第4話 ベートーベン ピアノ協奏曲 五番 皇帝 グレングールド カレルアンチェル指揮 

 「名曲というのは何か?」と聞かれたら「名演奏がたくさんある曲だ」と僕は答える。その意味でベートーベンの四番・五番のピアノ協奏曲は間違いなく名曲だ。名曲は様々な演奏家を魅了し、さまざまな解釈を許容し、さまざまな名演奏を生み出す。

 錚々そうそうたるピアニストが彼らの渾身こんしんをこの協奏曲に捧げている。ホロビッツは熟練の指揮者ライナーと共に、壮年期のミケランジェリはスェーデンとパリでチェリビダッケと共に(晩年はウィーンでジュリーニと共に)、ポリーニはベームの元で、そしてアバドと共に、カラヤンとワイセンベルクはスポーツカーが疾走するかの如く、僕の聴いたことのある演奏だけでも到底語り尽くせない・・・。いやそれだけではなく幾多の過去のピアニストがこの曲に挑戦してきたのであろう。

 ピアニストにとってベートーベンの皇帝を演奏する、というのは特別な意味を持つイベントなのだと僕は思う。あの最初の印象的なフレーズ・・・華麗な序奏を弾きだす時に覚える高揚感はきっとピアニストにとって「皇帝」になる瞬間なのだ、とさえ思える。その意味で「皇帝」(もちろんこれは標題音楽ではなく、ベートーベンが付けたタイトルでもないのだけど)というタイトルはこの曲に相応しいのかもしれない。

 その聴衆たちの耳に聞き慣れたフレーズを不思議なテンポで混乱させた演奏がグレングールドであることは誰もが認めるに違いない。だが実際の楽譜を見ればグレングールドのアプローチは別に特殊なものではない。つまり僕らが聞き慣れたテンポは必ずしも作曲家が意図したものだとは限らないのだ。それをまず気づかされる、そのこと自体にこの演奏の最初の意義が存在するのだろう。

 その皇帝の演奏をいくつ持っているか、数えてみた。その結果が下の表である。


ピアニスト            指揮者         オーケストラ


グレン グールド        カレル アンチェル   トロント交響

グレン グールド        ストコフスキー     アメリカン交響 

アルトゥーロ ミケランジェリ  フレシア        ローマRAI

アルトゥーロ ミケランジェリ  チェリビダッケ     スウェーデン放響

アルトゥーロ ミケランジェリ  チェリビダッケ     ORTF

アルトゥーロ ミケランジェリ  ジュリーニ       ウィーン交響

マウリツィオ ポリーニ     カール ベーム VPO

マウリツィオ ポリーニ     クラウディオ アバド   BPO

ヴィルヘルム バックハウス   クナッパーツブッシュ   BPO

ヴィルヘルム バックハウス クレメンス クラウス   VPO

ヴィルヘルム バックハウス   インセルシュテット    VPO

アレクシス ワイセンベルク   カラヤン BPO

クリフォード カーゾン     クナパーツブッシュ   VPO

エミール ギレリス       クルト マズア ソビエト国立交響

エミール ギレリス       ジョージ セル     クリーブランド

ロベール カサドゥシュ     ベイヌム        コンセルトヘボウ

ロベール カサドゥシュ     ハンス ロスバウト   コンセルトヘボウ

ウラディミール ホロヴィッツ  フリッツ ライナー   RCAビクター

アルフレッド ブレンデル    ジェームズ レバイン  シカゴ

マレイ ペライア        ハイティンク      コンセルトヘボウ


(BPOはベルリンフィル、VPOはウィーンフィル、コンセルトヘボウはアムステルダム コンセルトヘボウ/ロイヤル コンセルトヘボウの双方、実質は同一 ORTFはフランス国立放送)


 これだけの素晴らしいピアニストと名指揮者・オーケストラの組み合わせによる演奏が残っていて、しかしなお、未だに「皇帝」は征服され尽くされていない曲である。その高みの行き先はエヴェレストより高く、深く、複雑な道のりであり多くのピアニストは何度となく、その高みを目指し挑戦している。そのすぐ傍らにはK2にも似た4番が控えている。


 ベートーベンの第4番、第5番は性格の異なった曲であるが、一つ大きな共通性があって、それは曲の冒頭からピアノが登場すると言うことだ。3番の協奏曲でピアノが登場するのは曲が始まってから約3分30秒後、即ち曲全体の1/10が終わってからである。5番に関しては序奏という性格もあるが、独奏楽器を前面に出すという手法は極めて新鮮な手法であり、4番とほぼ同時期に作曲されたバイオリン協奏曲は従来通りの構成で作られた事を考えると、自らもピアノを演奏するベートーベンだからこその挑戦であったと考えることが出来るのではないか。

 とりわけ第5番の序奏部分はあらゆるピアニストに取って「そのつかみによって演奏会を支配することのできる」部分であり続けている。故に最初の独奏の弾き方はピアニストに取って主張の場であり、聴衆を「つかむ」場でもあれば、その後の展開を考えて敢て冷静に「つかまない」場でもある。

 その掴みで強い主張をしたのはグレングールドであり、ベネデッティミケランジェリであった、と僕は思う。そして僕は敢えなくこの二人に頸を捕まれた子猫のようになっているのだ。

 グールドの演奏する演奏は二通りあって、どちらも素晴らしい演奏であり、一般的には華麗な指揮とオーケストラに彩られるストコフスキーの指揮する盤の方を推薦する人が多いと思うが僕としてはチェコの名指揮者であったアンチェルが指揮した盤を推したい。それは演奏云々というよりもこの演奏の偶然性と奇跡的な成立も考慮に入れているからである。そもそもグールドは1964年以降、基本的にピアノ協奏曲の演奏を公演、録音共に行っていない。(1966年のストコフスキーとの「皇帝」と1967/9のゴルシュマンとのバッハの協奏曲は契約上のコミットメントで忌避できなかったらしい)有名なバーンスタイン・ニューヨークフィルとのブラームスのニ短調協奏曲の開演時にバーンスタインが

