史書に曰く。


 天より降りし皇帝がこの地に玻麗はれいという国を開いて二千年。玖釉くゆうに都が置かれて千五百年。皇帝が住まい、まつりごとを執り行う宮城も、増築や修復の手を受け入れながら国とともに歴史を歩んできた。


 人間というものは、命短き存在モノでありながら、時折悠久の時を越える品物モノを作り出す存在モノだ。それは書物であったり、工芸品であったり、建物であったり、形は千差万別である。


 とにかく人は、美しい品や珍奇な品を大切に残してきた。国のおさの元には、そういった品物が集まってくるものである。あるいはそもそも、国の長が住んでいる場所そのものが代物であったりする。


「つまり、この宮城、そのものが、かなり、古い代物、なんだよ、ねぇぇぇ……っ」


 そんな宮城の片隅にある、とある中庭のさらに隅。


 回廊沿いの茂みの中に身を隠した呈舜ていしゅんは、寒さ避けのために頭の上から被ったうちぎを胸の前でかき集めながら、ガチガチと歯の根の合わない口の中で呟いた。


 日が落ちてからしばらく。ただでさえ冷え込んでいたのに、冷気はさらに鋭さを増している。


 そんな中、呈舜が灯明のひとつも持たずにこんな場所にしゃがみ込んでいるのは、何も呈舜に凍死願望があるからではない。


「そりゃあねっ、こういうっ、場所っ、だからっ、ね……っ! 怪談話のっ、十や二十っ、あるにっ、決まってるっ、はずっ、なんっ……さみぶべばっ!」


 震える指先に息を吹きかけてみるが、いかんせん体全体が冷えているせいでちっとも温かさを感じない。温石おんじゃくのひとつでも仕込んでこれば良かったと後悔しても後の祭りである。


「っっっ……何もっ、こんな真冬にっ、怪談話がっ、流行はやらなくてもっ、いいじゃない……っ!」


 宮廷書庫室の長である呈舜には『宮廷書庫室書庫長』という肩書きがある。宮廷内で生み出されるありとあらゆる資料が最後に行き着く場所が宮廷書庫室で、呈舜はその資料達を後世に正しく継承させていくことを使命として宮廷に仕えている。


 そしてそんな呈舜は、『宮廷書庫室書庫長』という肩書きの他に『御意見番』という肩書きも持っている。……いや、『持っている』というよりも『持たされている』というか、『気付いたら勝手に持たされていた』というのが呈舜から見た感想なのだが。


「くぅぅ……! 勝手に『御意見番』になんかされちゃったから、真冬の夜にこんなさっむい場所で見張りなんてするハメになるんだ……!」


『返上してやるっ! 今度こそ、御意見番なんて役目、返上してやる……!』などと呟いてみる呈舜だが、実際のところ、この役目をそう簡単に降りることなどできないということも知っている。


 何せこの『御意見番』という役目、律令によって定められた役職ではない。


『権力からもまつりごとからも見放されていて、暇を持て余している宮廷の古株が、知らない間に周囲から頼られて、色々相談事を受けるようになる状態』というのがすなわち『御意見番』というものであるらしい。


 簡単に言ってしまえば『政に関係のない相談事を受け付ける、部署や派閥にとらわれない何でも相談役』である。職を退しりぞく間際のおじいちゃん官吏が日向ぼっこをしているところに、悩める若者が雑談ついでに相談にやって来る、というのが状況的に一番近いのではないかと呈舜は思っている。


 呈舜は『閑職の代名詞』とさえ言われてしまう宮廷書庫室の人間で、見た目こそ三十路半ばと若々しいものの、他の人間にちょっとやそっとじゃ追いつかれない程度には細く長く宮廷で暮らしてきた。経歴をつまびらかにした覚えもないし、そもそも外に出ることも稀なのに、なぜか宮廷人は呈舜の存在を知っていて、時折呈舜に『御意見』を求める相談事のふみを送ってくる。


