第3話 ベートーベン ピアノソナタ 月光 ウラディミール ホロヴィッツ

 クラッシック音楽を聴いて泣いたことがありますか?

 寅さんの映画を観ながら不覚にもホロリと泣いてしまうのに、ぼくらは何故クラシック音楽を聴いて泣くことはないのだろう?芸術と言うものが人の感情に訴えかけるものだとしたら、寅さんの映画よりクラシック音楽の感情に訴えかける力が弱いのだろうか?

 歌謡曲やJPOPでも感極まって泣いたり笑ったり、興奮したりする人はいる。ロックならなおさらだ。クラッシック音楽は・・・そうした音楽よりも感情に訴えかけないのだろうか?もっともクラッシックコンサートに行って、皆が泣きながら出てきたり、健さんの映画を見た後の様に胸を反らせて出てきたりしたら・・・。それはそれで怖いものがある。


 要は芸術とは抽象的であればあるほど感情に到達する時間が長い代わりに、深く浸みこむ、そういうことなんだろう、と僕は考えている。瞬間的に感情を揺さぶる場面はよほどのことがない限り、すなわち現実そのものでない限り翌日には忘れ去られている。任侠映画を見て胸を反らして闊歩していた兄さんも翌日になれば、通勤電車に揺られてしけた顔で会社に向かっている。ロックコンサートで腕を突き上げていた若者も翌日にはコンビニのレジでつまらなさそうに会計をしている。代替の経験による感情は一旦激しく解放されることによってストレスを駆除する。それはそれで意味があるのだと思う。夢が見た先から忘れられていくように、何らかの意味がそこにはあるのに違いない。

 素晴らしい音楽はいつまで経っても耳元から離れることはない。

 小林秀雄が何かのエッセイでモーツアルトの40番交響曲が耳元で聞こえるというような話を書いていたことがあるが同じ経験をした人はたくさんいるだろう。先だってドボルザークのチェロ協奏曲を何枚か聞き比べたおかげで、暫くの間散歩をしている最中ずっと僕の耳元であの曲が鳴り響いていた。そして青山通りを歩きながら僕はボヘミアの暗い森を瞼に思い浮かべていたのだ。

 僕自身クラッシック音楽を聴いて泣いたことは滅多にない。ドボルザークの切々としたあの響きに音楽家の故郷を思う気持ちをどれだけ感じようと、その音楽は既に涙を誘う以上に昇華してしまっている。

 そんな僕だが、一度だけ音楽を聴いてほろりと涙したことがある。まだ思春期の頃で、もしかしたらその音楽そのものに涙したというより音楽に誘われた別の何かを思い出して涙したのかもしれないが、涙を流したという事だけは鮮明に覚えている。その曲と演奏がホロビッツによる月光ソナタである。


 そもそもこの曲はSonata quasi una Fantasiaという副題を持っていて幻想曲風ソナタであり、「悲愴」や「熱情」と違って「月光」と言うタイトルも作曲家自身が付したものではない。だから楽譜を見ても月光の文字は見当たらないのである。(ベートーベン自身がそもそもソナタ形式を意識して書き始めたのかも疑問であり、特に一楽章は幻想曲として頭に浮かんだものかもしれない。だが第三楽章まで纏めて聞くと確かにソナタである。ベートーベンのピアノソナタはそもそもソナタとしてかきはじめられたものではないものが幾つか交っている)

 三楽章形式のどこか歪な形をしたこのソナタは、でも時に「クラッシック音楽」としては素晴らしく感情を揺さぶる力がある。

「秋茜集う丘 勇魚哭く海」という小説で特攻隊として先陣を切り戻ってこなかった久納好孚中尉が特攻に赴く前の晩に月光ソナタを奏でるという場面を描いた。その時ピアニストとしての技量はともかく(久野中尉がピアノを弾けたのは確かであるがホロビッツほどに上手ではなかったであろう)、音色はホロビッツの月光ソナタを思い浮かべながらその場面を描いた。それは戦場の場面であり、翌日には彼は特攻で命を散らす運命にある、南の島で降るような星を湛えた空に月が輝いている。その下で彼の右手はあの耳について離れない三連符を奏でるのである。翌日はその同じ指で操縦桿を握る運命にあるのに・・・。


