第6話 ブルックナー 交響曲第四番 チェリビダッケ ミュンヘンフィル
チェリビダッケは大変気難しい人物であった、と言われる。フルトベングラー亡きあとベルリンフィルの後継を争い敗れたカラヤンと険悪な関係になったとか、レコード録音を頑なに拒否したとか・・・さまざまな逸話がある上、専攻は哲学であり音楽はどちらかというと片手間、行動にも経歴にも、そして演奏する音楽にもミステリアスな雰囲気がある指揮者である。
ベルリンフィルという世界で最も秀逸なオーケストラであろうと、meticulousというほど細かい練習を楽団員に課したことでも知られている。おそらく楽団員には厳しい指揮者であったのだろうが、普段はごく普通の紳士である。いや・・・もっと言えば気さくなおじいちゃんであった。何を根拠に、と問われれば、「何度かお会いして話をしたり、一緒に食事もしたことがあるから」、である。意外とそうした経験をした日本人は多いのではないか、と思えるほど彼は
仕事の関係で会ったことのある著名な音楽家と言えば小澤征爾さんとチェリビダッケ氏、あとは盲目のバイオリニストとして有名な和波孝禧氏くらいしかいない。その中で最も頻繁にお会いする機会があったのはチェリビダッケ氏であった。
和波氏は演奏の時は情熱的であったが、物静かな人であった。独奏者というのは、なんだかんだと言って自己主張の強い人が多いのであろうけど、和波さんにはそんな感じは一切無かった。
二人の指揮者は対照的であった。ロンドンでお会いした時(サイトウキネンを率いてのワールドワイドツアーの最中であったと記憶する。ベートーベンとベルリオーズだったろうか・・)の小澤征爾さんが商売人的な雰囲気があったのに比べるとチェリビダッケ氏は全くの
チェリビダッケ氏が禅に興味があったことは良く知られている事実であるが、それだけではなく、日本の音楽や日本の食事にも関心を持っており、彼と3人の楽団員と共に多摩川近くの料亭で食事をしたのはかけがえのない思い出である。その上、勘定係でもあった自分には隣の部屋で現金を数える作業が大変だった、という思い出までひっついている。現金で札をあれほどたくさん数えたことはめったにない。つまりはそれだけ高い食事だったと言う事だ。
長良川の鮎とか、どこそこの
彼の演奏はそのツアーの時だけではなく、ミュンヘンフィルに本拠地であるガスタイクを含めれば50公演以上聴いた。だからチェリビダッケは僕にとっては幻の指揮者というよりは、もっとも数多く直接演奏を聴いた指揮者である。手元にまだ残っているいくつかの演奏会のリーフレットは1990-1993年のもので、バレンボイムとのブラームスの2番(ピアノコンチェルト)と「運命」、ブルックナーのミサ組曲(ノバーク版でマーガレット プライスが歌っている)、ルーセル、ドビュッシー、ラベルなどのフランス音楽を集めたもの、などであった。言った演奏会のものを全てちゃんと取っておけば良かったのだが、海外との間で何度も引っ越しをしたので失われたのが多いのは仕方ない。
上記の通りドイツの古典だけでなくフランス音楽や現代音楽など様々な演奏を聴く機会があったが、やはりチェリビダッケ氏の演奏で最も心に残ったのはブルックナーの交響曲であり、4番、5番、7番、8番などは複数回聴いたそのすべてが素晴らしい演奏であった。敢えてもう一つ揚げれば、ガスタイクで聴いたベルグのバイオリン協奏曲の演奏が印象的であった。一方で指揮者と演奏曲目の相性というのは確かにあってあんなにお話を伺い、人柄も尊敬できるチェリビダッケ氏であっても、やはりブラームスのテンポは遅すぎる、と思ってしまう自分もいる。
そもそもブルックナーの音楽というのはクラッシック音楽の初心者にとっては冗長で、面白みに欠ける音楽に聞える。同じ長さならまだマーラーの方が面白い・・・僕自身も学生の頃はずっとそう思っていた。少しそれが変わり始めたのは多分、7番をカラヤンの指揮で聴いた頃であろう。
