◆25 ~ そして、
アイーゼが全速力で山を下り、屋敷に辿り着くには、さほどの時間も必要としなかった。
学院での修練によって高まったアイーゼの気術をもってすれば、まるで風のごとく山を踏破するなど朝飯前のことだ。
屋敷は……何も変化はなかった。
警戒しつつも屋敷に踏み入ると、玄関で仕事をしていたランドさんが駆け寄ってくる。
「お嬢様。おかえりなさいませ。随分と汚れていらっしゃいますが――」
「それよりもミミは?」
「は? ……ミミお嬢様でしたら、お部屋に」
返事もせずにアイーゼは駆け出す。
後ろからアイーゼを呼ぶ声が聞こえたが、無視だ。
ミミの部屋の扉を勢いよく開け放つ。
その部屋にいたのは、ミミ一人だけ。音に驚いたのか、ミミが驚いた顔を見せていた。
「おねえちゃん? どうし――」
無言のまま駆け寄って、ミミをぎゅっと抱きしめる。
「無事だった……」
「無事? 無事って、なにが……」
「いい、ミミ? 落ち着いて聞いてほしい。あの――」
瞬間。
窓ガラスが、音を立てて砕け散った。
小さく悲鳴を上げるミミを抱きしめて庇い、窓を見ると、何か小さいものが放り込まれるところだった。
(フラッシュバン――!?)
閃光。
咄嗟に目を閉じて防御するが、耳まではそうはいかない。聴覚を越えた轟音によって、思いっきり殴られたような衝撃に頭をふらつかせつつ、必死に目を開ける。
すると、今度は煙が部屋を満たし始めていた。スモークグレネードだ。
(この部屋は、まずい――!)
咄嗟に、魔術を発動した。
爆音――炎によって窓枠ごと壁を吹き飛ばし、そのまま転がり出る。
こういう場合、逆の扉から出ようとするのは悪手だ。とっくに包囲されているに決まっている。
銃声はない。銃を使えば弾丸から犯行が辿られると考えたのかもしれない。
煙の向こうから、何者かが躍り出てきた。
その正体を探ることすらせずに、容赦なくアイーゼは魔術を撃ち放った。
爆音と共に、その人影が吹き飛ばされる。一般人なら優に殺傷する威力だが、手加減する余裕など微塵もない。
だが、死にはしなかったらしい。
いくつもの人影が、正確にアイーゼへと迫っていた。
「おねえちゃん――」
「ミミ、口閉じて!」
跳躍――。
全力で逃げの一手。ミミを抱えているこの状況では、それ以外にない。
幸運なことに、追撃はなかった。そのまま屋敷の塀を飛び越え、裏手の林へと飛び込む。
「お、おねえちゃん……一体何が……」
「今は黙って。とにかく行こう」
――行こう、とは言ったものの。
具体的に、行く当てがあったわけではなかった。
追っ手を引きつれたまま、誰かの家に転がり込むわけにもいかない。
ミミを抱えたまま林を抜け、森を抜け――そしてやがて、見覚えのある場所に辿り着いた。
(ここ、は――)
アルニの花。
夕暮れが黄金色に世界を染め上げる、その中で――薄紅色の花が、美しく咲き乱れていた。
ふわりと風が吹き、いくつもの花弁が夕暮れの空を舞う。
かつて家族で来た、あの花畑。
いつの間にか辿り着いたその場所で。
その美しい光景に――ただ、アイーゼは言葉を失っていた。
「綺麗……」
ぽつりとこぼれたミミの声に、はっとして――瞬間、アイーゼはミミを抱き寄せた。
「危ない!」
銃声。
虚空を裂いた銃弾が、アイーゼの肩を裂いた。
小さく舌を打つ。
気を解いていなければ、負うこともなかったはずの傷。
じわりとした痛みが、肩に広がっていく。
「随分と、派手に逃げ回ってくれたようですね」
悠然と告げられた声。
その主は――
「ミハイル・フラヴァルト……」
「おっと、動かないほうがいいですよ」
魔力を励起させかけ、しかし、ぐるりと囲むように人の気配を感じ、アイーゼは舌打ちした。
いつの間にか……完全に囲まれている。この状況でミハイルを殺したとしても、その後にミミを守り切るのは難しいかもしれない。
いや、きっとこの男は、自分が殺されないための方策を持っている。だからこそこうして、わたしの目の前に姿を現しているのだ。
「これは……これはどういうことなんですか、ミハイルさん」
アイーゼの背後から、ミミが震える声をあげた。
「おお、これは我が麗しの君。いやね、君のお姉さんが、突然私を襲ってきてねぇ……その自衛だよ」
「あなたは、嘘ばかり」
ミミを背後に庇い、アイーゼは眦を釣り上げた。
「あなたの計画は、ミミと結婚し、その後父と母を殺し、家督を乗っ取ること。この村にある、エレジウムを独占するために」
「ふむ……」
「ミミのことだって、私のことだって、最初から殺すつもり。違う?」
ミハイルは……わたしたちに銃口を向けたまま、歪んだ笑みを浮かべた。