 ホロビッツの月光は淡々としたテンポで始まる。指はゆっくりと音符を奏でていく。窓の外、水の上に映る月がさざなみに揺れるさまのように。過去を思い浮かべ、しみじみと、そして淡々と音は進んでいく。それは死を前にした詩人の呟きの様にも聞こえる。

 第二楽章の跳ねるような音階もやはり淡々と始まり、淡々としたまま短い楽章を終える。三楽章の走るようなメロディも大げさではなく、左手で弾かれる和音も程よく、品よく多少リズムが詰まり気味のところもあるがそれが抑えた感情の吐露のように聞こえる。涙を堪えているようにさえ思える。僕にとってその音に重なる絵はやはりこの演奏を聴いた頃に読んでいた、若くして死んだアルチュールランボーがアラビアで「大熊座」を眺めて詩を呟いている姿だ。

 この録音の時、ホロビッツは69歳、そろそろピアニストとしては衰えを見せてもおかしくない歳で、そうした評もあったと記憶する。(もっともそのあと、グラモフォンに移籍してモーツアルトのソナタをリリースした際も同じような評が出て、とにかくヴィルトゥオーゾタイプのピアニストには「衰え」という評価はつきもののようである。過去の技量が高いほど、その技量のどこかの「衰え」を探し出すのは評論家の性なので致し方なくはあるが)来日した時に「ひびわれた骨董」と吉田秀和が批評したのは有名な話であるが、ひび割れても骨董は骨董であり、こわれたガラクタとは一線を画すものである。そもそも83歳の老人が飛行機に乗って見知らぬ国にやってきて絶好調、というわけにはいくまい。

 ホロビッツはホームランを量産できなくなったバッターが広角打法でヒットを量産するように、直球勝負だったピッチャーが、緩いカーブを交えて打者をきりきり舞いさせるような懐の深いピアニストである。そこには確かに若い頃の才気漲った、魔人のようなテクニックはないかもしれないが、それに代わる音の深みが存在する。それは晩年グラモフォンに録音したモーツアルト、シューマンやシューベルトを聞けば分かることだと思う。

 これらの演奏を聴くと僕はKazuo IshiguroのRemains of the dayにある一節を思い出す。主人公の父親が庭での給仕中に転倒し、そのわけを探るために庭の敷石に不具合がないかを確かめる。その一心不乱な様子を主人公の下で働いているMS.Kenton(当時はMiss.Kenton)が"as though he hoped to find some precious jewel he had dropped there"(まるで落としてしまった何か貴重な宝石をみつけられないか、と願っているように)と表現する。その表現がまさにホロビッツの演奏と重なる。どこかに失ってしまった貴重な宝石をみつけられないか、願っているかのように彼の指は音を探っていく。

 小説では主人公と彼女は歳を重ね、対立していた頃の共有した思い出の姿を手紙で語り合うのだ。果たして僕らはこれらの録音を聞きながら、彼の晩年の姿を永遠に共有することができるのだろうか。音楽という主人に奉仕した偉大なbatlar(執事)の姿を脳裏に刻んでおくことはできるのだろうか?


 話が少し逸れてしまった。

 さて他の演奏家の「月光」はどうであろうか?

 まず、ベートーベンと言えば最初に(僕らの年代で)思い浮かべるのはバックハウスの演奏であろう。演奏は二種類聴いてみた。まずはOrfeoというレーベルから出ている1968年8月10日ザルツブルク音楽祭での演奏である。

 第一楽章のバックハウスの演奏の月光は石細工の上に冴え冴えと佇む月の光である。バックハウスの拘りは右手の動きで、テンポと打鍵の強さを決して変えない。その正確さはまるでスイス製の時計の様で、途轍もない意志の強靭さを感じさせる。逆にその拘りに耳が集中してしまうということもあるが、「これはこれであり」と感じさせるのがバックハウスのすごい所である。それもスタジオ録音にもならずライブの演奏でこれができるというのは物凄い研鑽を摘んでしか成しえない「技」である。曲を聞けば聞くほどバックハウスの広い背中が目に浮かび、その広い背中に裏打ちされた技術、金物打ちの職人マイスターのように正確無比にリズムが刻まれる。

