#47 ~ 剣の中に残るもの
森の中を、男は必死に逃げていた。
(なんなんだ、チクショウ……!)
毒づく。
刺された背中がじくじくと痛み、流れ出る血が、振りだした雨が、嫌になるほど体力を奪っていく。
……イリアに背中を刺され、蹴飛ばされた男は、それでも生きていた。
起きた途端、とんでもない魔術の気配を察知して、取る物も取り敢えずに逃げ出したのだ。
「ちっ、なぜ私がこんな目に……」
逃げ込んだ林の中、愚痴を言いつつも止血する。
傷は深くはない。魔術で止血すれば、とりあえず死ぬことはない。
が、既に流した分の血は帰ってこない。おぼつかない足取りで、必死に林の中を進む。
うっとうしい雨が、容赦なく体温を奪っていく。
「なんなんだ、あれは……くそっ」
何が起こったのか分からない。
だがおそらく、あの女は復讐者なのだろう。
だが自分には関係ない、と男は思った。
何しろ彼は、この数か月の間に組織に加入した新参なのだ。
あんな女の『復讐』など、彼に心当たりなどあるはずもなかった。
木の陰に座り込み、深く息を吐いた。
ここまで逃げれば追っ手は来ないだろう。背中の治療は、いつもの闇医者にでも頼めばいい……そう思っていた彼の耳に、ピキリ、という不思議な音が聞こえた。
一体なんだとそちらを見れば――木が凍っていた。
「ヒッ」
ピキリ、ピキリ。
男のもたれかかっていた木までもが凍り付いていき、転ぶように範囲から逃れる。
だがそれは、あまりにも徒労だった。
男が見上げた先に、女がいた。
剣を手にして半身を凍らせ、まるで亡霊のように自分を見下ろす女。
「まっ、待てっ!!」
必死に叫んだ。この状況から逃れるには、もはやこれしかない。
「私は関係ない! 私は新参なんだ! 君の言う復讐には関係していない!!」
だが。
一歩、また一歩と。
パキリと音を立てながら女が歩き、そして凍っていく。
「頼む!! なんでもする! あの男のことも全部話す! だから――」
女は、剣を振り上げて。
そして、振り下ろす――
「そこまでだ、イリアさん」
来たりくる死。
絶対とも思えたそれは、一人の男によって、あっけなく阻まれた。
◆ ◇ ◆
(この状況は――)
クロの鼻を使って辿り着いた一軒家は、完全に凍り付いて崩れ去っていた。
雨によって臭いが完全に辿れなくなる前に着いたのはよかったが……。
漂う濃密な魔力の気配。強大な魔術が放たれたのだろうということは、知識のない俺でもすぐに分かった。
まさかと思い、完全に廃虚となった家を探したが、誰の姿もない。
もちろん、死体もない。
「ワンッ!」
するとクロが、近くの林の先を示すように吼えた。
探ってみれば、林の中に人の気配――そして同じ魔力の気配。
「イリアさんか……!?」
クロが高く吼え、そして駆け出す。
それを追って、俺もまた林へと足を踏み入れた。
そして――ようやく捉えた彼女は。
その剣を、うずくまった男に振り下ろそうとしていた。
「そこまでだ、イリアさん」
刀で剣を弾き、そして彼女を見た。
……身体の半分を凍り付かせた、イリアさんの姿を。
茫洋と、ただ男を見下ろしていた凍てついた目が、俺を見て。
そして明らかに、動揺に揺れた。
「イリアさん。みんな心配している。帰ろう」
「…………」
答えはない。
ただ呆然と、剣を手にしたまま俯くイリアさんの全身が震え、そして、唇が震えた。
「なんで……来たんですか、先生」
その声は、あまりに弱々しい。
「どいてください。その男は、兄を――」
「どかない」
俺は即答した。
「そんな風に泣く君を見たら、なおさら、どけない」
降りしきる雨の中で。
凍りながら、彼女は泣いている。
「――間違ってるなんて、私だって分かってる!」
それでもと、彼女は叫んだ。
「それでも、どうしても、許せない……!」
俺は、何も答えなかった。答えられなかった。
正しさなんて、人の形だけある。
復讐でしか救われない人もまた、確かに存在している。
それでも俺は――
「どかない」
「どいてぇっ!!」
叫んだ彼女の声が空を裂き、凍った雨が俺の頬を裂く。
だがそれでも、俺は動かなかった。
「あ、あああぁぁぁ……ッ!!」
慟哭が雨音を裂き。
氷の魔力は荒れ狂う。
彼女は剣を振り下ろす。
その剣は、見る影もなく、あまりにも稚拙だった。
振り下ろされるその刃に、俺は、ただ目をつむった。
そして――
雨の音だけが、聞こえた。
彼女の剣は、俺の首を切り裂く直前で、止まっていた。
ピキリと音を立てて、彼女の剣から伝う冷気が俺の肌を凍らせていく。
その顔は、ひどく歪んでいて。
こぼれ落ちる涙が、凍り付いた頬を滑る。
「どうして……」
震える唇から漏れた声は、ひどくかすれていた。
「私は……この時のため、この瞬間のために、ずっと――」
「違う」
彼女は、なぜ強くなろうとしたのか?
その剣を見続けて、時に手合わせし、それゆえに分かることもある。
彼女の剣は、兄の生き写しのようだったという。
では兄の剣で、兄の仇に復讐するため?
――違う。
「復讐のためなんかであるわけがない」
じいさんの剣を追い続けてきた俺だから、わかる。
彼女の剣は真っすぐだった。綺麗だった。
――それは彼女にとって、兄の剣がそうだったからだ。
自分もまたそうありたいと願うから、振ってきた剣のはずだ。
俺は剣を握るイリアさんの手を取った。
とても冷たくて、今にも壊れそうなほどに震える手を。
「君の剣の中に、もう今はそこにしか、君の兄さんはいないんだ」
だから、どうしても認められない。
君の剣をそんな風に穢してしまうのを。
そんな風に、何もかもを諦めた顔で泣くのを。
「その剣を復讐のためだけに振るうのを、一番許せないのは――君自身じゃないのか」
だから、泣いている。
怒りよりも、ただ悲しさで。
「私は……わたしは――っ」
彼女の掌から剣が滑り落ちる。
ぬかるんだ地面に、剣は音も立てずに転がった。
「にいさん……なんで……どうして」
力もなく、くずおれる彼女を抱きとめる。
その身体は、とても冷たくて。
壊れそうなほど震えていた手が、俺の服をぎゅっと掴んだ。
「あ、ああぁぁぁ――――!」
雨が、ただ降り積もる。
スコールのように激しさを増していく雨音は、彼女の叫びも、嗚咽も、そのすべてを掻き消して、押し流していった。
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