※※

「『緋仙亭ひせんてい献文碑けんぶんひ』っていうのはね、昔後宮にあった『緋仙亭』っていう建物が落成した時に、緋仙亭の美しさを讃えて建てられた石碑なんだ。元々は緋仙亭の庭にあった物なんだよ」


 普段から静寂がとばりを降ろしている宮廷書庫室だが、冬の夜ともなるとその静寂は一層深みを増す。


「先々帝の公主様が住まうために、新たに増設された舎殿だったんだ。その公主様の母君が当時の有力貴族の娘で、……まぁ母娘ぼしともども後宮でやりたい放題好き勝手してたらしいんだ。新たに舎殿を増設したのも、その好き勝手の一環だったらしいね。あ、ちなみに何で『緋仙亭』って名前になったかというとね、そこに住まわれていた公主様の通り名がそのまま『緋仙公主』だったんだよ。緋色の衣を好んで纏う、仙女のように麗しい容貌の公主様だったからそう付いたんだとか。まぁ、性格中身は最悪だったらしいけど」


 ともすれば落とされた声が跳ね返ってきそうなほどに硬い静寂が書庫室に張り詰める中、呈舜ていしゅんの声は静寂に反発することなくしっとりと闇の中に溶けていく。それは呈舜がこの空間の主であり、常からこの空間の中に存在ごと溶け込んでいる証でもあった。


「『緋仙亭献文碑』を揮毫したちょう義淵ぎえん先生は、緋仙公主の母君の御実家に贔屓にされてた書家でね。その伝手つてで宮廷に上がって、官僚として仕官もしていたんだ。楷書体の文面を書かせたらもう右に出る者はいないってくらい、楷書の大家だったんだよ。当時、気軽にお話しできたら、あの几帳面で気持ちいいくらいに整然と並んだ美しい楷書文面をどうやって書いていたのか、直々にご指導いただきたかったくらいで……!」

「ほう?」


 そんな静寂を破るかのように、今度は低く、地の底から響くような声が現れる。


「その時代、あんたはどこで何してたんだ?」

「あ……え、……平書記官として、日々業務に邁進しておりました……」

「で? 今は何をしていた」

「……未榻みとう君が連日定時で帰っていく恐怖に耐え切れず、書庫長業務本業をサボって『御意見番』の仕事のために張り込みをしていました」

「で? その碑を発見したと?」

「そっ、そこは本当にたまたまだったんだよっ!!」


 石床に直接正座させられた呈舜は、思わずガバリと顔を上げた。その瞬間、足を組んで椅子に座った甜珪てんけいと思いっきり視線がかち合う。


 視線が合っただけで全てを凍て付かせた後、粉砕しそうな冷気と苛烈さと殺意を同居させた赤銅色の瞳を見てしまった呈舜は、思わず『ヒッ!』と悲鳴を上げながら視線を下げた。正座したまま器用に体を跳ねさせたせいで、呈舜の膝の上に載せられた書類の山がグラリと揺れる。ついでに山の一番上に乗せられた硯が滑り落ちそうになったのを見た呈舜は、慌てて硯と一緒に書類の山を押さえた。


 ──僕、これ、知ってる。『石抱き』っていう拷問だって。


 書類だけではなく、一番上に呈舜の硯まで乗せてくるあたりが心憎い。『こうすればあんた、逃げ出すどころか、硯を守るために自主的に書類の山を抱えるだろ?』という甜珪の内心が透けて見えるようだし、事実その思惑通り、呈舜は硯を守るために正座した膝の上に載せられた書類の山を自主的に抱きかかえている。ズッシリ重たい書類の山のせいで膝の関節やらすねの骨がどうにかなってしまいそうになっているにもかかわらず、だ。


 ──この硯、使いやすいし、結構由緒正しい子だから、大切にしてほしいんですけど……


「ぼ、僕が筆頭書記官になった頃、緋仙公主の母君の御実家が政権争いに負けてね。今までそこの派閥の人間はほんっとやりたい放題やってたものだから、反動で粛清の嵐もすごかったんだ。義淵先生も処刑されちゃって、作品もみんな処分されちゃったんだよ。緋仙亭そのものも破棄されちゃったし。だからあの碑はすごく貴重な物で……」