 ロンドン(Decca)から発売されている全集におけるバックハウスの演奏は1958年のもので、オルフェオ版に比較するとずいぶんと抒情的リリックな部分が残されている。一楽章はオルフェオ版に比べゆっくりと、テンポも揺れており、三連符も特徴的に耳につくほどではない。一楽章の終わり方などはかなり意図してゆっくりと弾き終えている。三楽章の右手の独特的な動かし方は、左手の演奏から突き抜けてくるような印象を与え、細かい工夫が感じられる。三楽章はオルフェオ版より作曲者の指定通り随分と早いが弾ききっている。全体としてバランスの取れた演奏で、ベートーベン弾きとしてのスタンダードが長年、バックハウスに帰されていたのはよく理解できる。ただ、バックハウス盤のどちらを選べと言われたら僕はオルフェオの方を選ぶだろう。良くも悪くも緊張感にみちたライブ演奏の魅力にひかれるからだ。

 ピレスの盤は旧い方の演奏でエラートから出ているものだ。この月光は、風に揺れる森の木陰から仄かにのぞく月光である。月影は揺れ、光も瞬く。女性的な感情の穏やかな起伏が見える。ただ、このピアニストは手が小さいのか、少なくともこの録音時に置いて第三楽章が弾き切れていない。自ら設定した速さに手が追いついていない。Prestoという作曲家の指示に従ったのだろうが、誰よりも早く(たいていの演奏家は6分から7分少し掛けているのにこの盤では5'50")で弾いているがそこまで早く弾く必要はないのではないか。新盤は聞いていないので評価できないが、どうなっているのだろうか。

 ポリーニの演奏は完璧である。どこをとっても文句の一つつけようのない演奏である。一方でこの演奏に月はない。敢えてここに月を探すなら、天体望遠鏡で月の表面を見ているような演奏である。もともと月光は標題音楽ではないのだから「月」はなくてもいいと言えば言えるのだが。不足を言えば・・・この盤にはたまたま「悲愴」「月光」「熱情」という有名な三曲が収められているのだが、全てが同じ風に聞こえてくるのだ。いわゆる「ベートーベンのソナタの一つ」なのだ。それで正しい側面もあるのだが、感嘆はすれど涙は出ない。しかし・・・とにかく技巧が素晴らしいのは特筆に値する。その技巧に遮られてむしろ曲それぞれの姿を聞き手に迷わせてしまうのは何故だろう?これは演奏と言うもののある意味、一つの課題を突き付けているような気がする。ポリーニは最初に30番から32番のソナタを演奏したものがあるけれど、その時若々しい詩人のような演奏に感動した覚えがあるのだが・・・。とはいえけちをつけるにはあまりに完成された演奏である。これはやはりこの曲の代表的な演奏の一つである。

 キーシンの演奏は月の映る水辺にナルキッソスが己の姿に見惚れているような趣がある。とりわけ第一楽章が(かなり遅めのホロビッツの演奏に比較しても)ゆっくりめのテンポで弾かれていく。それにしても一番遅いポリーニの演奏よりも遅く感じるのはなぜだろうか。第二楽章は、ナルキッソスが己の姿を人に見られたのを恥じ飛び跳ねるような軽快な音になるのだが、それでもなお、どこか曖昧な微笑みを湛えているような媚態を感じてしまう。特に最後の音をやや思わせぶりに遅く打音するのは気になる。第三楽章はそういう技巧が余り許されないテンポなので、むしろ心地よい。とても上手なピアニストなので、その気になる癖がないほうが良いと思うのは僕だけだろうか?カップリングされているブラームスの”パガニーニの主題による変奏曲”は良い演奏だ。というか、この曲の方がキーシンには適しているのかもしれない。

