第5話 ベートーベン ヴァイオリン協奏曲 エーリヒ レーン(vn) フルトヴェングラー指揮 ベルリンフィル

 「協奏」曲に関する私見をドボルザークのチェロ協奏曲の項に書いたが、ベルリンフィルのコンサートマスターが独奏者となったこの演奏は、いわゆる「協」奏の本来の意味を具現化した一例である。

 オーケストラの団員をソリストにして演奏するというケースはコンサートではあるが、バイオリンという楽器に限ってレコードやCDなど販売目的としたものでは珍しいのではないだろうか。カラヤンがベルリンフィルのコンサートマスターであるミシェル シュワルベをソリストにしてヴィヴァルディの「四季」を演奏した盤以外は寡聞にしてあまり聴いたことが無い。それは他の楽器、例えばクラリネットやオーボエ、ホルンなどと違ってバイオリンとチェロは楽団に所属しないソリストが多く存在するからである。(それだけ協奏曲やソナタの曲が多いと言うことであろう)

 そうなるとレコードやCDなどやはり協奏曲においては著名なソリストを招いて行う方が聞こえが良いし、まして正規の価格で媒体として販売する以上、 ソリストが見つかりませんでしたというわけにも行くまい。

 この演奏はライブであることから元来、販売目的で録音されたものとは言いがたいし、また1944年1月、空襲を受けつつあるベルリンにバイオリン独奏者を呼ぶことは難しかったのであろう。それが証拠にこの演奏会の18日後、1月30日にベルリンフィルハーモニカーの本拠地である旧フィルハーモニアは連合国の空襲を受け廃墟と化した。従ってこの演奏は旧フィルハーモニアにおけるほぼ最後の録音といっても差し支えあるまい。

 それにピアニストではギーゼキングやフィッシャーなど、ナチス政権になってもベルリンフィルとの演奏会を拒まない名手がいたが、当時の実力のあるバイオリニストは殆どドイツやオーストリアに残っていなかった。ゲオルグ クーレンカンプとシュナーダーハンは例外であるが後者はウィーンのコンサートマスターでベルリンフィルの演奏会に呼ぶのは非現実的だし、クーレンカンプの一本足打法では限界があったのだろう。それにしてもそんな状況で音楽会を開くというのもなかなかの根性であるが、ドイツ人はソーセージとジャガイモを食い、ビールをのんでいるだけではない、音楽を飲み食いしている民族なのだと思えば何の不思議もない。現に当時の録音の中には連合国の爆撃の音が入っているという(ちょっと聞いただけでは聞き分けられないが)ものがある位である。まるでチャイコフスキーの1812年の現実版みたいである。


 さてこの盤はそうした経緯もあってか、他のベートーベンのバイオリン協奏曲の演奏と比べると、フルトベングラーという稀代の名指揮者が手兵の交響楽団とバイオリニストを媒介にし、時代というスパイスを加えることによって別物の曲になっているような気がする。

 もちろんナチスの支配下におけるフルトヴェングラーという指揮者の存在、ベルリンフィルのあり方などをもって批判する向きもある。現実、ナチスに協力的であったとされる(協力的であったと言うより批判をしなかったという消極的協力であることが大半であるが、結局「批判しなかったこと」が協力する、という意味を生じたのであり、基本的にその解釈は正しい)芸術家は戦後かなり強い批判にさらされた。(先に挙げたピアニストたちやバイオリニストたちはもちろん、フランス人であるアルフレッド コルトーでさえナチスの目前で演奏したという事実があっただけで批判されている)

 ただ、これはなかなか難しい問題で、支配下における芸術はそれが素晴らしいものであればあるほど支配の影響を受けやすくなる、或いは支配者が支配したがるという事実も考慮しなければならない。一般のドイツ国民がナチスを許容する動機、ないし圧力の数倍の力が彼らにかかったことは事実だろうし、得てして芸術家はそうしたときの身の処し方に弱いものである。

 ナチスが音楽・美術・スポーツなどに極めて敏感だったのは事実である。先進国における大方の独裁的支配者(独裁があると言うだけで先進国では無いかもしれないが)はその傾向があり今でもそこここにその現象はみられる。我々としてはそうした芸術家や運動選手が支配のくびきから離れることを願うのみであるが、こと命にかかわることになるので軽々には論じられない。だからソビエト時代のムラビンスキーとコンドラシンの身の処し方(や、ショスタコーヴィチの交響曲への対応)も軽々しく論じるのは難しいと思う。

