暗夜に灯火を失わない

@kinonosita

暗夜に灯火を失わない

 肩書きというのは社会で生きていくうえで重要なファクターだ。

 肩書きを知ることはどのような人間なのか、その輪郭をつかむことができる。

 社会人、学生、専業主婦、フリーター。様々な肩書きがあれど、社会から疎外されている肩書きもある。


 家から一歩も出ず、生活用品は全て宅配頼み。生活は昼夜逆転、働かず一日中ネットサーフィンを行い、お腹が空けばスナックパンを食す。


 これこそ社会から疎外された『ニート』かつ『引きこもり』の実態である。


 大学を卒業後、食品メーカーに入社し業務量の多さやパワハラに耐えること3年。思考停止しながら仕事をしていたら、ある日何かが邪魔をするように部屋から外へ出られなくなった。明日が来ることへの絶望感、不眠症状、食欲不振が出ていたが何でもない振りをしていた矢先のことだった。もう限界だった。部屋から出られなくなった次の日、わたしは職場へ辞表を提出した。


 辞表を提出したその夜、時間に反して覚醒している頭をもたげて、インターネットのうつ病診断テストを受けた。「うつ病の傾向が疑われます。早めに医師に相談してみましょう。」と表示されたスマートフォンを見つめる。こんなのでわたしの何がわかるっていうんだよ。この部屋から出られないのであれば病院にすら行けない。上京して7年目、大学生の頃から住み続けているこのワンルームはわたしの生活の全てになった。


 仕事を辞めたところで人生は続いていく。仕事をしていた時の貯金はあれど、減っていく一方だ。貰えるものは貰っておきたい。しかし家から出られないことがやるべきこと全てにおいて弊害を生んでいた。

 玄関の前に立つ。サンダルをつっかけ、ドアノブを握る。ゆっくり捻ろうとするも、心臓が早鐘を打ち始める。治まれと思えば思うほど、冷や汗とともにドアノブを持つ手が震える。今日もドアは開けられない。その場に座り込みながら、波が静まるのを待つ。


 なんでこんな思いをしながら生きなければならないんだろう。仕事も辞めてしまって、家から出られなくて。わたしはみんなが乗っているレールから外れてしまった。お先真っ暗じゃないか。そう考え出すと頭にもやがかかったようになって、何にも考えられなくなる。死にたいなあ。うわごとのように呟いてもペットボトルやスナックパンのゴミが散乱したワンルームへと吸い込まれていくだけだ。静まった動悸に安堵しながら、ぼやけた思考を振り払うようにベッドへダイブする。タイミングよくスマートフォンに光が灯ったことに気づき、慣れた手つきで操作する。


 〈パワハラ御社をやめました!これにてニート及び引きこもりになります〉


 辞表を提出したその日にわたしはSNSに辞めた旨を投稿した。このアカウントは数年前から稼働しており、会社の愚痴や人生を諦観する内容の投稿をしていた。フォロワーには同じような境遇の人がおり、辛い時はお互いを励まし合いながら働いていた。


 投稿は普段より多くのいいねが寄せられていた。画面をぼんやりと見つめながら、数年前に『お気に入り』から『いいね』へ名称が変化したことを思い出す。今まで気にもせずに『お気に入り』に入れていたものが急に意味を持ってしまった気がして、あれから投稿に反応することを少し躊躇うようになった。仕事を辞めたことのなにが『いいね』なんだ。他のSNSに迎合しやがって。通知欄をタップする。すると『いいね』以外の反応をする、見覚えがあるアイコンが目に入ってきた。


 〈同志になりましたね、今後ともよろしくです!〉


その子とは自分がアカウントを作成した当初から相互フォローだった。年齢は20歳くらいの女の子。彼女もまた、人生を諦観している一人だった。昔流行ったアニメのアイコンをタップして、プロフィール画面を開く。


〈今日も天井を見つめていたら一日が終わってた〉〈海行きたい〉〈死にて〜〉


 わたしは彼女のことをSNSでしか知らない。だが、彼女が投稿する内容はどれも共感できるものばかりだった。自分だけが生きているのではないかと錯覚する夜更け過ぎ、彼女のアイコンが流れてくると不思議と安心するのであった。そうやってやり過ごすことができた夜がいくつあっただろう。顔も名前も知らないけれど、わたしたちは深く繋がっていた。わたしは送られてきたリプライへ『いいね』のハートマークを押した。


[newpage]