 ノイハウスは世間であまり知られているピアニストとは言えないが、ギレリスやラドゥ ルプーなどを育てたピアニストで名前の通り、家系はドイツでロシアへの移民の子孫である。最終的にはロシアへ帰国したものの、ドイツやオーストリアに住んだこともあるらしい。彼の月光は暗い油面の夜の海にさす月光である。バックハウスと対照的に右手の音は柔らかくテンポも規則的には感じさせない。バックハウスが石工のように音を切り出していくと例えるなら、ノイハウスは暗い海で魚をすなどる漁師のようである。これもまた一つの趣であるが、残念ながら録音が余りよくない。また三楽章が若干、弾き飛ばしている感じが残る。とにかく、このpresto agitatoの指定のある三楽章と言うのはまさに煽るように右手も左手も忙しく、ついつい弾き飛ばしていく感じが出やすい。この演奏が弾き飛ばしているように感じられるのは録音のせいもあるのだろう、実際の演奏はもう少し空気の中に音が残っているような気がするのだけれど。

 ルドルフゼルキンの演奏は聞き始めた瞬間、テンポが非常にゆったりだと判る。今まで紹介してきた中で第一楽章の演奏時間ではポリーニの6'22"が一番遅めのテンポなのだが、ゼルキンはそれをやや超え、6'28"である。

 音からでさえピアノの鍵を見詰め確かめながら弾いていく姿が見えるような気がする。その姿はあたかも求道者のようで、その指から流れる月の光は砂漠に上がる澄明な月である。ゼルキンは好きなピアニストの一人でとりわけ、シューベルトの演奏が素晴らしい。だがゼルキン自身はベートーベンに拘りがあったような気がする。晩年に後期のソナタを演奏したのは、ようやく自分もそのソナタを録音する歳に至ったのだと感じてのことであろう。そこに至る過程の一つとして弾かれた三大ソナタは砂漠の道を行く求道者の立ち寄ったオアシスのようである。三楽章の弾き方もさすがと言わせる技巧を持ち合わせていて素晴らしい。すべての音符が過不足なく流れてくる。


 さてもう一度ホロビッツに戻ってみよう。

 ホロビッツはヴィルトゥオーゾの系譜にあるピアニストと考えられている。バイオリンのパガニーニやピアノ演奏家としてのリストを始祖とした「悪魔的に技巧の高い演奏家」の系譜にある。従って聴衆は「悪魔に魅せられること」を望んで聞き始める。ホロビッツ自身も後述するようにライブでの録音が多いピアニストで、基本的に「大向こうを相手に唸らせる」のが好きなピアニストである。

 確かに彼の若い頃の演奏はいい意味でのやんちゃさを持っている。1943年の録音トスカニーニ、NBC交響楽団とのチャイコフスキーのピアノ協奏曲の演奏で、第一楽章からホロビッツはノリノリで弾き始めていく。既に義父と彼の指揮するオーケストラと闘う気は満々だ。分厚い和音を軽々と弾きこなし(その頃のライブでは良く聞くことであるが第一楽章が終わると聴衆は拍手する)喝采を受ける。第二楽章ではまるで暴れ馬のギャロップを見るような早いパッセージでピアノパートを弾いていく。このあたりでNBCの楽団員はちらちらとピアニストの方を心配そうにみているのではないか。ただでさえテンポの速いトスカニーニのさらに上を行くピアニストのテンポはいったい何なんだ?と。この時楽団員の心の裡には1941年同じカーネギーホールでの演奏が蘇っていたのではないだろうか?1941年の交響楽団(NBC symphony)を含めた同じ組み合わせの演奏では更に圧倒的なピアニズムが発揮されている。マイクの位置のせいもあるのだろうが、とにかく最初からピアノが圧倒的な存在感を放ってオーケストラを抑えつけている。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲は全体で32分から39分くらいで演奏されるのが普通で、他の演奏家で見ると若い時のアルゲリッチがマゼール、ベルリンフィルと組んだ演奏がかなり速い演奏だと思うが、この第一楽章が17'47"(全体で33'46")だが、ホロビッツは17'34"(全体で29'28")で弾き切っている。とにかく速い、早くてピアノの存在感が途轍もなく大きい。それがどんどん加速されていき、第二楽章、第三楽章ではオーケストラがもはや足並みを揃えるのに精一杯である(それでもついていったオーケストラも凄いのだが)第三楽章辺りでは弦楽器の奏者は腕がもげそうになっていただろうが、管楽器は更に大変だっただろう。高速ピアノについていくべく真っ赤な顔でクラリネットやオーボエを吹く団員の顔が見えるような気がする。それなのに、ピアノは複雑な音符を完璧に弾ききっているように聞こえるのだ。それが凄い。こういう演奏は作曲者の意図した「曲に内在するもの」と別の陶酔感エクスタシーもたらすから敢えて評価をしない人もいるだろうが、単に音楽としてもやはり凄いのだ。1943年の録音では、さすがにそこまでではないものの、NBCの楽団員はそれなりの苦行を強いられている。まるでトスカニーニとホロビッツの対立に巻き込まれた苦行僧のように。