「なるほど。では、取引といかないか?」
「取引……?」
「君とミミ嬢の命は保証する。夫婦といっても戸籍だけで構わない。式さえ挙げてくれれば、あとはこの田舎から離れて二人で暮らすといい。どうかな?」
――それは。
つまり、父と母の命は諦めろ、ということ。
ミミの手が、ぎゅっと、アイーゼの手を掴んだ。
その手を、アイーゼもまた握り返す。
「断る」
「……なぜ? 君は養父殿たちのことを、憎んでいると思っていたが?」
「…………」
しばらく睨みあい――そして、クク、とミハイルが小さく笑った。
「やはりそうか。君は、何も捨ててなどいないとうわけだ」
「…………」
「考えてみれば確かに。親元を離れるだけなら、妹を連れて二人で逃げればいい。金のないこの家に、追っ手などまず出せないだろうからね」
――ああ。
そうだ。その通りだ。
「――あの日に戻れたらって、考えない日はない」
ぽつりと零れた言葉に、ミミがはっと顔をあげた。
そうだ。わたしも同じなんだよ、ミミ。
ギレウス・マリオンのように、わたしが貴族として認められ、独立できたら。ミミだけじゃなく、父も母も引き取れる日がくるかもしれない。
そうすれば解放されるかもしれない。そう思った。
リリエスという家にまとわりつく、形のない、呪いのような『何か』から。
父さんと、母さんと、わたしと、ミミ。
贅沢なんてなかった。貴族らしくなんてなかった。ただ四人で、まるでごく普通の家庭のようだった……あの日に戻れたら。
どうしてだろう。
そんな、たったそれだけの願いですら、現実は簡単に摘み取ってしまう。
「あの親は、とても救われないと思いますがねぇ……」
ミハイルはパチリと指を鳴らす。
すると、周囲を包囲していた人影が、薄闇から姿を現した。
全員がライフルで武装し、油断なく、少しずつ、包囲を狭めていく。
――強い。
その全員の力量を、アイーゼは察する。
全員が、さっき戦った男と同レベル……もしくはそれ以上。
「まあ、こうなってしまっては仕方がない。後々が怖いが、何とでもなるとも。世の中というのは困ったことに――金さえあれば、力なんて簡単に手に入るんだ」
じりじりと狭まっていく包囲の中で。
せめて、ミミだけでも――
「お姉ちゃん……」
「大丈夫」
ミミをぎゅっと抱きしめる。
空は黄金色に染まり、やがて蒼い夜へと落ちていく。
風に舞うアルニの花が、まるで煌めくようだった。
槍を手に、立ち上がる。
どれほど無力でも、弱くても、嘆くだけでは何も変わらない。
足掻かなければ、きっと未来などないから。
そして――世界が、音をなくした。
全員の動きが止まる。
まるで、不可視の何かに押さえつけられたように。
「……雇い主」
不意に、ミハイルの背後からぬっと何者かが姿を現した。
スキンヘッドの男だ。大型の機械式の槍のようなものを手にしている。なぜ気づかなかったのかと思えるほどの巨体だ。
圧倒的な強者であることは、見ただけでわかった。
だがその強者が……ひどく焦った顔をしていた。
「まずい。逃げてください。今すぐに」
「……どういうことですか?」
「やつが――」
瞬間。
風が吹く。
アルニの花びらが、風にさらわれて空を舞い……そして、アイーゼはようやく、その姿をとらえた。
(ああ……)
静かな足音が、ひとつ、またひとつ。
ただ悠々と――無人の野を行くがごとく。
男がいた。
一見すれば、ごく普通の男。黒髪に黒目……そしてその片手に、鞘におさまった剣が握られている。
それは、東洋で刀と呼ばれるものだった。
ただそれだけの男なのに。
全員の視線が……囚われたかのごとく、彼から離せない。
「う……おおおおお!!」
アイーゼたちを包囲していたうちの一人が、弾かれたように銃口をあげ、男へと発砲しようとした。
――何かが、閃光のように瞬いて。
男の腕が、鮮血と共に宙を舞った。
その光景に、全員が息を呑む。
……斬ったのだ。あの距離、あの速度で。刀を抜いた手すらも見えないほどの疾さで。
絶叫が響く中で、彼がちらりと周囲に目を向けると、包囲していた兵士たちがたたらを踏む。
その目に、恐怖がちらついていた。
彼らはその一瞬で悟ってしまったのだろう。絶望的なまでの彼我の力量差を。その視線の意味を。
――動けば、殺すと。
その眼は、そう言っていた。
「……ユキト、先生……」
「ごめん、待たせたね。アイーゼさん。……よく頑張った」
頭の上に乗せられた手に。
不覚にも、アイーゼは全身の力を抜いた。
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