◆48 ~ 夢で逢えたら

「――にいさま!」


 最初に気づいたのは、いつもと違う、ということだった。


 夢だと分かるのは、いつものことだった。

 けれど、違うかもしれないと思ったのは、今日が初めてだった。


「イリア」


 庭で稽古を終えた兄が、膝をついて私の頭を撫でる。


 その手は大きくて、温かい。

 私は、そんな兄が大好きだった。


「にいさま! 私にもおしえて!」


「イリアが剣を? うーん、それはなぁ」


 兄が笑う。

 どうしてダメなの、と私は頬を膨らませた。


「ダメじゃないよ。でもね、貴族が剣を振るうのは、本当に大変なことなんだ」


「たいへん? なんで?」


「貴族が剣を振るうのは、帝国の人々を守るためだから」


 帝国の人々を守る。

 その兄の言葉は、どこか誇らし気で。


「軽々しく振るっちゃいけない。貴族が剣を持つのなら、覚悟と誇りを忘れちゃいけないんだよ」


「……むつかしい」


「だね」


 兄は笑って、また私の頭を撫でた。

 それが嬉しくて、また私も笑う。

 そんな私たちを見て、父と母が笑っていた。


 それを見ながら、手を伸ばすことができずに立ち尽くす。

 あまりにも、それは……幸せそうで、そして儚くて。


 触れてしまったら、ガラスのように壊れてしまうから。




 夢が、換わる。

 兄が死に、葬儀を終えて、私の生活は――あまり変わらなかった。


 起きて、生きて、寝る。

 何も変わらない日常の中で、兄の存在だけがなかった。ぽっかりと穴が空いたかのように。

 ……この時の私はまだ、兄の死を受け入れられずにいた。


 私は一人、庭へと足を向けた。

 兄がいつも剣の練習をしていた庭へ。


 やはりそこにも、兄の姿はない。

 ――でもそれでも、目を閉じれば、またあの掌が私を撫でてくれる気がした。だから毎日、気がつけばここにいる。


 ふと、庭の片隅にある納屋に目を向けた。

 いつもなら気に留めない、小さな納屋。なぜかその時、私は開けてみようと思った。理由は特にない。

 特にないが――今思えば、呼ばれたのかもしれない。


 納屋の中に……ぽつんと、剣が置かれていた。


 それは、いつも兄が使っていた剣。

 ボロボロで、古めかしい。兄が子供の頃から使っていた剣だ。

 父は何度も買い替えろと言っていたが、兄はなぜかこだわって、練習にはこの剣を使っていた。

 その理由が知りたくて、触れさせて欲しいと言ったことがあるが、兄は頑としてそれを拒んだ。


 吸い寄せられるように、触れる。


(触れちゃった……)


 どこか悪いことをした気がした。

 指を引っ込めようとしたけれど……吸い寄せられるように、指が柄を撫でる。


 なぜそうしようと思ったのかは分からない。

 私は剣を手にとって、あの日の兄を思い出しながら「えいっ」と振った。

 でも、剣はとても重くて。

 指から離れた剣は、音を立てて床を転がった。


「やっぱりダメだ……」


 だから、教えてって言ったのに。

 小さく笑って……そして、頬を涙が滑った。


「どうやって、振ったらいいの……」


 声が、空虚に、納屋の中で残響した。

 ぽたりと落ちた雫が、床を濡らす。


「ねえ、教えてよ、兄さま……」


 なんで。どうして。

 ここに、兄はいない?


 兄が剣を振るのを見るのが、好きだった。大好きだった。

 みんなが笑うあの光景を見て、私も笑って。


 でも。

 もう二度と――あの光景は、帰って来ない。


 涙で滲んだ視界の中。

 私の指が、縋るように剣に触れた。


 いつしか私も、兄を忘れてしまうのだろうか。

 納屋の中で埃をかぶった剣のように。

 あの幸せだった光景が、幻のように、まるでなかったのように。


 ……ああ。

 それは、

 嫌だ。


 私の手が剣を握った。

 兄は死んだ。私に剣を教えてくれる人はもういない。

 でも、それでも。

 たとえその身体も魂も灰になったとしても、兄がいた証のすべてまで、灰にされるのは嫌だった。


 剣を振る。涙をぬぐいながら何度でも。



(なんで、忘れていたんだろう)


 私の『はじまり』は、たったそれだけだった。


(……ずっと、夢を見るのが怖かった)


 どうして息子は死んだと泣く女性の声が。

 誇らしかった兄を、ただ責める声が怖かった。


 彼女の叫びも、嘆きも、きっと正しい。

 貴族が剣を振るうのは、人々を守るためだと兄は言った。

 だが、兄は何も守れずに死んでしまった。


 ……でも、違うと私は叫びたかった。

 兄は間違ってなんかいなかったって。


 だから……私はただ、証明したかった。

 兄の剣が、人々を守るための剣だったということを。


 ――なのにいつしか、私はそれを忘れてしまっていた。

 いや、覚えていたのに、ずっと目を背けていた。


 強くなるほど、復讐という言葉がちらついた。

 それが怖くて、目を背けて、そのたびに何かが欠けていったのかもしれない。


「イリア――」


 不意に、兄の声が聞こえた。

 これはただの夢だ。わかっている。

 けれど夢の中で、兄の手のぬくもりを、私は感じた。


「兄さん……私は――」


 私は弱かった。あまりにも。


 なのにどうして……そんな笑顔で、兄は笑うのだろう。

 いつか私の頭を撫でてくれた、あの時みたいに。


 彼の唇が、何かを紡いで――



「――――」


 夢が覚める。

 いつも見るベッドの天蓋に、安心ではなく、寂しさが募った。


 兄の顔を見たのは、一体何年ぶりなのだろう。

 今から眠りにつけば、また会えるのだろうか?