「……話には聞いてたけどよ」


『それでもあの石碑の重要性を語らずにはいられない僕って、ほんっと馬鹿』と思いながらも口を閉じ切れなかった呈舜の耳に、今度は聞き慣れない声が届く。


 書庫室の空気に弾かれて居心地悪く転がっていく声の主は、今宵の甜珪の相方であった青年だ。


「マジでこの先生、歴史の生き証人なのな?」


 呈舜の定位置である椅子に腰かけ絶対零度の視線を注ぐ甜珪の向こう、普段は甜珪が使っている椅子に腰かけた青年は、卓に頬杖をつきながら興味深そうに呈舜と甜珪の様子を眺めていた。


 好奇心を素直に映してクルクルとよく動く表情と、短く刈った黒髪がそのまま気性を表しているような青年だった。


 動きやすように袖丈や裾丈が詰められた暗色の袍は、宮廷呪術師が纏う装束だろう。常に厳しい表情と凛とした空気を纏っているせいで実年齢よりも上に見られがちな甜珪とは対照的に、まだどこか幼さが抜けきっていなくてやんちゃそうな印象がある子だな、というのが呈舜の感想である。


「緋仙公主って、六十年くらい前の『紅玖獅くくしの乱』の関係者だろ?」

「お前、知ってたのか?」


 青年の言葉に甜珪が驚きを表しながら青年を振り返る。そんな甜珪に青年は気安い空気感のまま軽く頷いた。


「宮廷に仕える人間ならそれくらい知ってんだろ? てか未榻ぉ、お前はちょっとその辺り興味なさすぎ」

「ぺーぺーのぱーぱーなお前がそんな難しいことを記憶していたことに驚いただけだ」

「うっわ、ひっど!」


 奇しくも呈舜が内心で思ったことと同じ台詞を、青年は真っ直ぐ甜珪にぶつけた。


 呈舜が青年を落ち着いて観察できるようになったのは先程ここで目を覚ましてからなのだが、その短い時間でも青年にとって甜珪が気心知れた相手であることはよく分かる。甜珪も甜珪で青年に容赦なくとげを向けている辺りから察するに、かなり気を許している相手なのではないだろうか。


 ──未榻君の棘って、信頼の裏返しみたいなところがあるもんね。


 願わくば、日々自分に向けられる棘も信頼の裏返しであってほしいと思う呈舜である。もっとも、自分の場合、仕事から逃走していることに対する殺意の刺であることは明白なわけだが。


「……あのー、そろそろ僕から質問してもいい?」


 そんなことを思いながら呈舜はソロリと片手を上げた。すぐにギンッと甜珪の厳しい視線が飛ぶが、それが一応『可』であることが読み取れた呈舜は、そのまま続けて問いを口にする。


「君は、未榻君の……えっと、ご友人、……で、いいのかな?」

「……あ。そういや自己紹介してる暇がなかったっすね」


 一瞬虚を衝かれたような顔をした青年は、ポンッと手を打つと身軽な動作で立ち上がた。右の拳を左のてのひらに添える武官式の礼を取った青年は、キレが鋭い動きに似つかわしくない少年のような笑顔を呈舜に向ける。


