第十六話 ……やっと掛けてきたわね、遅いわよ、那由ちゃん。

あらすじ:日常を求める那由に対して、冷たく突き放す道長。それを煽る様に割って入った船田に対して、道長は怒りを露わにした。変えたくない日常、戻らない日常。那由をとりまく日常の変化は、梓達にも訪れていた。違う意味で。雪華へと連絡を取るべく行動した那由だが――


――


 水曜日、午後九時、那由の自宅。


 那由の手にはスマートフォンが握られている、画面に映る番号は雪之丞雪華。


 梓達に言われた『雪華と道長の関係は百パーセントない』の確認をしないといけないはずなのに、三時限目、四時限目を終えても連絡できず。お昼に何も食べない道長を見ながら、共に何も食べないでいたのにも関わらず連絡できず。放課後演劇部の休憩時間にも連絡できず。

 

 そして帰宅して夕食を終えてからも連絡できずにいる。

 元々連絡を取り合う仲ではないのだ、初めての出会いからして雪華の態度はおかしかった。


『あら、可愛い顔して。道長の恋人には勿体ないんじゃないの?』


 これが道長に紹介され、初顔合わせをした時の雪華の第一声である。


 聞き方によっては雪華の性癖を露わにした言葉であり、聞き方によっては道長から離れろとも聞こえなくもない言葉だ。無論、前者であるのは間違いない、きっと後に続く言葉は「私の恋人にならない?」なのであろう。

 

 だが、そんなこと那由が知る由もない、ただただ警戒心を増しただけの雪華との初対面。

 それを思い出しているのか、小難しい顔をしたまま、那由はスマホを手に取りお風呂場へと向かった。

 

 演者としての毎日の発声練習、ダンスの様な足運びを可能にする為の筋肉トレーニング。時間さえ許せば毎日六キロは走りたいところだが、冬場は暗くなるのが早い。そうでなくとも毎日の練習で身体が軋んでいるのが現実だ。


 家着である着ぐるみを脱いで全裸になると、那由は浴室のバスチェアに座り、頭からシャワーを浴びた。シャワーノズルのスイッチで霧状へと変えて、顔に当ててスキンケアをする。ちょっと高級感のあるシャンプーを数回手に取ると、肩を少し超えた位の髪を梳く様にして泡立てた。


 けれど、あまり泡立ちが良くなかったのか、一度綺麗に流してもう一度シャンプーを付け直す。パサついていた髪が潤いを取り戻していき、それはコンディショナーを付ける事で完璧に蘇った。まだ十七歳、若さ爆発の那由の黒い髪は、艶やかな光沢を完全に取り戻す。


 ゴムで髪を纏めると、続いて洗うは那由のしなやかな身体だ。石鹸も天然ミカン仕様の少々お高い石鹸を袋から取り出し、くんくんと匂いを嗅いで幸せそうな表情に。美を求める為なら金は惜しまぬ。ボディタオルをもこもこに泡立てると、那由は手の平サイズの胸の周りを重点的に洗った。


「胸の下のあせも……大丈夫よね」


 最近の不摂生が祟ってないかチェックしつつ、続いて足を指の間まで丁寧に洗うと、そのままシェーバーでムダ毛の処理を始めた。ツルッツルの肌は自然に出来るものではない、僅かな産毛をもキチンと処理することで更なる輝きを得られるのだ。


 一通りの事が終わると、那由は湯船に浸かり足や腰のマッサージを始める。温かい湯船の中で行う事で血行が改善され、筋肉痛の治りが早くなるのだ。そのまま湯葢を半分ほど閉めると、いつかの雪華の様にスマホを湯葢の上に置いた。


「よし、ここまで綺麗にすれば雪華さんにも負けてないよね」


 今から那由がするのはビデオ通話ではない、普通の電話だ。

 しかし、昔から那由は雪華と話をする時は、自分を磨いてから望むようにしている。

 負けたくない、そう思わせる程に雪華は美しいのだから。


 すぅ……はぁ……と深呼吸をしたのち、那由は雪之丞雪華、と書かれた番号へと発信する。


 一コール目……二コール目……三コール目。


 じぃ……っと那由の可愛いどんぐり眼がスマホを見つめていると。五コール目で画面が変わり、雪華を現すプロフィールの画像が表示された。と言っても初期設定のまま、人の輪郭があるだけだが。 