 同じトスカニーニとの組み合わせでもブラームスの協奏曲ではそれほどピアニストと指揮者の対立を感じられないので、チャイコフスキーの協奏曲の「曲」としての性格もあるのだろう。たしかにチャイコフスキーの曲にはオーケストラとソリストを”競争”させる要素がある。それはバイオリン協奏曲でも感じる。チャイコフスキーは協奏曲における一つの「考え」を持って作曲していたに違いない。

 その意味ではラフマニノフの二番辺りも聞いてみたくなるが、残念ながらその演奏はない。別の共演者ではあるが三番は二度録音しているのに。ホロビッツは二番をどうして録音しなかったものか。猫のようなピアニストは猫のように戦いをする縄張りがきちんとあって、その中には「皇帝」や「チャイコフスキーの一番」「ブラームスの二番」「ラフマニノフの三番」はあるけれど「ラフマニノフの二番」はなかったのだろう。ラフマニノフの三番は二番より、ピアノが中心に居座っている曲だからホロビッツの眼鏡に適った曲だったとも思える。


 共演という点では、ホロビッツは指揮者との相性が極めて重要なピアニストで指揮者を選ぶタイプだ。そして相性は演奏にはっきりとその表情が出る。どのタクトでどの指揮者と演奏してもそのテクニックは凄いのだが、表情は違う。トスカニーニの時は好戦的な、オーマンディとの時はやや退屈そうな表情が出る。一番相性の良いのはフリッツライナーとだろう。ライナーと言うのは非常に切れの良い指揮をする人でオーケストラに対してはディマンディングで厳しい指揮者のようだが、共演の時は相手を最大限にリスペクトする傾向のある指揮者のようだ。ホロビッツが心地よさそうに演奏をしているのが分かる。彼の技巧を聞きたければそれを極限まで挑発しているトスカニーニの指揮、彼の音楽性を楽しむならライナーの指揮、そんな感じである。ライナーと演奏したラフマニノフの三番は(たぶん)スタジオ録音ながら、ライナーの美質とホロビッツの天性が重なって、聴衆が居ようといまいと、二人で盛り上がった名演奏だ。だが協奏曲に関しては極めて作曲家と曲を絞っている。ベートーベン、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフ、それらが彼の土俵であり、それ以外の土俵には滅多に乗らない。

 ソリストとしてのホロビッツは、協奏曲に比較すればそこそこ様々な作曲家を演奏している。たしかにバッハは殆どない。(彼にはバッハを彼自身が演奏する意味を感じなかったのだろう)ドビュッシーやラベルは見たことがない。(フランス人はお気に召さないのだろうか?)モーツアルトも決して多くはないし、現代曲は全く見ない。こう書いてくるとやはり偏食っぽい・・・か。意外なのは他のピアニストに比してドメニコスカルラッティとスクリャービンが多いことだ。(この二人に共通する要素は少ないと思うのだが)

 その上弾く曲はやはり偏っている。同じ曲を二回録音しているのに(シューマンの「子供の情景」、クライスレリアーナやシューベルトのD960 ソナタなど)シューベルトについてはD958,D959や「さすらい人幻想曲」はない。何かの基準があるのかもしれないがその詳細は寡聞にして知らない。