 ──僕が『御意見番』を降りれる時って、僕に代わる『御意見番』が生まれた時か、僕が宮廷を辞す時なのかなぁ……


 そんな事を考えた呈舜は、思わず腕を組んで真剣に考え込んだ。


 ──うーん、まだ宮廷を辞すのは嫌だなぁ……


『仕事』と名の付く物は一律して嫌いな呈舜だが、宮廷や王宮という場所は一流品が集まりやすい場所だ。『書馬鹿』と自他ともに認めている呈舜としては、宮廷を辞すことで宮廷に集まってくる書の名品を目にする機会を失う害の方が、仕事から解放される利を越える。


 ──ということは、手っ取り早く僕が『御意見番』を降りるためには、後継者を育てて、それを周囲に認知してもらうしかないってことかぁ……


 この点から言えば、後継者候補がいないわけではない。ただにこんな話を振った瞬間、精神的にも肉体的にも『戯言ざれごとを口にしている暇があるならとっとと目の前の仕事を片付けろ』と一刀両断されてしまうことも目に見えている。


「……うん、やめよう」


 彼……すなわち呈舜唯一の部下にしてお目付け役である甜珪てんけいのことを思った瞬間、申し付けられた仕事を放棄して出てきてしまったことやら、『未榻みとう甜珪、謎の連日定時帰り』やらまで連動して思い浮べてしまった呈舜は、すかさず目の前のことに集中することにした。


 ただでさえ寒いのに、ここに追加で甜珪の氷点下の視線まで思い出したくない。本当に心が凍り付いて死んでしまいそうな気がするので。


「って、言ってもなぁ……」


 そこまで思いを巡らせた呈舜は、ようやく目の前のことに意識を引き戻した。改めて視線を中庭に投げるが、そこには微かな月明かりに照らされる何の変哲もない庭が広がるばかりで、特に目を引く物もない。


「どうしよう……。一晩中ここにいないといけないのかな……?」


 呈舜がここに座り込みをしているのは、とある文が『御意見番』としての呈舜の元にやって来たからだった。


 呈舜の元に寄せられる相談事は、必ず文の形を取ってやってくる。しかも必ず南天を想像させる物になぞらえてくるから分かりやすい。使われる料紙が南天の実を思わせる赤色に染められていたり、南天の絵が書き込まれていたり。前回とある大事件に巻き込まれた時は、南天の枝に文を結んで書庫室に届けるなどという雅やかなこともされた。


 とにかくそんな風に『書馬鹿』である呈舜に見て見ぬ振り、気付かなかった振りをさせないように、相談事はやってくる。今回の相談事は書類の間に挟み込まれていて、南天の葉を漉き入れた雅やかな料紙に几帳面な文字でしたためられていた。


 いわく。


「『西南宮の中庭に夜な夜な現れる幽鬼の正体を確かめて、できればもう出ないようにしてほしい』って……。それは『御意見番』じゃなくて、退魔省に相談した方がいいと思うんだけども……」


 相談の文に差出人の名はなかった。実はこんな風にひそやかに寄越される相談事の文は、半数くらいが差出人不明でやってくる。だからその部分に関して特に思うところはない。


 呈舜は『御意見番』で、やってくる文は『相談事』、それに対する呈舜の答えは『御意見』と便宜上呼んでいるが、実際に呈舜が相談された当人の元までご意見を直接届けなければならない案件は稀である。


 基本的に寄越される相談は『こんな不便が解消されたらいいな』『こんな噂があるが本当だろうか』といったことがほとんどで、根本が解消されれば直接返事をしなくても本人達にとってはそれで良しとされることばかりなのだ。


 ──まぁ、それでも一応、文の出どころかなぁって所に一言、文を返すようにはしてるけども。


 呈舜の元にやってくる相談事はその程度の代物で、呈舜が律儀にその全てに対応しなければならないわれは実はない。


 だが呈舜だって、これでも宮廷で長く揉まれてきた末に第一線を退いて隠居した年長者である。苦労の真っただ中にいる若人わかこうど達からの『困っている』『御意見が欲しい』という声が聞こえてしまったら無視することもできない。『仕事』は嫌いな呈舜だが、一応年長者としてその程度の良心は残っているのである。