「俺、五剣いつるぎ雷牙らいがって言います。退魔省所属の宮廷呪術師で、祓魔寮時代は未榻の同期でした。うちの未榻がいつもお世話になってます!」

「雷牙。俺がこいつの世話をしているのであって、普段俺はあまりこいつの世話にはなってないんだが?」

「こいつ、口は悪いんですけど根はクソ真面目だし、腕も確かで頭も良くてほんっと有能なヤツなんで、よろしくお願いしますね!」

「雷牙」


 雷牙青年の実に爽やかな挨拶の隣で甜珪の殺気が鋭さを増す。だが雷牙は一切その殺気を気にしていない。そんな光景に思わず呈舜の胃がヒュッと委縮してしまった。


 ──うん。とりあえず、本当に仲が良いんだってことは分かった。


『殺気立つ未榻君をこんなに雑に扱えた人間は今までにいない』といっそ感心しながらも、呈舜は問いの続きを口にする。


「それで、未榻君と五剣君は、どうしてあの場所にいたの? 五剣君が退魔省所属ってことは、退魔関係の案件だった、ってことでいいのかな?」

「あー……」


 呈舜の問いを受けた雷牙は小さく声を上げながら甜珪を流し見る。そんな雷牙の視線を受けた甜珪は、小さく溜め息をつくと口を開いた。


「宮廷内に今、季節外れの怪談が流行っていることは知っているか?」


 どこかで聞いた話ではある。だが甜珪の口からそのことについて話を聞くことになるとは思っていなかった。


 呈舜は思わず目をしばたたかせる。もしかして自分達は意図せず、別口から同じ事件を追っていたのだろうか。


「『西南宮の中庭に夜な夜な幽鬼が現れる』って話なら、今まさに相談されている内容だから、知ってるんだけども……」

「じゃあその幽鬼が怪文書を残していく、という話は?」

「え? 怪文書?」


 だが甜珪が口にした話は、呈舜のあずかり知らぬことだった。


 驚きを乗せて甜珪を見上げれば、甜珪の視線は雷牙へ滑る。そんな甜珪の視線にひとつ頷いてみせた雷牙は、呈舜へ歩み寄りながら懐から一枚の紙を取り出した。


「これが実際の怪文書っす」


 書類を抱かされた呈舜は、顔の前に掲げるようにして雷牙から受け取った紙を見つめる。


 そんな呈舜の姿を見た甜珪は、一瞬瞳をすがめると雷牙に向かって軽く顎をしゃくった。それを受けた雷牙は軽く肩をすくめると呈舜の傍らに座り込む。


 一瞬だけ何事かと顔を上げた呈舜だったが、すぐに意識は手渡された紙に吸い寄せられていった。手を伸ばした雷牙が膝の上からテキパキと書類の山を退けていくが、膝にかかる重みの変化ももはや感覚からは遠い。


「刷られた文章、だね。拓本っていう可能性もあるけれども」


 黄ばんだ紙には全体的に墨がにじんでいた。その中心に白く文字が浮き上がっている。


 印章のように反転させた文字を彫り込んだ物に墨を付けて紙にしたか、文字を刻んだ石碑の上に紙を置いて墨を叩き込み拓本を取ったか、どちらかの方法で文字を残すとこのような形になる。


「問題は内容だ」


『書馬鹿』を如何いかんなく発揮させようとする呈舜の意識を、甜珪の声が引き留める。


「内容?」


 その声に意識を文字から引き離された呈舜は、ひとまず文字に対する考察を横に退けて文章の内容に目を走らせた。


「『菊梅は枯れ、龍の血は落ちる。国守くにもりの神は去り、龍喰らう者が笑う。永久とこしえは破れ、嵐が吹きすさぶであろう』……何これ?」


 墨の海の中に浮かんでいたのは、詩と呼ぶには稚拙な文章だった。かつて前職にあった時『手跡は国の宝 詩才は国の恥』とまで言われた呈舜に『稚拙』と言われてしまうのだから、そのお粗末さ加減も推して知るべしと言ったところか。おまけに何やら言葉が不穏で全体的におどろおどろしい。


「それを予言だって騒ぐ馬鹿がいるんすよ」


『でも筆跡自体は優美で気品があるんだよなぁー』と内心だけで呟く呈舜の隣で雷牙が深く溜め息をついた。おや、と傍らにしゃがみ込んだ雷牙を見た呈舜は、そこでようやく己の膝の上から綺麗に書類が退けられていたことに気付く。


