書聖南天、書を解いて曰く-怪文書は専門外なので趣味に帰ってもいいですか?-

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

 螢架けいか呈舜ていしゅんは困惑していた。


 まさに周章狼狽とはこのことである。


「いいか、そこの山は明日までに仕上げなきゃならん書類、その隣は近日中に片付けなきゃならん書類だ。俺はこれで上がるが、俺がいないからって嬉々として仕事サボるんじゃねぇぞ」

「うん、分かってる」

「では、お先に失礼します」

「はい、お疲れさま」


 本日の勤務終了を伝える退出鉦鼓が鳴ると同時に鋭く一礼した甜珪てんけいが、見惚れるほどキビキビとした所作で書庫室を出ていく。呈舜はその後ろ姿を自分の定位置である卓についたまま、ヒラヒラと手を振って見送った。


 だが顔に浮かべていた柔和な笑みは、甜珪の後ろ姿が視界から消えるとジワジワと歪んでいく。最終的にでき上がったのは、恐怖を無理やり抑え込んだいびつな笑みだった。


 ──いやいやいやいや、おかしいでしょ……!


 ガタガタ震える体を己の両腕で抱き込んだ呈舜は、それでも恐怖に耐え切れずに卓に突っ伏す。そのまま頭を庇うようにうずくまる様は、虎に追い詰められた兎そのものだ。


 ──未榻みとう君が五日連続で定時退出とかありえない……!!


 呈舜の部下である未榻甜珪は、仕事の鬼である。


 この冬を越えて春になれば甜珪が書庫室に配属されて一年になるが、彼はその一年にも満たない短い期間で『宮廷書庫室の存在意義を変えた』とまで言われる偉業を成した人物だ。


 無茶・無理・無謀な量の業務をこなすのは当たり前、平素であれば退出鉦鼓が鳴り響くのを聞きながら『さぁ、これからが本番だクソ上司』と腕まくりをし始めるのが未榻甜珪である。


 日々甜珪に絞られている呈舜はそのことを嫌になる程、身をもって、知っている。……正直に言えば知りたくはなかったのだが、無理にでも理解するように恐怖とともに頭に刻み込まれてしまったのだから仕方がない。


 そんな甜珪が、ここ五日ほど、定時になると同時に、呈舜を残して自主的に退勤していく。普段ならば退出鉦鼓が鳴り響いて二刻ほど過ぎた辺りで呈舜がそれとなく退勤を促しても、苛烈すぎる視線とともにバッサリその提案を却下し、時には徹夜業務でさえ辞さない甜珪が、だ。


 初日は驚きつつもお目付け役が早く帰っていくことを素直に喜んだ呈舜だが、二日目からは疑問を抱き始め、ついに定時退出が五日連続となった今日は耐えがたいほどの恐怖に苛まれている。


「一体何が起きてるっていうんだ……! 未榻君が五日連続定時退出って……! こんなの、配属初期でさえ稀だったのに……っ!!」


 業務に遅滞が生じることもなければ、仕事がおろそかになっている気配もない。早く上がる分、甜珪は業務時間内の作業効率を上げていつもと変わらないだけの成果を上げている。


 そもそも甜珪が普段長く残業しているのは、監視の目がなければ簡単に仕事を放り出して趣味に走り出す呈舜を監視するためという意味合いが強いから、本来ならばそもそもあそこまで残業する筋合いが甜珪にはない。甜珪が定時に退出していくのは、ある意味正しい姿だと言える。


 ……言える、の、だが。


「どこかで頭ぶつけたとか? 体調が悪いとか……? 玲鈴れいりん様に相談してみた方がいいのかな……? 退魔師副業の方が忙しいだけなら教えてくれるかもしれないし……。あれ? でも未榻君が五日も連続で出張らなきゃいけないような案件があったら国家問題じゃない? そこまでの問題になったら司書本業とかしてる場合じゃなくない?」


 常に監視され、しばかれ続けた呈舜にとって、この状況は恐怖でしかない。


 呈舜は思わず卓に突っ伏したままブツブツと独り言を続ける。


 まつりごとの中枢を司る内朝の中にあれども、今日も今日とて宮廷書庫室には閑古鳥が鳴いている。退出鉦鼓が鳴り終わった今、うら寂しい別棟を丸々一棟占拠した宮廷書庫室に呈舜以外の気配はなく、真冬の冷気と闇が空間を支配している。


 そして冷気と闇は、人の恐怖をあおる二大要因だ。


「~~~~っ! だぁぁっ!! こんな状況で仕事なんかしてらんないよっ! 今日はおしまいっ! お終いったらお終いっ!!」


 結果、呈舜は仕事を放り出すことにした。


 結果だけを見るといつもと変わらない状況だが、今回はそこに至った経緯が特殊だ。よって『これは致し方ないことなのだ』と呈舜は結論付ける。昨日まではきちんと言いつけ通りに一人でも真面目に仕事をこなしていたのだし、明日の朝普段よりも早く出仕してきて真面目に業務に励めば何とか帳尻を合わせることはできるはずだ、多分。


「……でも、こんな状況で趣味に走れるほど、さすがに僕の神経も図太くはないんだよねぇ……」


 善は急げとばかりに手早く卓を片付けた呈舜は、燭台のあかりを手燭に移して火の始末をする。光源が手燭だけになると暗闇の圧はさらに強く呈舜に圧し掛かってきた。


「仕方がないから、の仕事でも片付けますかねぇ……」


 その闇に抵抗するかのように独白をこぼした呈舜は、分かりやすいように脇に退けておいた書類を手にすると小さく溜め息を漏らした。


 光源が絞られたことで今はおどろおどろしく見える紙だが、その正体が南天の葉が漉き入れられた淡紅色の雅やかな料紙であることを呈舜は知っている。……昼間に仕事をサボって、散々眺め倒したので。


 そんな書類、もとい『御意見番』への相談事がしたためられたふみをもう一度眺めた呈舜は、もうひとつおまけにとばかりに溜め息をこぼすと書庫室の戸締りをすべく身を翻したのだった。

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