『……やっと掛けてきたわね、遅いわよ、那由ちゃん』


 最後に彼女の声を聞いたのは先週の木曜日のこと。

 ほぼ一週間前に聞いた喘ぎ声、それが最後だ。


「別に、本当なら掛けるつもりも無かったんですけど」


『あら? 相変わらず声が響くわね。お風呂にでも入っているの?』


「……別に、どこだっていいじゃないですか」


『ふふ、じゃあさ、久しぶりに顔見ながら話さない? 私もちょうどお風呂に入るところだから』


 リモート風呂とでも言うのだろうか。

 那由は雪華の謎の申し出を断らずに、そのまま素直に湯船で雪華を待った。

 スマートフォンは繋がったまま、雪華が自室を出て、そのまま階段を下り、浴室へと向かう。

 その挙動一つ一つの音が聞こえて来て、湯船に浸かる音が聞こえてきた瞬間。


 『じゃ、切り替えるわね』この言葉の直後、画面は頭にタオルを巻いた雪華が映し出された。

 肩から下は当然だが何もつけていない、その代わり映るのは湯葢、そして湯船だ。 


『あっは、相変わらず那由ちゃん可愛い♡ あれ? でも少し肌荒れしてるわね。美容液いいのあげましょうか? それに乳液と、下地は? 安物使ってると肌荒れちゃうわよ?』

  

「これは……原因は分かってますから、ほっといて下さい。それよりも雪華さん、道長との関係についてもう一度聞かせて頂けませんか」


『うふふ、もう散々色んな人から聞かれてちょっと飽きてきてたのよね。これで終わるのかしら? 道長とは幼馴染、それ以上でもそれ以下でもないわよ。それよりも那由ちゃんの方こそ酷いじゃない、見たわよ? あの写真』


「写真……見たんですか」


『ええ、道長からね。彼、泣きながら私に見せてきたのよ? もうダメだって言いながらね。で? 実際の所どうなの? 浮気なの?』


「違います、私はその写真を見てませんが、多分先週キスシーンの練習をしていた所を誰かに見られただけです。それで写真にまで撮られちゃって……」


『……へぇ、じゃあさ、土曜日に何ていったっけ? ……思い出せないわね。ほら、部活の先輩さん』


「船田先輩ですか」


『ああ、そうそう、その人。その人と仲良さそうに歩いてたのは? あれに関しては私も道長と一緒に見ちゃってたんだけど?』


「え、え? なんで道長と?」


『聞いてないの? その日、噂を流された事に対する釈明の為に、私は道長と一緒に弓道部の女子に逢いに行ったのよ。まぁ、他の目的もあったんだけどね』


「他の目的?」


『それは内緒、もう目標達成したからおしまい。それで? 質問の返事がまだだけど?』


「……んと、土曜日ですよね。多分、船田さんに謝罪してたんだと思います」


『謝罪?』


「確か、その時って船田先輩と私が浮気してるって噂が流れたんですよね。それが嘘だっていう証拠を集めて欲しい、とか、何かそんなのをお願いして……で、ダメだったら切腹しろって」


『せ、切腹?』


「勢いで言っちゃったんです……でも、私その事をすっかり忘れてて、顧問の先生に物凄い怒られちゃって。それで、謝罪の為にコーヒーショップに船田先輩と二人でいました」


『ふ、ふふふ、何それ、那由ちゃん結構酷いわね』


「笑わないで下さい……ホント大変だったんですから。その後、練習の為に足運びとか、セリフ合わせとかしながら学校に行ったんですよね。多分それを見られたんだと思います」


『……ふぅん、そっか。じゃあさ、昨日ウチに来た子達はなんだったの? 突然過ぎて驚いちゃったんだけど』


「それは……その。あの、ごめんなさい、私、雪華さんと道長に復讐しようと考えてました」


『復讐……?』


「はい、道長と雪華さんって、二人で何かしてますよね? 外まで聞こえるくらいの……その、喘ぎ声? みたいのあげて、名前を沢山叫びながら……」


『え、あれ聞いたの? いつ?』


「……認めるんですか、先週の木曜日ですよ」


『うふふ、認めるわねぇ。だってそれ、単なるマッサージだから』


「性感?」


『違う、え、那由ちゃんがそんな言葉知ってるなんて意外』


「た、たまたまです!」


『たまたまぁ~? 可愛い顔して、やる事やってたのかなぁ?』


「いいから! マッサージって何なんですか!」


『あはは、ふふ、マッサージはマッサージよ、私冷え性でね、しかも重度の。だから子供の頃から道長にマッサージお願いしてるんだけど、そうね、那由ちゃん今度道長のマッサージ受けてみなさいな。私、男って基本的に嫌いなんだけど、道長のあのゴッドハンドだけは許せるのよね』


「ゴ、ゴッドハンド?」


『そ、ゴッドハンド、気持ちいいわよぉ? 声が出ちゃうくらい』


「まさか、雪華さんの喘ぎ声って」


『親からも止めろって昔は言われてたのよね。でも最近は道長のマッサージの方が悪いって事になってるから、私も遠慮せずに声を上げる事にしてるの。彼、スッゴイんだから』


「……なんか、その言い方嫌いです」


『うふふ、でも本当だし。さてと、実は今日お風呂入るの二回目なの。そろそろのぼせちゃうし、上がろうかしらね。どう? まだ私と道長の事を疑う?』


「それは……」


『……そっか、じゃあ、那由ちゃんだけには教えてあげる。道長にも言わないでね、あまり変な目で見られるのは好きじゃないから。私が道長を絶対に好きにならない本当の理由』