「予言?」

「その怪文書が宮廷内に姿を現したの、結構前らしいんすよ。で、怪文書が出回った後に菊花殿様が亡くなって、梅花殿様は排斥された」


 その言葉に呈舜の喉がヒュッと鳴った。


 脳裏をよぎったのは、その二人と時を同じくして人生に幕を下ろした、かつての弟子の姿だった。


「龍の血は落ちる……」


 龍は皇帝を象徴する神獣だ。玻麗はれいでは龍が国を守っているという伝説もあり、詩文の中で龍はそのまま皇帝を指すことも多い。


 皇帝の血筋は、龍の血脈。


 確かに最近、その血筋が一人消えた。


「国守の神も、今はいない」


 ふと、静かな声が落ちた。


 はっと顔を上げれば、甜珪は静かな表情のまま考えに沈んでいる。


「もっとも、龍を喰った者が何に対して笑うのかは、今のところ分からないが」


 その静けさに、既視感があった。


 あれは、呈舜の過去について甜珪に打ち明けた、あの夜の書庫でのこと。呈舜の話を聞いた上で、呈舜の問いに答えるために己の重すぎる秘密を語ってくれた時の甜珪は、今と似たような表情をしていなかっただろうか。


 ──まさか、龍を喰ったって……


「まぁそんな感じで、退魔省はこの怪文書が『予言と言えなくもない』って判断したんすわ」


 そんな呈舜の考えを止めたのは、呈舜のすぐ傍らにしゃがみ込んだ雷牙だった。幼子おさなごのように行儀悪くしゃがみ込んだ雷牙は、己の膝に腕を置いたまま両手をプラプラと振る。


「で、最後の行がそりゃもう不穏じゃないっすか? 事態を重く見た退魔省は、幽鬼の正体の特定及び怪文書の真相解明、場合によっては幽鬼討伐を宮廷退魔師達に命じたんす。で、下っ端の俺は現場監視役になったんっすけども……まぁ張れどもは張れども空振るばぁーっかで」


 どこまで甜珪の事情を承知しているのか、絶妙なところで呈舜の思考を止めた雷牙は『もうウンザリ』とでも言わんばかりに重い溜め息をついた。もうひとつ聞こえてきた溜め息に顔を上げれば、甜珪まで雷牙と同じような表情で溜め息を零している。


「今回は事情も事情だったし、あんまりにも手応えがないんで早々に未榻を巻き込んだんっすけど。まぁーほんっと睡眠不足が加速するばっかでマジでホントに事態が全然進まなくって!」

「まさか五日も張って手がかりゼロだとは、俺も予想してなかった」

「俺なんてもう十日になるんだぜ? いいっ加減にちゃんと寝台で休みたいっつーの!」


 二人の発言から推察するに、どうやら二人は揃って連日、あの中庭を見張っていたらしい。そこに呈舜がノコノコやってきたせいであんな事態になった、というわけだ。


 ──そっか、未榻君の連日定時帰りは、退魔師業務副業のためだったんだね。


 同時に己をさいなんでいた最大の謎が解けた呈舜は思わずほっと息を吐いてしまった。


 ──五日も連続で帰るから、さすがに毎日退魔師案件だとは本気で思ってなかっ……た、って、……あれ? 未榻君が定時で帰ったのって、、だよね……?


「……ん?」


 だが、ふと我に返った呈舜は、改めて二人の発言を頭の中で整理して、とあることに気付いてしまった。


 ──定時で帰って、……というか帰ってはいなくて、書庫室を辞したら退魔省に行って、あの中庭を夜通し見張って、で、翌朝はいつも通りに出仕して、いつもよりテキパキと大量の司書業務を片付けて、で、また定時で書庫室を辞したら捕物に出て……?


「……つかぬことをお伺いするんだけどね、未榻君」


 思わず呈舜は挙手をしながら甜珪に問いを向けた。不機嫌そうな顔で呈舜を見遣った甜珪の表情は、やはりどこからどう見ても普段と変わりがない。


「君、最近ちゃんと寝てる?」

「安心しろ。退魔省の仮眠室を借りてたから、毎日一刻はきちんと寝ている」

「一刻っ!?」


 だが返ってきた言葉は、呈舜の予想をはるかに超えて短い数字だった。


 そんな甜珪の言葉を耳にした雷牙も、じんわりと心配がにじんだ目で甜珪を見上げる。


「なぁ未榻ぉ、巻き込んだ俺が言うのもなんだけど、もうそろそろ未榻はちゃんと寝てくんない? お前が倒れでもしたら俺、れいちゃんを始めとした胡吊祇うつりぎさんとか、斗張とちょう退魔長やら嵜羅さきら師長とか、とにかくヤバいお歴々にど叱られそうな気がするんだけど」