 ちなみに先に挙げた二件に次いで多い『こんな不満があるのだが、どうやったら解消できるだろうか』という相談は要返信案件だと呈舜は捉えている。個人の不満は当人が自力で解決することが重要だし、そういった不満は下手に溜めこんで爆発させてしまうと後々大きな火種になりかねないと思っているので。


 ……まぁ、先述の通り、三件目のたぐいはあまり多くはないし、そういう明確に助言を求めてくる文にはきちんと差出人の名が記載されている場合がほとんどなのだが。


 ──退魔省に相談するにしても、根も葉もない噂だったら取り合ってもらえないだろうし。とりあえず手近というか、お手頃に相談できそうな感じでこっちに相談してきた、のかも。


 だから今回も『相談事』に応えるべく、とりあえずこうして現場を見張りに来たわけなのだが、かれこれ半刻ほどこうしていても特に幽鬼らしきものは見えないし、気配も感じない。もっとも、呈舜は霊感も何も持ち合わせていない凡人なので、もしかしたらそこに原因があるのかもしれないが。


 ……と、今更そこまで考えて閃くものがあった呈舜は、自分が潜んでいることも忘れて思わず手を打った。


「あ! もしてして相談主さん、未榻君をアテにしてた?」


 鋭く響いた自分の手の音に自分で驚きながらも、呈舜は己の天啓に思わず深く頷いてしまった。


「絶対そうだね。じゃなきゃこんな畑違いもはなはだしい相談事が来るはずないもの」


 未榻甜珪。


 度々呈舜の脳裏をぎっては恐怖で呈舜を震え上がらせる、呈舜唯一の部下にしてお目付け役にして『宮廷書庫室の存在意義を変えた』と言わしめる、今年入省の新人でありながら類まれに有能な官吏。


 司書としての甜珪に日々しばかれ、助けられている呈舜はうっかり忘れがちなのだが、世間一般に『未榻甜珪』は司書ではなく『玻麗屈指の』という枕詞まくらことばがつく高位呪術師として認知されているらしい。


 ──普段『司書』として仕事をしている未榻君が有能すぎて忘れてたけど。世間一般から見たら、未榻君は『司書』じゃなくて『普段は司書をしている呪術師』、なんだよねぇ……


 何せ『当代龍虎』だの『一対菊花』だのと讃えられている御仁である。


 話に聞くところによると、呪術師としての甜珪の腰に下げられる佩玉は『琥珀菊花』と呼ばれている物で、本来ならば退魔省の長官である宮廷退魔長その人しか帯びることを許されない代物であるらしい。


 甜珪はその『琥珀菊花』を祓魔寮ふつまりょうの学生であった時代に宮廷退魔長から直々に下賜された天才であるという話だ。


 そんな甜珪が司書本業では一番位が低い平官吏であることを示す無佩玉の黒帯を締めているのだから、落差が激しいことこの上ない。甜珪が地位や名声に頓着しない性格であることは知っているが、甜珪が微塵も抵抗なく平官吏の装束で仕事に励んでいる姿を見ると時折、『本当に、一寸も、本気で、心の底から何とも思わないの? 本っ当に?』と問い詰めたくなる呈舜である。


「んー……、ってことは、僕が半刻もここで震えてたのは完全に無駄足だったってこと?」


 そんな甜珪ではあるが、実はかなり深い事情があって本業に呪術師を選ばなかった。だが退魔術の腕前は衰えるどころかさらに研ぎ澄まされているそうで、本業呪術師達に請われてちょくちょく現場には出ているらしい。甜珪は自分のそんな一面を隠そうとはしていないから、宮廷人達に甜珪は文字通り『戦う司書』として認知されている。


 季節外れの怪談に怯える相談主も、呈舜のお目付け役として甜珪が日々辣腕を振るっていることは知っていたはずだ。呈舜に相談すれば自動的に甜珪も首を突っ込んでくれると考えたのかもしれない。


 ようやくそこまで考えが及んだ呈舜は、思わず遠くを見つめたまま乾いた笑みを浮かべた。


 ──やっぱり、未榻君が僕の部下になってから『御意見番』の仕事も増えてない?