 午前2時。冴えきった身体に夏の落とし物のようなぬるい風を浴びる。

 この時間になるとわたしは窓を開けて灯りを探す。偏見を承知で述べるが、この時間に起きている人はわたしと同じような『引きこもり』や『ニート』が多い。社会に嵌まらない者同士で線香花火のように弱い灯りを集めて何とか光を保ち続ける。孤独と死にたさを紛らわすよすがを見つけ出すため、灯りを探すのだ。


 しかし、周りの家々は闇を纏ってどこも死んだように静まりかえっていた。ひたひたと忍び寄るように闇はわたしのような弱い光を簡単に呑み込もうとする。


 眠れない夜を助長させるとわかっていても、光を求めスマートフォンを開く。この時間は投稿数がぐっと減る。


 誰か、誰かいないか。

 リロードを繰り返して出てきたのはこの時間に見覚えのあるアイコンだった。


 〈今までありがとうございました〉


 薄幸そうな女の子が笑顔を見せるアイコンとは裏腹に、いつもとは毛色の違う投稿が下りてくる。

 不安を煽るような文には配信サイトのURLがついていた。


 心臓が不自然な音を立てる。アイコンをタップして、プロフィール画面を開く。間違いない。彼女だった。

 URLを恐る恐る開くと、暗がりの中で何かが蠢いていた。目を凝らして見れば、長い髪をなびかせている瞳の大きな女の子の姿があった。風の音が響いている。画面の向こうからは灯りはほとんど見えない。だがどこかの建物の屋上にいるようだった。

 彼女は何も発さず、ずっとこちらを見つめている。


 まだわからない。何かの間違いかもしれない。本人かどうかもわからない。わたしは渦巻く不安を抑えるため明るい方向へ思考を巡らせる。その時、彼女の瞳が弧を描いた。


 「こんばんは、見てくれてありがとう。今から飛び降りるから見ててね」


 彼女ははっきりした口調で言った。

 その声はたまに行われるライブ配信で聴き覚えのある声そのものだった。

 予感していた通りだ。心臓が早鐘を打つ。どうして、だなんて浮かんだ疑問はすぐに消え失せる。


 毎日のようにお互いの死にたさを共有してきたじゃないか。


 そんなことはわかりきっていた。水がコップから溢れるように、当たり前のように、彼女の死にたさは行動として表れたのだ。


 誰かが拡散したのであろう。彼女が発した言葉から数分経って、閲覧数はどんどん伸びていった。最初は止める声が占めていたが、しばらくすると止める声と勧める声が合わさってぐちゃぐちゃになっていた。コメント欄を見て、彼女が眉を顰める。


 「コメントうるさいな。お前らのお望み通り死ぬから最後くらい自分語りさせてよ」


 彼女がぴしゃりと言い放った。その声のなかには苛立ちと、そして人生への悲観の色が見えるようだった。彼女は続ける。


 「家から出たいけど出られない。家が私のすべてだから。でも家は私のことを拒絶して、そこで初めて私の居場所なんてどこにもないことに気づいちゃった。」


 訥々と絞り出すように話す。

 きっと彼女は聡いのだろう。この状況なら誰もが感情に呑まれ、支離滅裂な語り口になってもおかしくないなか、なぜ自殺をするのか、彼女なりに簡潔に伝えようとしていることから彼女の実直さを感じた。


「誰も私のことなんて見てない。家にも外にも居場所がないなら、自殺してみんなに覚えていてもらいたい。」


 人には人の、家から出られない理由がある。自分から負の循環を抜け出すのは容易なことではない。しかし、彼女は自分からその循環を抜け出すためにこの選択を取ったのだろう。自分の死をもって。


 「死が私の永遠の居場所になる。」


 最後にそう呟いた声は震えていた。


しばしの沈黙が流れる。彩度の低い画面越しに、なにかに耐えるような表情が映る。

 彼女はどんなに声が震えていても、表情にはおくびにも出さない。彼女は自分の感情と戦っているのだ。また、死は居場所を作ってくれるーーいわゆる救いであるのだから、泣くことはそれに反していると自ら結論づけているようにも感じた。

 自分の感情を振り払うかのように、彼女は努めて明るい声を出す。


 「生きることにどうしてこんなに一生懸命にならなきゃいけないの。お先真っ暗。生活するための労力よりも死んだほうがコスパがいいって気づいちゃった。」


 彼女は笑う。


 「ここさ、住んでた団地が良く見えるから、昔家に帰りたくない時よく来てたんだよね。夕方になって灯るこの無数の灯りの中で、私みたいに死にたい人がいるんだろうなって。申し訳ないけど、それだけで一人じゃないって思えた。」