「これくらいの無茶は学生時代に散々やった。今更この程度で倒れるようなヤワじゃない」

「とか言いながらお前、退魔術じゃなくて追打ついだ棒振るってんじゃん。睡眠不足で術のキレが悪くなってるからじゃねぇの?」

「正式に退魔省に所属してるお前を差し置いて俺が術を行使したら、色んなところにいらん波風が立つだろうが」

「とか言って。玲ちゃんを巻き込もうとしねぇのも、紫陽しようを頼ろうとしねぇのも、玲ちゃんに今の状況を知られたくねぇからなんじゃねぇの? バレたら絶対止められるからって」

「あいつはあいつでこの時期は胡吊祇の家の用事で忙しいんだ。だからあいつを巻き込むのは……」

「ちょちょちょっ! ちょーっと待っ……ずべっ!?」


 飛び交う言葉に取り残されかけた呈舜は、二人の間に割って入ろうと腰を上げる。だが石床の上に重しを乗せられた状態で長時間正座させられていた足腰は、呈舜の想像以上に言うことを聞いてくれない。


 結果、呈舜は二人の言葉の応酬を止める代償に、顔面から床に突っ込んだ。


「……何してんだ、あんた」

「うっわ……。いくら不老不死っつっても、痛いもんは痛いでしょうに……」


 呪術師二人はそんな呈舜を若干引きつつ見ているようだった。


 二人に色々突っ込みたくて会話に割って入った呈舜だが、こんな目で見られたかったわけではない。ついでに言えば、サラリと暴露されてしまった自分の秘密についても、色々突っ込んで確認が取りたい。


「……ご心配ありがとう、五剣君」

「うぃっす」

「……ついでに、何で僕が不老不死って知ってるのか、訊いてもいい?」


 その衝動に突き動かされるがまま、呈舜は問いを口にした。そんな呈舜に雷牙が目をしばたたかせる。


「退魔省の人間は、大抵知ってると思うっすよ。宮廷にまつわる『不思議』は退魔省うちの管轄なんで。未榻が喋ったわけじゃないんで安心してください。こいつ、口メッチャ固いっすよ」


 ──管轄……


 己の身が退魔省の管轄下に置かれていたとは初耳だ。知らない間にそうなっていて、なおかつその状態が関係者にとっては周知の事実になっていたとは。そういえば甜珪も以前、呈舜の存在を師である宮廷退魔長に聞いたというようなことを言っていたような気がする。


「それに、未榻に言われたことないっすか? 『る人間が視れば分かる』って」


 それも確かに言われた。ちなみにどんな風に違いが分かるのかまでは詳しく訊いていない。何だか詳細を聞くのが怖いので。


 ──でも、ここまで言われると逆に気になる……って。


「そうじゃなくて!」


 話が本筋かられていることに気付いた呈舜は、石床と熱い抱擁を交わした状態から首だけを上げて叫んだ。そんな呈舜にますます甜珪が引いたのが雰囲気で分かってしまう。


「未榻君! さすがに働きすぎだよ!」


 そんな甜珪にひるまず、呈舜は言葉を続けた。


「五日連続でそんなに睡眠時間を削って! きちんと休まないと駄目だよ! 上司としても、睡眠不足で倒れたことが何度もある身としても、そんな無茶は見過ごせないよ!!」

「国家の大事に繋がるかもしれんと言われたら、休むわけにも放り出すわけにもいかんだろうが」

「もう! その発言自体がらしくないっ!!」


 恐らく甜珪がここまで己の身を削って雷牙に協力しているのは、雷牙が友人であることの他に、この一件が少なからず甜珪が抱えているに絡んでいると踏んだからだろう。


 甜珪のは、彼にとって何にも代えがたい存在……相方であり幼馴染である玲鈴れいりんが抱える事情とも繋がっている。天下無双、玻麗屈指の天才呪術師とまでうたわれた彼が、その地位を捨ててまでこの書庫室にやってきた、とある事情と。