世の中にはカラヤンを余り良く言わない人も多いが、えてしてクラッシック音楽の中途半端なファンほど、人口に
さて、話を戻そう。
ブルックナーの音楽は不思議な形で聴衆を引き込んでいく。今のはやり言葉で言えばまさに「沼」である。カラヤンで始まった耳はやがてベーム・ヨッフム・ギュンターワンド・フルトベングラー・クナッパーツブッシュとどんどんと別の演奏を聞き始める。例えばメンデルスゾーンやブラームスといった作曲家の交響曲はある程度の幅の演奏を聴くと耳が
とりわけ東京で聴いた4番は、それまでの「ロマンティック」の標準(主にベームの演奏である)を書き換え、僕の中に住み着いた。そして5番、3番、6番、8番と徐々にその数は増えていった。
その後ミュンヘンに戻った後にルーマニアで暴動が起こりチャウシェスク大統領が処刑された。ルーマニア生れのチェリビダッケはミュンヘンフィルを率いて傷ついた同胞の心を癒やすべく、ルーマニアへ演奏旅行に旅立っていった。そうした心遣いが出来る人物でもあった。1990年のことである。この4番の演奏はその2年前、1988年、ミュンヘンのガスタイク(ミュンヘンフィルの本拠地)で演奏されたものであり、僕が彼の演奏を聴き始める直前のものだ。同じシリーズの6番は1991年の演奏なので、こちらはもしかしたら僕も聴いていた演奏かも知れない。ミュンヘンこそはベルリンフィルを追い出された後、シュトットガルト、ストックホルム、パリと様々な都市と様々なオーケストラと渡り歩いた彼が最後に演奏の完成の地であったとつくづく思う。ミュンヘンフィルでの演奏は少なくともブルックナーについては、極めて安定した演奏で、ガスタイクでの演奏も東京での演奏も高い質を保っていた。おそらくは練習の時点で完成の域まで達していたのであろう。晩年のブルックナーの演奏になるほど、彼の演奏はゆっくりとなったが、最初の音から聴衆を別の世界へと押しやり、僕らはその別世界の中でなされるがまま揺蕩っていた。そこには現世と別の時間が確かに流れていたのだ。ぜひ聴いて欲しい演奏である。レコードで言えば針を落としてすぐ、(CDで言えばスタートボタンを押した瞬間)、密やかな弦楽の音があなたを包み、そしてホルンの音色が遙かなオーストリア アルプスに運んでいく。そしてその音のベールは4楽章、同じような景色の中で突如現実へと引き戻される。その一時間ほどの体験の中にどれほど豊穣な音楽が存在していることか。
最近彼の演奏は様々なレーベルから発売されている。彼のご子息は、「質の悪い海賊盤によってチェリビダッケの演奏が貶められるのをこころよしとしない」と述べ、彼の許可の下で様々な場所で(放送局、オーケストラなど)眠っていた演奏が発表されることになった。此処に揚げるEMIのものもそうして発売された物であり、ミケランジェリとの二つの「皇帝」の演奏も正式な形で発売された。個人的には喜ばしい事だと思うそ、ミュンヘンフィルにとっても少しは潤うことにはなっただろう。(なんせ、演奏を発売できないというのはオーケストラにとっても財政的にかなりの傷手であったろうから)4番のこの演奏などは、東京で聞いた4番と重なり合うところが多く、懐かしささえ覚える。ただ、日本食を食しながら、「すべての経験や演奏というのは一回限りで、だからこそ尊いのだよ」と呟いたチェリビダッケの横顔を思い出すと、果たして彼がそれを喜んでいるかはよく分らない。いや、もし今彼にそれを尋ねたとしても、皺だらけの大きな顔をゆっくりと振り、黙ったまま立ち上がると広い背中を見せて立ち去ってしまう、そんな気がしないでもない。
Anton Bruckner
Symphony No.4 in E-flat major, "Romantic"
Edition: Robert Haas
SERGIU CELIBIDACHE MUNCHNER PHILHARMONIKER
EMI 7243 5 56690 2 5
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます