#51 ~ 深淵
血。
ダストの全身を突き破るようにして飛び出した血は、周囲を鮮血に染めた。
彼だけではない。気絶していた四人もまた、全身から血が噴き出す。
異常なほどの血の勢いが肌を、服を突き破り、まるでウォーターカッターのように壁にまで痕を残す。
まさか新手の攻撃かと思ったが、しかし、どう見ても即死。
ダストは床にくずおれ、穴という穴から血を流して死んでいる。
「……おやぁん? すんませんなぁ、邪魔してしもうたかな?」
異常な光景に言葉をなくしていると――不意に、男の声が響いた。
奇妙な訛りの男。言うなれば関西弁か。異世界じゃ関西弁とは言わないだろうが……。
「誰だ?」
「どーも。ディープちゅうもんや。よろしゅう」
目深にシルクハットをかぶった、奇妙な男だ。
言葉以上に、あまりにも奇妙なのは……その男に気配らしい気配を感じなかった。ここまで完璧な隠形は見たことがない。
「組織の人間か……?」
口を封じに来たのか。そう問う俺に、「ちゃうちゃう」と男は手を横に振った。
「ワイはそいつらとは無関係やで。
はあ、と男は肩をすくめる。
「ワイ、そんなん面倒や、自分でせぇや言うたんやけど……あのオッサン、古い貸しを持ち出して来よってからに……」
男が少し顔をあげた。
シルクハットの奥に光る眼が、俺を捉える。
その眼光は――見たことがないほどに深く、昏い。
「そないなわけで残念やけど、蛾の連中は潰してしまいました~♪ もう一人も残っとらんで。そいつらで最後や。あ、蛾やなくて蝶やっけ? どっちでもええか?」
(この男……)
やばい。
今まで会った全員に、輪をかけて危険だ。
さっきの魔法の発動条件は何だ?
体内から突然血を噴き出させるなんて、そんなことが可能なのか?
「まぁ、そゆことで」
ぱちん、と男が指を弾く。
「兄さんも死んでや」
――不意に。
殺気を感じて、咄嗟に身をそらした。
一瞬見えたのは……水滴か?
「あら。避けられてしもた」
まさかさっきのが魔法のタネか?
視認すらも難しい小さな水滴。まさかあれだけで、人を殺した?
やばい。魔法の知識量に差がありすぎる。
咄嗟に俺は、体内で気を練り上げた。
「ふ……っ」
――錬気、陽炎。
大気が揺らぐ。
気は練りあげるほどに身体を強化し、漏れでた気は強固な鎧ともなる。
そして練られた鎧は、風魔法の一撃すらも簡単に散らす。
あれに触れてはいけないと直感が叫ぶ。
触れてはいけないなら、触れられないようにすればいい。
「……オイオイ。ちょっと待ちぃやって。ワイ仕事に来ただけやのに……なんでこないなバケモンがおるかなぁ」
それはこっちのセリフだ。
魔法についてもっと勉強しておけばよかった。
ぼこりぼこりと、巨大な水の球が男の周囲に生まれ、そして浮遊を始めた。
「けどま、ちょっと楽しくなってきたわぁ。なぁ!!」
水球から、レーザーのように水が射出される。
避けるが――それは、壁を切り裂くのではなく溶かした。煙を上げて解けていく壁に、それがただの水ではない、酸であることを悟った。
まさかさっきの水滴も毒か?
「まだまだ行くでぇ!」
水球が浮遊しつつも無数のレーザーを飛ばす。
弾丸以上の速度で飛来する酸の群れ。
――しかし。
無数の剣閃が、空間を裂く。
放たれた斬撃は空中に軌跡を残し――そして停滞した。
魔剣と呼ばれた技術を応用した斬撃を、束ねるように放つ。
それはまさに剣の結界という相応しい、斬撃で織られた壁だ。
その壁に阻まれた酸は、呆気なくも四散した。
先日、エリオット君から盗んだ技だ。
あの時は使い道がないかと思ったが、人生何があるか分からないものだ。
「ウッソやろ、オイ」
半笑いを引き攣らせる男に向けて、俺は地面を蹴った。
――歩法、
突如眼前に出現したようにすら見えたであろう俺に気づき、目を見開く。
抜き打ちで放つ首元への斬閃。
だがそれは、彼が作り出した水の盾で弾かれた。
とんでもなく硬い。水の盾が竜の鱗レベルとは、どんな強度をしているんだ。
「怖ッ!! なんちゅう速さしとるんや、アンタ!」
「知るか」
地面から突き出した水の槍を回避し、宙に飛ぶ。
空中で身を捻り、断紡による斬撃を放つ。だがそれも、水の壁によって防がれてしまう。
ダメか。断紡では威力が足りない。
(……これは、無理か)
長引かせるのは危険だ。どんな絡め手があるかもわからない。
だから……俺は諦めた。
――この男を殺さずに終わらせるという、その選択肢を。
「こうなりゃ、ワイも全力で――!」
「悪いな」
俺の声は、男の背後から響いた。
「終わりだ」
パチ、と空間に火花が走った。
――錬気、
それは錬気における一つの極点。
攻防一体の『陽炎』とは異なり、錬気を雷に転化し、その速度と身体能力を極限にまで引き上げる。
その疾さは、もはや知覚の外にまで至る。
ゆえに。
斬撃は、もはや影すらも見えはしない。
その一閃が、水の盾ごと縦真っ二つに切り裂いた。
「……?」
残心しつつ、真っ二つになった男を眺めて、胸中で俺は首を傾げた。
斬った時の感触がおかしかったのだ。
人を斬る感触ではなかった。
思い出したくない感触ではあるが――思い出したくないからこそ明確に分かる差異。
「いやあ、こら参ったわ。降参です、こーさん」
「!?」
真っ二つになったままの男が、ため息を吐きながらかぶりを振り、両手を腕に上げた。思わず目を見開く。
「こんなん勝てるわけあるかい。あーもう、また嫌味言われる……」
「あんたは――」
よく見れば。
男の身体は、水で出来ていた。
肉でも血でもなく、明らかに人間のものではない。
「ああ、コレ? 傀儡牢のオッサンに習ったんや。イケとるやろ?」
「なんなんだ、アンタは……」
もはや敵意すらも感じない。
男はケタケタ笑って、そして、真っ二つになったシルクハットに手をやり、深々と頭を下げた。
ずるずると音がなって、二つになった男の全身がくっつき、その形が戻っていく。
どうやら本当に、この男は水で作られた人形のようだ。遠隔から操作されているのだろうか。
「ワイは『暁の聖杯』第七位。≪奈落≫のディープ・アウレギアちゅうもんや。よろしゅうな、ユキトはん」
「暁の聖杯……?」
「せや! 兄さん、良かったらウチに来ぃへんか? ウチはゆるいし、生活にも困らんし、気楽にやれるよ? 兄さんやったらすぐに幹部間違いなし! どや?」
どや、と言われても。
「あらお断り? まぁせやろなぁ、こんな怪し気な勧誘をされても、そらお断りですわぁ」
「ペラペラとよく回る舌だな……」
「それがワイの唯一と言っていい長所やからな!」
唯一なのかよ。
周囲を探るが、ダメだ。ほかに気配は見つからない。どれほど遠くから操作しているのか……それとも、隠形があまりに上手いのか?
くそ。これまで魔法を後回しにしてきたツケだ。
俺はうぬぼれていたのだ。剣さえあればどうにかなると。
だが現実として、今の俺には打つ手がない。
「ほな、この辺で失礼させてもらいましょ。また会いましょうや、ユキトはん。……あいや、できたら会いたくないなぁマジで。あ、予選の決勝リーグ、応援してますさかい!」
ほなっ、と男が唐突にステッキを出現させ、床をとんとんと叩くと――その全身が崩れ去った。
バシャッと音を立てて水が床に散らばる。服もステッキも水に変わり、後に残るのは水たまりだけ。
しばらく残心しつつ様子を見たが、何も起こらず。
はあ、と息を吐いて俺は構えを解いた。
「任務失敗、か」
血にまみれ、絶命した男たちの死体。
(蝶の組織が壊滅した……?)
同じように全員が皆殺しにされたのだろうか。
自業自得といえばその通りなのだろう。
だがあまりに、呆気なさすぎる幕引きだ。
(イリアさんや伯爵は、どうするんだろう)
彼女たちは復讐相手を失ったということになる。
……あの時、もし、イリアさんに復讐を果たさせていれば。
自分の選択に後悔はない。あのままではきっと、彼女は壊れていた。
けれどこれでは、あまりに……。
ぎゅっと剣を握る。
くそ、と、俺の悪態が死臭の中に響く。
(後悔なく生きることは、こんなにも難しい……)
正しい選択なんて、なにひとつ分からない。
深くため息を吐いて、その場を後にした。
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