第8話 Georges Brassens "Les Lilas" et d'autres chansons
ジョルジュ ブラッサンスの歌を初めて耳にしたのは、大学の頃に聞いていたNHKのラジオフランス語講座の中でだった。
"Les Lilas"をギター一本で弾き語りする彼の歌声は、親しみのこもった、それでいて
「花屋に行った時はきっとリラの花を買うのさ、」
彼は茶目っ気たっぷりにそう言ってウィンクをする。
「もし僕の歌が悲しげなら、それはそこに愛がないからだ」
一回聴いただけで、あっという間に僕は
幸いなことに既に大学生になっていた僕はバイトを始めたので、高校生の頃よりは多少、懐が温かかった。それまではクラッシック音楽以外のレコードは滅多に買うことはせず、歌謡曲やジャズはFM放送をカセットテープで録音して(当時はエア チェックと呼んでいた)聴いていたのだが、シャンソンは滅多に放送されなかった。されてもアズナブールとかピアフとかアダモとか、偏った歌手しか登場することは無い。それが日本のシャンソン界だった。
僕に取ってはシャンソンと言えば、今でもブラッサンスとジャック ブレルの二人を措いてないので、世間とは全く認識が違うのかもしれない。「愛の賛歌」とか「枯れ葉」とか「サントワマミー」も悪くはないが・・・。
ともかくもブラッサンスを聴くためにはレコードを買うしかなかった。
といっても近くのレコード屋ではそもそもシャンソンなど一枚も売っておらず、お茶の水のディスクユニオンで漸くレコードを一枚、発見した。
「絶対従順主義」という邦題が付けられた一枚の原題は Je me suis fait tout p'tit (devant un'poupee)「(お人形さん=可愛い女、の前では)小さくなっているしかないさ」ということで、まあ主義では無いけど惚れた女に何をされても「仕方ない、かなわん」と
それから暫くの間、僕はフランス語を覚える代わりに彼のシャンソンを歌っていた。だから今でも幾つかの曲は途中までだけど
どの曲も小洒落た雰囲気と
ブラッサンスはアナーキストを自称していたが、現実はドイツ軍に招集され、パリで逃亡生活をする中で抱いた政治・ブルジョアへの不信や敵意を持っていただけで、現実的には極めて市民的な人間であった。有名になった後も逃亡生活を支えてくれた質素なパリ市民の家に暮らし続けた生活は彼の「生き方」を象徴している。風刺的であるが破壊的では決してない。とはいえ、その風刺が一部の層を刺激したのは彼が名声を得たからであろう。また、当時のアナーキー的な政治団体が彼を取り込もうとしたのもあるだろう。しかし、そもそも彼の政治スタンスは極めて単純だ。「普通に生きていて、それが難しいならそれは政治が悪いのだ」、その程度の話だ。
Au bois de mon coeurという曲は
「俺の心の森には、一輪の小さな花が咲いている」
という歌詞で始まる。彼の心のありようは、そんな歌詞に体現されている。Le Gorilleで歌われているようなゴリラに犯される判事という絵図は「大層な法服を着ているために己を失った事大主義の人間」に対する鋭い風刺に過ぎない。
だから彼の政治的スタンスを妙に拡大する行為にはそれがproであろうと、conであろうと僕は
さて、僕が彼の歌を聴き始めた頃、つまり大学時代にはまさかパリに行くことが有るなどとは思っていなかった。そもそも就職してからもしばらくの間、僕は海外に出掛けるどころか飛行機に乗ったことすら無かった。
だが、たまたま縁があって製造部門から海外営業に職種転換し、そのあとヨーロッパに赴任することになり・・・その結果、パリには本当に数えきれないくらいの回数訪れることになった。もっとも大半は仕事で(多分五十回を超える)、観光に訪れたのは十回ほどかと思う。
パリに最初に降り立ったときは上司と一緒で自由時間はなかったが、仕事であっても何度か訪れる内には休日を挟んで仕事をする事があり、初めて市内を観光する事が出来た。よく覚えていないが確かSofitelあたりのホテルに泊まった覚えがある。やはりルーブルは見ておかなくてはと思ったのだが、余りに広大で疲れ切ってしまった。一応、ジョコンダなどの有名な作品を見終え僕は美術館を後にした。ルーブル美術館を出てオランジュリーに向かいかけた僕の周りに、わらわらと寄って来た子供たちがいて、ふと嫌な予感がしたらやはり財布を掏られていた。慌てて子供たちの後を追いかけた。子供たちは次々に左右へと分かれていく。