「安心してください。グールドは来ています」

 と、どこかで聞いたような発言をしたのはグールドがパンツを履かないという・・・いやミケランジェリと同じくらいにコンサートをキャンセルしまくったという事が聴衆にも良く知られていたせいである。取り分け彼は共演相手が安定しない「協奏曲」というジャンルを嫌っていたらしい。これはミケランジェリがチェリビダッケ以外の指揮者との協奏曲をやはりキャンセルしまくったのとよく似ていて、演奏者の心理としてはわからないでもない。それを克服して演奏するのもプロであれば、それに拘って演奏しないのもまたプロであるとしか言い様がなく、結局は判断はその事情を理解する聴き手に委ねられるのである。

 真逆のピアニストがマルタアルゲリッチであり、彼女は基本的にどんな指揮者とでも、どんなオーケストラとでも協奏曲を拒まない。但し、大きな例外がカラヤンとベームとウィーンフィル(最後の管弦楽団とはついに部分的に和解したようだが)であり、例外のでかさにその強い主張を感じることが出来る。


 それにしても、このアンチェルとの共演はトロントの放送局の企画でそもそも独奏者として予定されていたのは「あの」ベネデッティ ミケランジェリであった。その企画の担当者であったジョン バーンズに向け、演奏会の二日前にグールドは冗談ぽく、とはいえどんなつもりで「もし(ミケランジェリによる)不履行があったなら出ていっても好いぜ」と言った物なのか。そしてバーンズは「分ったよグレン、街にいてくれよ」と答えたのだろうか。そして、気難しいミケランジェリがトロントに到着したにも拘わらず、駄々っ子のようにぐずりだしてついにキャンセルを言いだしたとき、ジョン バーンズはグレングールドに電話を掛ける。


"Glen, you're on"(グレン、君の出番だ)

"What do you mean 'You're on'?"(”君の出番”って、何の話だ?)

"You said you'd do the Emperor Concerto for us"(僕らの為に皇帝協奏曲をやってくれると言ったじゃないか)

"You're kidding"(冗談だろ?)

"No, I'm not"(いや、真面目な話だ)

"My God, just think that the Number One pianist is going to substitute for Number Two"(なんてこった。世界で1番のピアニストが世界で2番めのピアニストの代演をやれってか?)


 そんなやりとりを経て、この演奏が成立したのだ。外盤のライナーノーツにはこういう話が横溢していて大変面白い。とりわけグールドの演奏に付されたライナーノーツは配給元に拘わらず興味深い物ばかりである。

 ミケランジェリの事を自分に次ぐピアニストだと言っているのは相当の尊敬をもって彼を評価していることの表れでもあろう。ちなみにグールドを外したときにどの演奏を選ぶかと聞かれたとしたなら、カサドゥシュ、ポリーニ、バックハウス、ホロビッツとの間で激しく迷いつつ、やはり僕もミケランジェリを推すことになると思う。とりわけチェリビダッケと共演した二つの演奏はかなり性格が(演奏スタイルも録音スタイルも演奏時間も)違うが、どちらもこの曲の屈指の演奏と言って差し支えがないだろう。カペルがこの曲を演奏していたら、どのようになったか、という「もし」は留保したいが、グールドとミケランジェリで6種類の演奏を聴いた結果として、ほぼほぼ妥当な結論だと思う。だからといってホロビッツやカサドゥシュ、ポリーニの演奏が劣っているというわけではない。それぞれ素晴らしい演奏であり、それに付随する様々なストーリーが存在するのだ(ろう)が、全てをひっくるめて、僕はグールドの序奏に札を入れるのだ。

1970年の演奏なのにモノラルだし、放送用の録音なのに音はかなりデッドで、広がりもダイナミックさにも欠けるが、演奏の経緯を聞けば、ピアニストも指揮者もオーケストラも殆ど音合わせも出来ずに演奏に臨んだことを想像するのは難くない。そのピアニストは事もあろうに、協奏曲嫌いの我が儘男であるにも拘わらず、この演奏の質の高さはなんであろうか?

指揮者にも敬意を表したい。アンチェルはスメタナやドボルザーク、ヤナーチェックといった東欧の作曲家の演奏しか聴いたことのない指揮者であるが、トロント交響楽団というめったにレコードの録音もないオーケストラ(僕も以前レコードで購入した小澤征爾さんの指揮した武満徹のノベンバーステップしか記憶にない)をよく指揮して、音は薄めではあるもののしっかりとした構成を作り上げている。いろいろな悪条件をもっているが、この録音が成立した経緯を「ソース」として味わうと何回聞いても飽きの来ない演奏で、なんといってもあのめちゃくちゃ気難しいグールドが率先して録音した演奏である(嬉しげな)貴重さが、ピアノの音の端々ににじみ出ているのだ。一楽章のコーダにかけて独奏部分を猫背で、大切な物を触るように演奏している姿が浮かんでくる。二楽章は多少緩んでいるが、終楽章では凄まじい集中力と語りかけるような優しい指使いが両立しながらnever endingを祈るようにしつつ終末に進行していく。歴史的な録音と言って差し支えないであろう、そう思う。



*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Concerto for Piano and Orchestra No.5 in E-flat major, Op.73 "Emperor"

RICHARD STRAUSS

Burleske for Piano and Orchestra in D minor*

Toronto Symphony Orchstera / Karel Ancerl Vladimir Golschmann(*)

SONY SMK 52 687



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