 地位にも権力にも名声にも一切興味関心がなく、相手を良くも悪くも『自分と変わらないただの人間』としか見ない甜珪は、たとえ皇帝が頭を下げて頼み込もうとも己が気に入らない案件は引き受けない。恐らく国の存亡がかかっていようとも、甜珪の態度は変わらないはずだ。そんな甜珪が『国家の大事』などという見えいた建前を口にするなど、余程頭が回っていないに違いない。


 ──まぁ、『国家存亡の危機』ってなったら、未榻君が大切にしたい人達も危機にさらされるわけだし、そういう理由で渋々引き受けるっていうことならあるかもしれないけどね?


 そんなことを思いながら、呈舜は背筋と腕で上体を支えると、バンッと己の胸を叩いた。途端、慣れないことをしたばかりに咳が零れる。


「ゴッフ! ゲホゴホッ……! ぼ、僕も手伝うからっ!!」

「は?」

「だから! 僕もその怪文書の事件解決に協力するからっ!! だから未榻君はその分ちゃんと休んでっ!!」


 甜珪がそこまで己を追い込む理由が、呈舜にはわずかなりとも理解できる。だが同時に、落ち着いて冷静になって考えれば、何かもっと良い手が見つかるはずだとも思うのだ。何せ呈舜が知っている未榻甜珪は、とてつもなく優秀で頭が切れる人間なのだから。


 ──それに、僕にとっても、未榻君は大切な人だし!


 大切な部下が身を削っている姿を、ただ眺めて終わるだけの人間にはなりたくない。


 たとえ甜珪が普通の人よりも格段に丈夫な人間だと知っていても。たとえ自分にできることなどわずかにしかないと分かっていても。


 それでも、自分にだって力になれることが、きっとあるはずだから。


「怪文書といえども『書』は『書』だから! 僕にだって分かることが、きっとあるはずだから!」


 多分っ!! という何とも情けない言葉で呈舜の主張は締められる。そんな呈舜の言葉に耳を澄ませていた甜珪は、腕と足を組んだまま無言で呈舜を見下ろしていた。


 そんな甜珪が、ふと瞳を閉じる。


「……俺としては、あんたはこっちに構わず真面目に書庫長業務に励んでくれてた方が、安心して事件解決に専念できるんだがな」

「うっ……」


 ごもっともな御意見に呈舜は言葉に詰まる。


 だが呈舜が何かを言うよりも、まぶたを上げた甜珪が口元にほんのわずかな笑みを溶かして呈舜を見遣る方が早い。


「……まぁ、手詰まりなのは、事実だしな」


 赤銅色の瞳は、たとえ笑みを浮かべていてもまとう空気は凜と鋭い。だが呈舜はその中に笑みとともに一瞬だけ隠し切れない疲労がよぎったのを見過ごさなかった。


「雷牙、うちの上司、巻き込んでもいいか?」


 その言葉に呈舜はとっさに雷牙を見遣る。


 そんな呈舜に雷牙はニヤリと笑みを向けた。


「大・歓・迎! 事件は大事になる前にさっさと片付けるに限るからな!」


 ピョンッと身軽に立ち上がった雷牙が呈舜に両手を差し伸べる。その手にすがって呈舜が立ち上がると、甜珪も椅子から立ち上がったところだった。傍らに立てかけてあった追打棒を手に取った甜珪は、疲労も弱さも押し隠した、常と全く変わらない凛とした瞳で呈舜を射抜く。


「覚悟しとけよ。俺は、たとえあんたに退魔師案件に協力してもらったとしても、司書業務の監視の目を緩めるつもりはないからな」

「のっ、望むところだよ!」


 その瞳というよりも向けられた言葉にたじろぎながらも、呈舜は必死に背筋を伸ばして甜珪に相対する。


 ──まずい。これは積まれた業務に今から真面目に向き合わないと、早々に僕の方が詰むかもしれない……


 ただ外見は何とか取り繕えても、内心で滝のように流れる冷や汗を止めるすべは、どれだけ取り繕ってみても見つけることはできなかった。

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