「……はい」


 そこまで言うと、雪華はカメラに自身を映しながら湯船から立ち上がった。

 お風呂の熱に当てられて火照った身体は、真っ白な雪華の肌を朱色に染めていて。


 それとは別に、雪華の身体には無数の『痣』の様なものが残されていた。

 丸みを帯びた乳房から、画像には見えなかった鎖骨の部分や、腰の周りまで。


「――っ!」


『分かる? これ全部キスマークなの。付けたのは貴女のお友達の池平梓さん達よ』


「……」


『そんな目で見ないで、私はね、那由、男が嫌いなのよ。中学の時に色々とあってね、それ以降男は全員ダメ。だから私は女子高を選んだのよ? 唯一会話が出来てさわれる異性が道長なの。でもね、恋人として肌を触れ合うのとかは絶対に無理。彼のマッサージだって頭で理解してれば、何とか許せるってレベルなの』


「雪華さん……」


『いいの、私の幼馴染、意外と弱虫だから。あんな良い体してるのに泣き虫でね、すぐに諦めちゃって。でも、那由ちゃんと一緒にいる道長はとっても良い顔してた。だから私は信用してもらう為に、何回でも那由ちゃんに会ったんだよ? ね……今でも道長のこと、好き?』


「…………好き、です。愛してます…………」


『か~わいい、泣かないの。じゃあ素直になれば? そもそも何の問題も無かったんじゃないの? 道長が見たのは単なる練習風景だった訳だし、那由ちゃんが見たのは私とのマッサージだった訳だし……ね?』


「……ひっく…………っ、ん、雪華さん…………私、道長とやり直したい……えぐっ、です。大好きなんです、ちょっと離れて、もっと好きになっちゃったんです。道長が側にいないのが、こんなにっ、辛いなんて……思いませんでした」


『……いいわね、それだけ人を好きになれて。私はダメだなぁ、今も何人と付き合ってるのやら。でもね、ぽっかりと空いた心の穴が全然埋まらないの。色々と悩まないといけないのは私の方なんだろうけど……でも、別に急ぐ必要もないしね』


「雪華さん……」


『じゃ、そろそろ……また何か悩み事があったら相談してね』


「……はい」


『チャオ♡ あ、道長に中学の時の話とかは内緒にしてね』 


 最後に映った手を振る雪華の笑顔、語った内容は全て真実であり、二人の大喧嘩は勘違いから始まったものだと告げられる。電話を掛けるのに一日を要したのに、話してみればいとも簡単に、とてもシンプルな回答だった。


 全ては誤解、道長と那由の間に何一つ問題は発生していなかったのだ。

 那由は湯船のフチに腰掛けると、スマホを操作し、ビデオ通話を選択して道長へと発信する。


 那由のカメラが映しているのは、生まれたままの姿の那由だ。玉子の様なぷるんとした光沢のある肌に、柔らかいのに重力に負けない上を向いた乳房。トレーニングはしているものの、うっすらとしか割れていない腹筋に、きゅんと疼く下腹部を少しだけ映して。


 上唇と下唇をぎゅっと噛み締めながら、那由はそのまま愛する道長が出るのを待った。

 裸での謝罪、那由に出来る誠心誠意を込めた謝罪。


 許してくれないのなら、許してくれるまで何をされても構わない。むしろめちゃくちゃにして欲しい、そんな願望が那由の身体にふつふつとした熱を帯びさせていく。


 一切隠そうとしない白くやわらかな双丘に、しこりを見せ始め固くなってきたピンク色のサクランボが、言葉に表せられない那由の緊張と羞恥心を目に見える形にしていて。はぁ……はぁ……と鼓動に合わせて、那由は甘い吐息を吐く。


 この姿を道長が見たらどんな反応をするのだろうか? これまでの全てを許してもらえるのだろうか? 様々な期待が那由の瞳を輝かせて、興奮させる。戻れるという期待、早く元の関係に戻りたいという願い。輝く瞳には何を映すのか。


 高まる興奮……なのに、道長は電話に出なかった。

 いくらかけ直しても、何度連絡しても。


 しょうがないと那由は諦めたのか、湯船から出て、明日に備えてお弁当の下ごしらえを始める。使う弁当箱はそれまでの使い捨てではない、道長専用の、父親が血涙しながら存在を許した黒い大きなお弁当箱だ。


 キッチンに立った那由の目に、もはや迷いは無かった。

 唯一の不安は、繋がらない道長との電話なのだが――


 ――時を同じくして、道長は沈痛な面持ちで両親の前に座る。

 語る言葉は重く、それを受けた母親はとても残念そうな表情をしていた。


――

次話「転校」

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