 やはりここは甜珪を次代の『御意見番』として育成してみるべきか。そんなことを考えながら呈舜は下ろしていた腰を上げる。


「よっこらしょ。……あー、関節が固まってる気がする……」


 茂みをざわつかせながら立ち上がった呈舜は、枝葉が邪魔にならない場所まで出ると大きく伸びをした。成人男性の平均よりも飛び抜けて縦にだけひょろりと長い体を茂みに収めるべく縮こまらせていたから、あちこちの節々が悲鳴を上げているのが聞こえてくる。


「とりあえず、この一件に関しては未榻君に要相談……と、ととと?」


 呟きながら関節を伸ばしていると、なぜかツンッと衣の裾を引かれたような感覚があった。一瞬『まさかここで出たりとか……』と背筋がヒヤッと冷えたが、冷静に振り返ってみたところ、どうやら頭から被いた衣の裾が伸びをした拍子に茂みの枝葉に引っかかっただけのようだった。


「んもぅ、脅かさないでよね……」


 ブツブツと文句を呟いてみた呈舜だったが、内心では安堵の息をいていた。


 何せここで本当に幽鬼に遭遇してしまったら、どう対処すればいいのか分からないので。


「えーっと、ちょっと……え?」


 いい感じの防寒具がなかったから今は着ていない衣を適当に羽織ってきたのだが、一応思い入れもそこそこある品なので、できれば汚れやほつれは作りたくない。


 そんな一心でうちぎの裾を取られた茂みに向かってしゃがみ込んだ呈舜は、ふとその隣に埋め込まれた石に視線を取られた。段差がある植栽の土が流れてこないように土留めとして埋め込まれた石なのだが、その表面に何やらうっすらと字が刻まれているのが見える。


「ん……? んん?」


 細い三日月だけが照らす冬の中庭は暗い。だがかれこれここに半刻ほど座り込んでいた呈舜の目は闇に慣れている。ついでに重度の『書馬鹿』である呈舜には、書に対する気力と根性だけは有り余るほどに備わっている。


「……月、廿三日………亭、水、麗……舎……義淵、記……、ってこれ……っ!」


 結果、しゃがみ込んだまま四苦八苦しつつも石に刻まれた文字を判別した呈舜は、状況の全てを忘れて歓声を上げた。


ちょう義淵ぎえん先生の『緋仙亭ひせんてい献文碑けんぶんひ』っ!? うっそぉっ⁉ こんな所に残ってたのっ!?」


 呈舜は袿を放り出すと石にへばりつくように顔を寄せた。


 刻み込まれた文字にそっと指先を這わせる呈舜の顔は、今にもとろけ落ちそうなほどに緩んでいる。こんな姿を誰かに見られたら、呈舜の方こそ新手の妖怪か何かと勘違いされて退魔省に通報されかねない。だが目の前の文字に夢中になっている呈舜の頭からは、そんな些事などとっくの昔に叩き出されている。


「六十年前に張義淵先生が所属派閥もろとも消された時に作品も文献も揮毫きごうした石碑も額も全部まとめて消されちゃったから、もう二度とはお目にかかれないと思ってたのに……! まさかこんな場所で庭石に再利用されてたなんてっ! あぁこの格調高い楷書っ! 測ったかのように均一に取られているように見えて実はそれぞれの文字の形を考慮して絶妙に取られた字間っ! この几帳面に揃えられた行間、まさしく張義淵先生の揮毫っ! うわぁ、もう美しい……っ! 最高なんだよねぇ、義淵先生の楷書。もう楷書書かせたら右に出る者はいないっていうか……っ! 碑が建てられたって聞いた時も舐め回すように見たかったし拓本取りたかったけど、色々あって色々できなかったことを今までどれほど悔やんだことかっ!」


