラヤンさえも凌ぐ。僕の手元にあるのは4つの交響詩と小品を収めたCDであるが、そのどれもが1,2を争う名演であることは間違えない。ドンキホーテのチェロを名手、ヤニグロが朗々とした音色で弾ききっているのも嬉しい限りである。カラヤンに飽きたらライナーを聴き、ときどきフルトベングラーやカイルベルトで混乱してみる、というのが僕に取ってのリヒャルトシュトラウスの正しい聴き方で、その楽しみを保持するために作曲家自身による演奏は未だに怖くて手に取ることは出来ていない。


ウィーン国立歌劇場時代

<レコード>

*交響詩<ツァラトゥストラはかく語りき>、作品30     

*交響詩<ドン・ファン>、作品20#

*交響詩<ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら>、作品28##

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  キングレコード      GT9001/GT9012 #/GT9013 ##

with

#チャイコフスキー 幻想序曲<ロメオとジュリエット>、作品13

##7つのヴェールの踊り-楽劇<サロメ>作品54から 交響詩<死と変容>、作品24


ベルリンフィル初期

<CD>

*Also sprach Zarathustra op.30 Solo-Violine: Michel Schwalbe

Till Eulenspiegels lustige Streiche op.28

Salome Tanz der sieben Schleier

  Berliner Philharmoniker

  Deutsche Grammophon 415 853-2


ベルリンフィル後期

<CD>

*Also sprach Zarathustra op.30

Don Juan op.20

Berliner Philharmoniker Solo-Violine: Thomas Brandis

Deutsche Grammophon 410 959-2


*Don Quixote op.35

Till Eulenspiegels lustige Streiche op.28

Berliner Philharmoniker Antonio Meneses, Violoncello Wolfram Christ Viola,

Leon Spierer, Violin

 Deutsche Grammophon 419 599-2


注:(交響詩群とは個人的に「カラヤンの指揮による複数音源」を保有する下記の曲目:「ツァラトゥストラはかく語りき」、「ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」、「ドン ジュアン」)


その他のカラヤンによるリヒャルトシュトラウスの演奏





カラヤン以外のリヒャルトシュトラウス演奏(参考)


*Sinfonia Domestica op.53/Don Juan op.20

Berliner Philharmoniker WILHELEM FURTWANGLER

Deutsche Grammophon 427 782-2


*交響詩<ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら> 作品28

 交響詩<ドン・ファン> 作品20

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:ヨゼフ・カイルベルト

 TELDEC WPCD-12164 (メンデルスゾーンの序曲<静かな海と楽しい航海><フィンガルの洞窟>とカップリング)


*Also sprach Zarathustra, Op.30 (Thus Spake Zarathustra)

Ein Heldenleben, Op.40 (A Hero's Life)

Joseph Silverstein Violin

Boston Symphony Orchestra Seiji Ozawa

PHILIPS 442 645-2


*交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」Op.30  

交響詩「英雄の生涯」Op.40

交響詩「ドン・ファン」Op.20

7つのヴェールの踊り (楽劇「サロメ」より) Salome Op.54:

ばらの騎士のワルツ(ライナー編) Der Rosenkavalier, Op.59:

交響詩「ドン・キホーテ」Op.35

ジョン・ウェイチャー(ヴァイオリン)アントニオ・ヤニグロ(チェロ)ミルトン・ブレーヴス(ヴィオラ)

シカゴ交響楽団 指揮:フリッツ・ライナー

BMG BVCC-8857-58

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