 ベートーベンのソナタだって、決して数は多くないしハンマークラヴィア以降の後期の作品は一曲もない。全ての曲を弾くピアニストもいれば、平然と曲が偏るピアニストもいる。ホロビッツは後者であり、そのことを恬として恥じる風情はない。ムソルグスキーの「展覧会の絵」やラフマニノフのピアノソナタなどを聞いてその凄さに圧倒されない人はいないんじゃないか、と思う。こうした演奏を聴くと彼の血に母国であるロシアの情景が流れていることが分かる。もっともそれをホロビッツが喜んでいるのか分かりにくい。というのは年を取ればとるほどロシア系の作曲家の演奏が少なめになっているからで、それが技巧上の問題なのかメンタルな問題なのか、僕には判断がつかない。


 彼の録音は他の演奏家に比べて圧倒的にライブレコーディングが多い。ライブはスタジオ録音と異なり修正することができない。それでありながら、あの「展覧会の絵」を、あの「チャイコフスキー一番」を演奏してしまうホロビッツは正に魔神である。

 一方でスタジオ録音で演奏されたこの月光ソナタは、彼がそれだけのピアニストではないことを雄弁に物語っている。ホロビッツはやはり優秀な芸術家の持つ多面性を有した人であり、単なるピアニストではない、チャイコフスキーのコンチェルトとこの月光の二つが同じ人の演奏と聞いて、技術が衰えたと感じるのか、その多面性を評価するのかは人によるのだと、僕は思っている。




ホロビッツの演奏

*Ludwig van Beethoven

Piano Sonata No.14 in C-sharp minor Op27 No.2 "Moonlight"

Piano Sonata No.21 in C major Op.51"Waldstein-Sonata"

Piano Sonata No.23 in F minor Op.57"Appassionata"

Sony Classical SK 53467

*Modest Mussorgsky

Pictures at an Exhibition

By the Water

Piotr Ilich Tchaikovsky

Concerto No.1 Op.23 in B-Flat Minor recorded on May 6&14 1941

NBC Symphony Orchestra Arturo Toscanini(conductor)

RCA GD 60449

* Piotr Ilich Tchaikovsky

Concerto No.1 Op.23 in B-Flat Minor recorded on April 25 1943

NBC Symphony Orchestra Arturo Toscanini(conductor)

Ludwig van Beethoven

Concerto No.5 "Emperor" Op.73 in E-Flat

RCA Victor Symphony Fritz Reiner(conductor)

RCA GD 87992

*Johannes Brahms

Concerto No.2 Op.83 in B-Flat

NBC Symphony Orchestra Arturo Toscanini(conductor)

Intermezzo Op.117 No.2 in B-flat Minor

Frantz Schubert

Impromptu D899/3 Arranged in G

Frantz List

Au bord d'une source / Sonetto No.104 del Petrarca / Hungarian Rhapsody No.2

RCA GD 60523

*Sergei Rachmaninoff

Sonata No.2 Op.36 in B-Flat Minor / Moment musicale Op.16 in E-flat Minor / Prelude Op.32 No.5 in G / Polka V.R

Concerto No.3 Op.30 in D Minor

RCA Victor Symphony Fritz Reiner(conductor)

*Sergei Rachmaninoff

Concerto No.3 Op.30 in D Minor

New York Philharmonic Eugene Ormandy(conductor)

Sonata No.2 Op.36 in B-Flat Minor

*Wolfgang Amadeus Mozart

Piano Sonata in B flat Minor K.281

Piano Sonata in C major K.330(300h)

Piano Sonata in B flat major K.333(315c)

Adagio in B minor K.540

Rondo in D major K.485

*Franz Schubert

Piano Sonata in B flat major D960(op.posth.)

Robert Schumann

Kinderszenen op.15



ピアノソナタ月光(視聴済み)の一覧

*Wilhelm Backhaus Orfeo C300 921 B

*Wilhelm Backhaus Decca 433 882-2

*Mario Joao Pires Erato 55034

*Maurizio Pollini Deutsche Grammophon UCCG-70002 442 9747

*Evgeny Kissin RCA 09026 68910 2

*Heinrich Neuhaus Harmonia Mundi 1905 163

*Rudolf Serkin CBS MYK 42539

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