チャハーン

鈴木松尾

チャハーン

 得体が知れないかたまりがボクに「開放だ」とささやいていたのか、と気づいた。

 図書室に行ったのに、誰も居なくて暇だった。返却ボックスに入っていた文庫があって、それは梶井基次郎の檸檬レモンだった。済み印を引き出しから出して押す。暇で仕方ないし面白い事も起きなそうだから、本棚に返す前に読んでみた。途中で誰か来たら引き継げばいいし、十数ページの短編だから読み終わる頃にはチャイムが鳴る気がしていた。

 本当に誰も来なくて読み終えてしまうと、ボクは悶々としていた。「開放だ」の正体は塊だったんだと分かった。その塊についてもし彼が生きていたらボクは彼に聞きたいのだ。ボクにもあなたにも有ったと思われる塊は同じでしょうか、分かりますか?と。ボクの塊は何だと思いますか。ボクは自分の塊を無視できないのです。塊の正体が分かれば、ボクはその塊を箸でまんで捨てられると思う。分からない物は捨てていいのかどうか迷う。もしかしたら必要な物かも知れないし、いらない物だとしたらきっとそれはボクの心の闇、日陰、汚れ、カビ。そしたら手で触りたくないから箸を使うんだ。

 ボクは毎日がつまらない。ボクは眼鏡を掛けていて顔は自分でもオタクっぽい気がする。間違いなくコミュ力はないに等しいが、陰キャではない。そして自分にも諦めていない。夏川に告白すればきっと付き合えると思っていた。中間テストが終わった後、夏川が住んでいるマンションの入り口までは何度か行った。何度か行ったけど、そこで終わりというか、そこから先は勝算というかOKされる見込みがない気がして、無理だった。あのとき夏川と話した事とか優しくしてもらった事とか思い出しても、告白する勇気は持てなかった。だから明日から先もただ夏川の顔を確認するだけ。自分の好意を確認するだけ。テストだって、三週間前ぐらいから勉強し始めるけど、ベストテンにはいつも入れない。大して勉強していなそうなのに田坂くんはクラスで一位、学年でも三位に入る。部活もつまらないんだ。サッカー部がないからテニス部に入ったんだけど、顧問の先生はたまにしか教えてくれないし、先輩達も部活をサボっていて一ヶ月に一度来ればいい方だった。ゲームはあんまり好きじゃないから、家でやる事もない。観たかったアニメも観終わってしまった。部活に行くよりは家に居た方がマシだからすぐ帰るけど、それでも暇が見えてるから、放課後、とりあえず図書室に寄って面白そうな事がなければ帰る、って事にしてたんだ。

 そういう訳で中一のときから図書室に居る事が多くて、それで図書委員になった。塊を実感したのはその委員会で委員全員が集まって、新しい本の納品確認をしているときだったんだ。先生が「時をさまようタック」っていう新しい本のタイトルを読み上げたとき、砂金先輩が「え、なんでアヒルなの?」って言った。ボクらは六人掛けのテーブルに組み毎に分かれて付いていたんだ。ボクは二年一組なので、そのテーブルにはあと一年と三年の一組がそれぞれの学年から二人ずつ付いていた。ボクらのテーブルに先生の席もあって、その先生が納品された本を読み上げていた。先生はみんなから奈美路と呼ばれていて若い先生だった。神奈川の美しい路を歩いて行く、が名前の由来らしく、けど東南アジアの女性のような顔立ちだった。よくしゃべる先生でもあった。自分からそう呼んでいいっていうからみんな名前で呼んでいた。そういう親近感を出すし、他の大人より顔が濃いし、他の先生達より若いし、それでボクは性を想像してしまって、身体は大きく反応していた。夏川に持っている好意とは違う。だからなかなか具体的な行為に移せない。どうしたらいいのか分からないんだ。だけど塊は奈美路を見るとささやき続ける。「開放だ」と。奈美路が着ているワイシャツの真ん中を目を凝らしていれば見えるんじゃないかと、バレないように透視する。できる訳がない。奈美路は委員会があるときはボクらが居るテーブルに決まって座していたが、何かの拍子にそのテーブルでボクと二人だけになると、席を女子がいるテーブルに移していた。透視がバレてたのか?