 さらに言えば、内心を鼻息荒く全て声に出してしまっていることも、今の呈舜は自覚していない。


「あああできれば石ごと引っこ抜いて持って帰りたい……っ! 延々眺め倒して研究したい……っ! 何でこんな時に限って拓本の道具持ってきてないのかなぁ僕ってばっ!」


 もっと言えば、自分が何のためにここに来たのかさえ忘れてしまっている節がある。


「あぁでも今から拓本取ろうと思っても寒すぎて上手くいかないかなぁ、せめてやるならまだ温かいお昼時だよねぇ。未榻君手伝ってくれないかなぁ。ちょっと大きめだから、誰かに手伝ってほしいんだよねぇ……。あ、せめて紙の大きさだけでも目星付けて……」


 最終的に口の中でブツブツ呟くところまで声音を落とした呈舜は、石碑の前にしゃがみ込むと右手の親指と小指を尺取虫のように動かしながら拓本に必要な紙面の大きさを測り始めた。


 そんな呈舜の頭からは相談された怪談話のことも、甜珪が連日定時帰りをしていることへの恐怖も、今自分が甜珪に申し付けられた仕事を放棄してここにいることも、『拓本取りたいから手伝って』などと口にしようものならそれこそ甜珪に抹殺されかねない事実も、綺麗さっぱりと消え失せている。


 だからこそ、自分の周囲の変化に気付くのが、一瞬どころか数秒遅れた。


「イヨッシャァッ! やっと見つけたっ!」


『あれ? 何か手元が見えやすくなった?』と思った時には、呈舜を囲うように足元に複雑な光の軌跡が走っていた。明らかな怪奇現象に驚いて飛び退こうとしたのに、なぜか呈舜の足は地面に縫い付けられたかのように動かない。


「へっ?」


 ──何これ、もしかして退魔術……っ!?


 この燐光には見覚えがある。甜珪が退魔術を振るう時、大地から湧き上がる霊力がこんな風に燐光となって甜珪の周囲を舞っていた。……主にその場面は残業用に追加の灯明が宙に放たれる時とか、ひっそり逃げ出そうとする呈舜を捕縛する時とかに見られるのだが。


「これでやっと連日の見回りから解放されるっ! 俺の睡眠時間のために神妙に縛に着きやがれっ!」


 突如としてあふれた燐光に足どころか体全体が戒められていて、立ち上がることはおろか顔を振り向かせることさえできない。


 中途半端に頭上に残っている袿にさえぎられて周囲の様子は一切分からないのだが、とりあえず聞き慣れない青年の声が聞こえることからこの術を仕掛けてきているのが甜珪でないことだけは分かった。声と一緒にガサガサと茂みが揺れる音も聞こえたから、相手が中庭の茂みを飛び越えて呈舜の近くまでやってきていることも分かる。


 ──いやでも僕、未榻君以外に退魔術を仕掛けられなきゃいけない理由なんて何もないと思うんだけどもっ!?


 そして相手が甜珪ではなく、呈舜を妖怪か何かと勘違いして退魔術を行使しているのであれば……


「『締め上げろ 縛り潰せ 不動の縄は緩まざりけり』」

「ちょっ⁉ ちょちょちょっ!」


 呪術師が捕物現場で妖怪相手に手心を加えることなど、あるはずがない。


「待ってっ! 僕はただの善良な一般市民……っ!」

「『不動縛……」

雷牙らいがっ!」


 呈舜の悲鳴を青年の物騒な呪歌がかき消す。


 その瞬間、聞き慣れた声が聞き慣れない名を叫んだ。


 呈舜を横殴りに吹き飛ばす、とてつもない衝撃とともに。


「へぶぁっ⁉」


 不動縛呪に縛られて首を動かすことさえままならなかったはずである呈舜の体が、どこからともなく振り抜かれた棒によって無理やり地面から引き剥がされる。


 死と紙一重のかなり強引な方法で退避させられた呈舜は、何もなくなった空間を光の縄が圧搾あっさくする様を視界の端で捉えながら、なす術もなく隣の茂みに放り込まれた。


「未榻っ!? おまっ……! せっかくの好機だったのに何考えて……っ!」


 そんな光景を見た青年が驚きの声を上げる。


 ……多分、上げていた、と思う。一切容赦なく振り抜かれた斬撃にあばらを何本か持っていかれたかもしれない呈舜は、痛みをこらえるのに必死でほとんど言葉を理解できていないのだが。