 ごめんなさい、さえも言えなかった。


 寝ころんだまま、ベッドの脇に立てかけたままの自分の剣を見た。


 ――その剣は、兄が使っていたものを仕立て直したものだ。

 何度も何度も打ち直し、もういい加減ボロボロだ。それでもその剣は、私のそばにあって。


「…………」


 声にならない感情が押し寄せて、腕で目を覆う。


 兄は死んだ。もういない。

 それでも――兄の遺してくれたものは、まだ残っている。

 いつか兄の剣が折れて、使えなくなったとしても。


 ――私の剣の中に、兄さんがいるから。


 忘れたりしない。消えたりなんかしない。

 きっと、どこまでも残り続けていく。私が生きている限り。


「……イリアさん」


「せ、先生?」


 思い出していたものと同じ声に、はっとして起き上がり、思わずシーツをかきよせる。

 慌てて周囲を見渡すが、先生の姿はない。

 どうやら扉の向こうからのようだ。


「ごめん、起きた気配がしたから。それより、伯爵が話をしたいって」


「は、はい。すぐに向かいますから」


 そう言って、離れていく気配にほっと息をつく。

 ほっと? どうして今私は、ほっとしたんだろう。


 ベッドから起き上がり、鏡台に向かう。

 首元に、霜焼けのような痕が赤く残っている。

 服をめくると、体中に同じような痕があった。


(――これぐらいで済んだことに感謝するべきね)


 自嘲まじりに息を吐き、私は着替えるべくクローゼットに向かった。



 父の執務室に向かうと、そこには父とユキトさんがいた。

 外はもう暗い。時計は見ていないが、もう夜なのは明らかだ。


 ……大会はどうなっただろう。

 会長、アイーゼ先輩……ごめんなさい。


「イリア。本当に無事でよかった」


「父様……ごめんなさい」


「いや、無事ならばそれで十分だ」


 疲れた顔で安堵の息を吐く父に、どれほどの心労を与えてしまったのかと申し訳なくなる。


「座りなさい。とりあえず、詳しい話を聞きたい」


 促されるまま、私は話し始める。

 バス停で蝶の入れ墨をいれた男を見かけたこと。

 それを追跡したが、もう一人の男に気絶させられ、拘束されたこと。

 だが拘束を自力で脱し、男と戦ったが敗北し、魔術を暴走させてしまったこと。


 そして――林に逃げ出した男を追い、殺そうとしたところを、ユキト先生に止められたこと。


 すべてを話し終えると、父は深く、それは深くため息を吐いた。


「……本当に無事でよかった。何もされていないのだね?」


「はい」


 危うく殺されかけはしたが。

 不意にユキト先生と視線が合う。

 霜焼けのあとを隠すように首元に手を当てる。なぜか見られたくなかった。


「ユキト君。今回は本当に助かった」


「いえ……正直、間に合わなかったようなものです」


 もう二度と酒は飲まない、と呟く彼に首を傾げる。


「それで、その……あの男は」


「イリアが追っていた男なら、ユキト君が確保した。もう警察に引き渡されて尋問が行われている」


 そうですか、と呟いた。


「もう一人については……目下捜索中だ」


「あっ」


 父の言葉に、そうだ、と私は重要なことを思い出した。


「あの男たち、確か戦技大会に爆弾を――」


「それなら警察が把握している。男が尋問で吐いたからね」


 ただ、爆弾の行方は分かっていない。

 もう一人の男と共に姿を消したままだ。


「警察だけでなく、会場の警備には軍も動員する。万が一にも爆破などさせないよう、万全の警備を敷く。……お手柄だったな。知らずにいたら、どれほどの被害が出たかもわからない」


「いえ……」


「その爆弾がどのような代物かは、まだ聞き出せていないそうだが。あの会場を吹き飛ばすほどとなれば、随分と物騒な威力だ」


 父の言葉に、違和感を覚える。

 父はおそらく――そんな爆弾など存在しないか、それか、元から会場に仕掛けられないと思っているようだった。


「何も、心配はいらない」


 だが父の言葉に、私は口をつぐんだ。

 それはとても確信のある言葉だった。父は己の言葉を決して違えない。


「イリアさん」


 ユキト先生が、穏やかな声で私を呼んだ。

 ピクリと、体が無意識に反応して硬直した。


「医者の話によると、霜焼けの痕は残らないそうだよ」


 ――その言葉に、咄嗟に、私の頬が赤熱する。

 首元に当てた手を見透かされたようで。いや事実、見透かされたのだ。


「……先生。デリカシーがないです」


「えっ!?」


 私の言葉に右往左往する彼の姿に、初めて出会った頃を思い出して、笑みがこぼれた。

 するとなぜか、父もユキト先生も、ほっと安堵したように笑った。


 そのとき。

 コンコンと、執務室のドアを叩く音がした。


「旦那様。お嬢様。夜更けでございますが、緊急のお客様が――」


 私たちは、全員が顔を見合わせた。

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