 ああ、わたしと同じだ、と思った。生活を写す灯りで孤独を紛らわして、見たことのない同じ人の存在を願う。まるでわたしじゃないか。ぼやけだした視界で必死に彼女の姿を捉えようとする。先程まで笑っていた瞳は画面ではなくどこか遠くを見つめていた。風が彼女の髪をまきあげる。風の音が強くなっている。コメントは激しさを増して、彼女を攻撃する。もうやめてあげてほしい。決壊するように、わたしの涙は枕へ落ちていった。


 「みんなにずっと覚えていてもらえるように、一部始終見えるように落ちるね」


 そろそろ行こっか。彼女を映していたカメラが切り替わり、どこかへ歩いていく。やだ。やだやだやだ。


 〈海に行かない?〉


 地獄絵図のような状況のコメントの中に異質なものが下りてくる。気づけばそう打っていた。

 自分も死にたいし、お先真っ暗だ。それなのに死んでほしくないなんて傲慢だ。矛盾している。だけどコメントする手が止められなかった。

 コメント欄はわたしを叩くような流れに変わっていく。

 しばらくすると、彼女の辟易したような笑い声が聞こえた。


 「あなたも死にたいって言ってたじゃないですか。嘘だったの?」


 コメントを見て、そして返してくれたことにひどく安堵する。確かにその通りだ。わたしはずるい。自分の気持ちばかり優先して、彼女の気持ちなんて考えていない。でもこれだけは言える。わたしは彼女に死んでほしくない。


 〈嘘じゃない。わたしだって死にたい。でもまだあなたに死んでほしくない〉


 風の音と彼女の華奢な足だけが画面に残る。まだ生きている。彼女とわたしは孤独同士の夜を一緒にいくつも超えた。今だけはここにいる誰よりも深く繋がっていることを信じたかった。


 〈あなたの存在も抱えている死にたさもわたしは忘れない。どうか今だけでも生きて〉


 震える指で祈るように打った。人間は時として祈ることしか手段がなくなることがあるのだと、わたしは初めて思い知った。彼女は答えない。こぼれる涙を必死で抑えながらわたしは画面を見つめた。


 「本当に?」


 か細い声が聞こえたその時、鈍い音を立てて画面が暗くなった。風を切る音が聞こえて、そのままぷつりと配信は終了した。





 彼女が自殺を図って数日経った。配信が終了した途端、わたしはSNSを開いて情報を必死にかき集めた。配信を視聴していた人々は動揺し、嘲笑し、悲嘆していた。彼女は望み通り、みんなの記憶に残る人間になったのだ。

 わたしはといえば、まだ望みはあると信じていた。あれからネットの住民による場所の特定が始まった。配信の映像から数日後に場所は特定されたが、そこで誰かが死んだという報道も形跡もなかった。そのため、死んでいないのではという声も一定数上がっている。

 彼女のアカウントにはしばらく哀悼の意や死を疑問視する発言が寄せられていた。一種の墓場のようになっている理由として、彼女が配信以降姿を表さないことも起因していた。私自身もダイレクトメッセージを送ってみたが、返信は来なかった。

 そうして、彼女の生死は不明のまま、夏が過ぎた。




 人の噂も七十五日とはよく言ったもので、数か月も経てば彼女を探す人はほとんどいなくなっていた。わたしはといえば相変わらず外には出られず、昼夜逆転の生活を送りながら、抜け殻になってしまっているのかすらわからない彼女のSNSを眺め続けていた。   


 午前2時。季節が変わり、外からは乾いた風が吹き付ける。相変わらず灯りは見えない。孤独を共有する相手はもういない。あれからずっと、身体の一部分を無くしたような喪失感に苛まれ続けている。深く繋がっていたように感じていたのはわたしだけだったのかもしれない。それでもまだ、望みを持ち続けたいのはわたしが諦めが悪いだけなのだろうか。

 その時、暗い部屋の中に短く灯りがともる。慣れた操作でアプリを開いて、通知欄を見つめる。見慣れないアイコンがわたしの目に飛び込んできた。


〈こんばんは、海に行きませんか?〉


 それは彼女とわたしを引き合わせる、たったひとつの弱い灯りだった。

 安堵や嬉しさや衝撃がない交ぜになって、どうしたらよいかわからない。

 わたしは咄嗟にそれを押した。それはコミカルな動きをしながら、ピンク色に灯ったのだった。

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