 ただ今のロシアにおいて公然とプーチンを支持しているプルシェンコほど(この人は自発的にプーチン支持を公言しているように見える)、フルトベングラーにしろクーレンカンプにしろ単純では無いのであり、クーレンカンプなぞは(ユダヤ人である)メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を演奏したりしてそこそこナチスの怒りを買っていたりする。

 彼らが批判される大きな要因は他の音楽家のように亡命できず、ナチス国家にとどまり続けたこと、その一点でナチスを容認したと見られることにある。それが彼らの責任なのか、逃げようのない現実だったのか、よくよく検討するべきであろう。


 という事を前提にして、様々な名演奏があり、かつ著名なヴァイオリニストが散々演奏しているこの曲でなぜこの演奏を選ぶのか、というのはやはり「異常な環境における演奏の持つ不思議さ」なのである。

 現状、僕の手持ちのCDは掲題の演奏を含めて8枚、レコードは1枚でレコードはヨゼフシゲッティとアンタル ドラティ指揮の歴史的演奏(まあこの演奏に関しては様々な意見がありそうだ)、CDはフルトベングラーとメニューインの組み合わせ、トスカニーニ指揮下のハイフェッツの演奏というやはりヒストリカルな演奏を含んでいる。

 だが、この曲での私のお気に入りは掲題の演奏を除けば鄭京和の二つの演奏(コンドラシンの指揮とテンシュテットの指揮のもの)である。クレーメルは相変わらず達者であるが、アーノンクールと組んだベートーベンとモーツアルトについては保留したい。どうもこのバイオリニストは組む相手の影響を受けがちである。アーノンクールは(明らかに意図的に)不思議な演奏をしがちであるが嵌まったときは素晴らしい演奏になる。しかし残念ながらこの曲に関してはそうではなく、従ってクレーメルは違和感を増幅してしまう。(別の項にも書いたが変人同士が変さを「互いに増幅してしまった嫌いがある)この演奏ならばナイジェル ケネディがテンシュテットと共演したものを選びたい。

 他にもオイストラフやコーガン、シェリング、ムターなどの演奏があるのは知っているがどうも敢えて触手を伸ばすほどの気はしない。ミルシテインやグリュミオも(比較的好みのバイオリニストではあるが)この曲については違うなぁ、という感じがする。違わないかもしれないけど。

 また、戦後メニューインとフルトベングラーが歴史的和解のように(なんせメニューインはユダヤ人であるからして)演奏した盤が名演の一つに数えられているが、レーンとの共演と比較すると、私の中ではその二つの演奏が心理的に両立しないのであえて目をつぶらせて欲しい。

 もちろん他の大家の演奏もいずれ劣らず立派なものであるが、いずれにしろ、すべての演奏は掲題の演奏に比べて極めて平和的な響きである。

 ベートーベンの曲は彼の音楽家として致命的な肉体的不幸と相俟ってしばしば悲劇的に語られるが、本質的に悲劇的な曲というのは数少ない。どちらかというと意思が強めに出てくる曲が多く多分に粘着質で付き合いにくい性格を感じさせるが、バイオリン協奏曲などはその中では比較的平和な曲想のものである。

 恐らく何千回、何万回と演奏されてきたであろうこの曲は優れた演奏もあれば凡百の演奏もあろうが、先ほども述べたようにこの戦時における演奏はそれらと同じ曲とは思えない響きがありその響きが僕にとりついてやまないのである。どうもこの時フルトベングラーもベルリンフィルの楽団員も自らの死、and/orナチス率いる第三帝国の死を予感していて、あたかもそのレクイエムのような気持ちでこの曲を演奏していたのではないだろうか。

 これが名演なのかと問われれば、それはよく分からないが最も印象的な演奏であるかと問われれば、間違えなくYESなのである。


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Konzert fur Violine und Orchester D-dur op.61*

Corioran op.62 Ouverture**

Erich Rohn, Violine

Berliner Philharmoniker

WILHELM FURTWANGLER

* recorded live on 12.1 1944 at Philharmonie Berlin

* on 30.6 1943 at the same venue as above

Deutsche Grammophon 427 780-2

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