#33 ~ 臭い

 宰相の屋敷は、アマジナ区と呼ばれる高級住宅街に位置していた。

 高級住宅街というだけあって、表を歩いている人はほとんどいない。


 高いゲートをくぐり抜け、車内から屋敷へと目線を向ける。

 意外にも面積は小さい。伯爵の屋敷に比べれば、半分ぐらいだろうか。

 だがその分、屋敷の豪華さは相当なものだった。もしも前世に残っていたら、文化遺産のひとつにもなっていそうな美しさと荘厳さを兼ね備えている。


「お待ちしておりました」


 玄関先で頭を下げる執事に、軽く会釈を返す。

 ちなみに俺の服装は、イリアさんたちに見立ててもらったフォーマルスーツだ。出来ればクロも連れて来たかったのだが、さすがにそれは、と止められた。

 もちろん、武器もホテルに預けている。


 彼に案内されるまま玄関をくぐると、何人ものメイドたちが一斉に頭を下げていた。


 まさに貴族。この光景をリアルに見ることになるとは……。


 だが、少し意外なのは、どこか屋敷が騒がしいことだろうか。

 奥からは人が走り回るような音が聞こえるし、出迎えるメイドたちの顔にも、どこか焦りや戸惑いが見えた。


「晩餐までにはしばらく時間がございますので、ひとまず、部屋でお待ちいただければと」


 どうやら俺とじいさんは、そこで会うことになっているらしい。


 執事に促され、二人のメイドが進み出る。


「どうぞ、こちらに」


「ああ、どうも」


 メイドに案内されるまま、屋敷の中に足を踏み入れる。

 廊下を歩く途中、早足ですれ違うメイドや使用人の姿もあった。

 表情からは悟らせないが、やはりというべきか、どうにも焦っているように見えた。


「……騒がしくしてしまい、大変申し訳ありません。その、晩餐の予定を告げられたのは、本当についさっきで……」


「やめなさい。お客人に失礼です」


 若い――それこそ学生ぐらいと言える年頃だろう――メイドの言葉に、もう一人のメイドが、ぴしゃりと叱りつけた。


「大変申し訳ございません、ユキト様」


「いえ、大丈夫です」


 深々と頭を下げられるが、むしろ、理由が分かってスッキリしたぐらいだ。

 俺は貴族でもないし、礼儀がどうこうなんて言うつもりもない。


「どうぞ、この部屋でおくつろぎください。晩餐の用意が整いましたらお呼び致します」


 通された部屋は、とても豪華な部屋だった。

 テーブルにはすぐに紅茶が用意され、さらにはお茶請けというべきか、見た目にも美味しそうなフルーツまでも用意されている。


「では失礼致します。何かありましたら、そちらのベルでお呼びください」


 退室していったメイド二人を見送り、椅子に座る。

 用意してもらった紅茶で舌を湿らせ――ふと、手を止めた。


(……何だ?)


 ぞわりと、背筋を何かに撫でられたような。

 手元の紅茶を覗き込む。普通の――値段的にはものすごく高級なものだろうが――紅茶だ。何もない。


 だが。

 感覚が囁く。

 何かがおかしいと。


(……部屋の外か?)


 ゆっくりと扉に近づき、そして開く。

 やはり、何もない。

 だがそれでも、違和感は止まらない。


 廊下を見回して――その突き当たりにある部屋に、視線が吸い込まれる。

 あそこだ、と、直感が告げた。


 なぜだろうか。廊下はひどく静まり返っていた。一人として人影は見えない。

 一歩、また一歩と、吸い寄せられるように近づき、そしてドアノブに手をかけた。


 ――俺はどうして武器を持ってこなかった?

 自分の中に唐突に沸き上がった疑問に、「馬鹿なことを言うな」と理性が告げる。

 貴族の屋敷に招待されて、武器を持っていくやつなどいない。


 だが、この瞬間。

 俺はようやく、自分の中の違和感の正体を理解した。


 ――臭いだ、と。


 扉が、あっけなく、音もなく開いていく。

 まず真っ先に目に飛び込んできたのは、開け放たれた窓と空しく揺れるカーテン。

 月の光はなく、廊下から差し込む灯りだけが、部屋を薄く照らしている。


 その差し込む光の先に。

 男が、横たわっていた。

 真っ赤な、血の海に沈むように。


(黒の宰相……メルゼス・ロヴェール……)


 顔は伏せられていて分からない。だが明らかに、彼は死んでいる。

 背中は真一文字に切り裂かれ、重そうな服の隙間から見える肌は蒼く、黒ずんでいた。


 部屋の中に足を踏み入れ……ふと、机の上に、何かがあることに気づいた。

 いや、物ではない。

 それは血で描かれた、何かの文字だ。


 暗くてよく見えないと、それに近づこうとした瞬間。


「ヒッ――!」


 廊下から、喉をひきつらせる声が聞こえた。

 そこでようやく、俺は自分が動転していたことに気づく。

 廊下に誰かがいたことを気づけないほどに。


 それは、さっきのメイドだった。新入りだという、若いメイドだ。

 恐怖にひきつった顔で、彼女は死体を見て……そして俺を見た。


 彼女の目線は、明らかに……恐怖に染まっている。


「待て、俺は――」


 言い募ろうとした瞬間。

 まるで裂くようなサイレンの音が木霊した。


(そういうこと、か)


 ああ、なるほど。

 ずっと感じていた違和感が、ようやく形を成していく。


 ――ハメられたのだ、俺は。

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