最後まで真っ直ぐに走っていった子供の襟首を捕まえ、財布を返せと言ったら、大人しく茶色の財布を返してよこした。周りの旅行客(たぶんドイツ人)が拍手をして「そのガキを殴れ」と言ったのには少々驚いたが、さすがに殴ることはできなかった。散り散りに逃げていった子供たちがいつの間にか捕まえた子供の近くに集まっていてなんだか妙な雰囲気だったが、僕は首根っこを押さえていた10歳くらいの男の子から手を離した。殴ったりしたらブラッサンスはやれやれと首を振ってどこかに消えてしまうそんな気がした。いや、もちろんそこにブラッサンスがいたわけではないし、ブラッサンスが掏摸を許しているという意味ではない。子供を殴るという行為と彼が相容れないような・・・そんな気がした。
首を離された男の子はすぐに逃げ出すでもなく、戻ってきていた子供たちと一緒にしおしおとどこかへ消えていった。おそらくは誰か大人たちが子供たちを使嗾して掏摸をやらせているのであろう。華やかなパリにも明るい側面と暗い側面が存在する。まるでブラッサンスの歌詞のように。
その暫く後、パリを旅行で訪れた最初の一回、パリのオフィスにいたベルナールというセールスマンに10区の比較的リーズナブルな宿を取って貰い、一人ミュンヘンから夜行列車に乗ってパリへと向かった。仕事なら飛行機で1時間ほどで着くのだが電車出だと、夜行のインターシティで5時間ほど掛る。その代り安い。
途中シュトットガルトだったかストラスブールの辺りでサッカーチームらしい学生の集団が大量に乗り込んできて騒いだのには閉口したが、Nordの駅に辿り着きパリの朝に降り立った時は仕事で行った時と開放感が全く違った。それから一週間、僕はパリとその近郊で楽しんだ。シャンゼリゼ通りにあるアルザスと言うカフェがお気に入りで、良くそのカフェでバゲットのサンドイッチを食べながらシャンゼリゼ通りを眺めていた。そこからは遠くにマクドナルドが見えて、恐らくマクドナルドに入ってカフェを眺めた方がよほどパリらしいのだろうけど、でもそんなことは気にしなかった。
ふと思い立ってポンピドーセンターの近くにあるレコードショップに行くと、ジョルジュブラッサンスのCDが売っていた。三枚組の全集とカーディフでのコンサートを収めた1枚もの。それを持ってレジで支払いをしようとするとパリジャンヌ(かどうかはしらないが)のお姉さんが、へぇ、というような顔をした。まだ日本人が大挙して押しかける時代ではなかったのである。東洋人自体が珍しく(ベトナムとかは別だけど)ましてシャンソンを購入する人間などはあまり居なかったのだろう。
その時代はまだ、通貨もフランであった。1フランが20円くらいであったろうか。100フランはドラクロワが描かれていて、それを数枚使って支払いをした。あの有名な「星の王子さま」が隅に描かれた50フランはもう少し後になって発行された。
そのCDは今も手元にある。シリーズものは1991年の発売だから、発売されてすぐに買ったのだろう。面白いのはカーディフのライブ盤の選曲で、"Le Gorille""La Mauvaise Reputation"や"Chanson pour L'Auvergnat"など、どちらかというとやや反社会的な歌が多く含まれていて、そういうものがコンサートでは求められていたのだという事をなんとなく察することができる。
(レコード)
*絶対従順主義 Je me suis fait tout petit
Georges Brassens
Philips FDX-188
(CD)
*Chanson pour l'Auvergnat
Georges Brassens
Philips 818 963-2
*MASTER SERIE 1-3
Georges Brassens
POLYGRAM DISTRIBUTION 832 050-2
834 229-2
846 432-2
*BRASSENS EN CONCERT IN GREAT BRITAIN 73
Georges Brassens
POLYGRAM DISTRIBUTION 832-268-2
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