「よく見ろ雷牙。それは俺達のマトじゃない」

「へ?」


 だがそんな状況でも、凍て付いた今宵の空よりも冷え切った声が、キビキビとした足音とともに自分に近付いてくることだけは分かった。ついでに、いつ何時でも強制的に呈舜の耳目を引き付ける声に、いつになく低くドスが効いていることにも、気付いてしまった。


 ──いっそ今の攻撃で気絶できたら良かったのに……


 そう思っても、もはや後の祭りである。


 茂みの上に仰向けに放り出された呈舜の視界にふっと影が差し、次の瞬間にはサラリと赤銅色の髪が零れかかる。


 常に厳しい表情を浮かべている凛々しい顔立ちに、今は表情と呼べるものが何も浮かんでいなかった。感情が振り切れて『無』になった時の顔だということは、今まで何度もこっぴどく叱られてきた経験から理解してしまっている。


 それに万が一理解できていなくても、髪と同じ赤銅色の瞳に宿る殺意さえ垣間見える苛烈な視線に射抜かれれば、十人中十人が『彼は今、大層怒っている』という状況を嫌でも理解できてしまうことだろう。


 逆向きに顔を覗き込まれた呈舜がけ反るようにして視線を下げれば、常の出仕用の深緑の袍ではなく、闇に紛れる暗色の袍の上に黒い羽織布を纏った出で立ちが視界に入った。右手にある六尺棒に似た武器が、恐らく先程呈舜をぶん殴った凶器だろう。


 その先をカンッと軽く地面に突き立てた彼、……今日も定時で帰っていったはずである呈舜の部下にしてお目付け役である未榻甜珪その人は、わずかに瞳を細めると殺意が滴り落ちそうな笑みを口元に閃かせた。


「今の時間、あんたはまだ書庫室で書類を片してなきゃおかしいはずなんだがなぁ? なぁんでこんな場所にいやがるんでしょうねぇ? え? 宮廷書庫室書庫長サマよぉ?」

「あ、あはははー。す、数刻振りだねぇ、未榻君」

「吐け。あんた、こんな所で何してやがった」

「あのぉ……。その前に、一言だけちょっといい?」


 いつになく殺意倍増で迫る甜珪に呈舜は駄目元で『待った』をかける。一蹴されてしまうかとも思ったが、案外律儀なところがある甜珪は仰向けになったまま軽く手を挙げた呈舜に顔をしかめながらも口をつぐんでくれた。


 その間に呈舜は何を主張すべきかと目まぐるしく考える。何せここで言葉を間違えたら今度は甜珪に殺されかねない。


『とっさに助けようとしてくれたからああいう形になったことは分かっているけれど、もっと優しく助けてほしかったな』

『あの一発、もしかして意趣返しも含めて本気で肋を何本かもらっていくつもりでやったでしょ?』

『あんな攻撃仕掛けたら、退魔術からは逃れられても死んじゃうからっ!』

『何で未榻君もここにいるの? 呪術師としての仕事? さっき退魔術を仕掛けてきた、今後ろでポカーンッてしてる子はお知り合い?』


 様々な言葉が一瞬の内に脳裏を駆け抜ける。


 だが。


「拓本」

「……は?」

「そこの石碑の拓本取りたいから、明日のお昼に付き合ってくれない?」


 いつになく真剣な顔で切り出す呈舜に、今度こそ甜珪の顔から表情が消える。


 次の瞬間呈舜が見たのは、天に向かって手にした棒を振り上げる甜珪と、そんな甜珪を止めるべく慌てて退魔術を繰る青年の姿だった。

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