藍色の本棚
五十嵐文人
藍色の本棚
私は図書館で、必ず「あ行」から「わ行」まで、ゆっくりと歩くことにしている。そうして、「な行」の本棚まで来ると夏目漱石の『こころ』を開くのだった。借りることはないし、近くにある椅子に座って熟読することもない。ただ、最後の結末が変わっていないか確かめたくなるのだった。
今日も仕事帰りに小説の本棚に向かった。館内放送はあと十分で閉館することを私に告げる。
私は、まだ読んでいない本を順に探した。こう見ていくと、小説のタイトルは面白い。知らない単語もあれば、題名だけで惹かれてしまう本もある。気になった本をいくつか手に取り、最初の行を読んだ。休日に読んでみようと思うミステリーは見つけたが、今日読みたいと思える本に出会うことはできなかった。そんな時にこそ、あのシンプルなタイトルに私は心を奪われる。印刷の匂いが充満した静寂の中、私は『こころ』を開いた。紙を捲り「私はその人を常に先生と呼んでいた」という冒頭の言葉が見えると、高校時代の思い出がフラッシュバックした。
高校の教科書は、上と下が雑に編纂されていた。部活で疲れていた私は、現代文の時間でもよく寝ていた。先生に叩き起こされ、音読する箇所を指摘される。私はいやいや教科書を開いた。呼んだ文章に「淋しい」という文字が多く驚いたその瞬間、すっと文字が体の中に入っていく感覚に襲われた。
なぜかその感覚が忘れられなくて、私は帰り道にある書店に寄った。家に帰ってから、なんとなく読み始めると、手が止まらなくて、涙も止まらなかった。「恋は罪悪」という台詞を呼んで、動悸がしたことをよく覚えている。
そうしてあの時、先輩に恋をしていた私はKの想いに共感し、その結末とともに暗い気持ちに覆われた。
あれから、何年が経ったのだろう。様々な経験を通して、大人になった私は今日も期待を込めて本を開く。いつものように、本文は何も変わっていない。私もあの時から何も変わらない。それでも、青色の時代に受け止めきれなかった死の結末さえ変われば、あの頃の馬鹿で餓鬼だった自分を肯定できると思った。いや、もしかしたら、私は図書館の中で何かが変わることを待ち続けているのかもしれない。
いつかあの結末が変わる時が来たら、私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておくつもりだ。
藍色の本棚 五十嵐文人 @ayato98
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