 奈美路が「時をさまようタック、だよ。他の本のタイトル見てない?」って言うと砂金先輩は「あぁ、そうか。タックか。ダックに見えた」って言った。先輩のマジボケなんだったんだろう。照れてる。唇に充血。そこから塊がまたうるさいんだ。アヒルが紺に染まった異次元空間に吸い込まれている。奥の方に渦巻いて吸い込まれていくアヒルはなぜかサングラスをしていて、口ばしは黄色い。旋回しているからその黄色い口ばしがどんどん小さくなっていく。ボクは塊のささやきを止められなかった。奈美路の声はかき消された。納品確認は止まった。ボクの方は止めようにも止めなければならないと思う程、止まらない。

 だから図書委員会では面白い事が起きると思って、次の委員会も楽しみにしていた。委員会じゃなく、当番でなくても図書室に毎日行った。図書室はお昼休みも開放していて、本の貸し出しをする。各学年のクラス毎に一名ずつ当番になっていた。その当番のときはお昼を図書室にある控え室で食べてもいいことになっていた。一年に友達はいないし、三年で知ってるのは委員長のあかねちゃんだけで、茜ちゃんは引っ越す前の家が近所でよく遊んでくれた。威張る子だった。りえちゃんという、茜ちゃんと同い年の子とボクはいつも茜ちゃん主導の遊びにこそこそ文句を言い合っていた。ボクは五年生のときにそこから引っ越し、りえちゃんを中学で見掛けた事もなく、茜ちゃんは静かな人になっていた。元からあまり美人ではないのに、眼鏡を掛けて更に美人ではなくなっていた。夏川とか奈美路とは違う。塊は何も言わない。昔みたいに威張っていたら何か言ったかも知れないけど。そしたら塊はりえちゃんを探せとボクに思い付かせるのかも知れなかった。実際には茜ちゃんはおとなしくてつまらない委員長になっていて、苗字の三崎を付けて三崎先輩って呼んでいた。りえちゃんはこの中学にいるのかな。けど探す理由が無いというか、塊は反応せず、ただ有るだけだった。

 ある日、母さんから「今日は焼きそばだよ」ってお弁当を手渡されていた。手抜きか、まあ忙しいんだろう、と思った。何も言わずに受け取って、お昼は控え室に行く。あんまり見られたくない。その日はいっくんがいる日だった。いっくん以外にも早瀬さんとか一年とか、多分この曜日の三年の先輩は居る。いっくんに「今日、焼きそばなんだよね」って言うと「いいじゃん」って言ってたけど本当か?「俺は麻婆豆腐らしいよ」って言うから「麻婆豆腐は飲み物って言うやつがいるらしいよ」と言うと「それを言うならトントロは飲み物だな」「いや、それならカレーだって飲み物じゃん」「豚汁もそうだ」「大根とか固形だけど飲めるの?」

「とんかつだって飲み物だ」「豚は飲めるの?」「もずく酢とかなら分かるけど」「シチューは飲み物だな」というところで一応、納得した。親子丼は飲み物だろうか?鳥だからダメかも。

 ボクはお弁当箱を開けるとそこには溶き卵で作っただろうオムレツに「チーハン」とケチャップで書いてあった。早瀬さんはあの日のボクみたいになっていた。止まらないやつだ。塊はそっちに行ったか。いっくんは携帯で撮っていい?と何回も聞いてきてしつこい。接写するなよ、と言った。ケチャップが付くからだ。ボクのオムそばが汚れるからだ。いっくんの携帯を心配していない。「なんでチーハン」と言ったきり早瀬さんはしゃべれてない。いや、オムレツの脇から焼きそば見えてるから、チーハンじゃないし、そもそもチャーハンの間違いというか字足らず、チャハーン、よりはまだマシじゃないか?「接写するなって」と言うといっくんは「分かったでござる」「安心せい。拙者、接写はしないでござる」「ケチャップに気を付けるでござる」「かたじけない」と言い続けていると早瀬さんは大変そうだった。

 それからまた別の日、図書室の当番が誰も来なくて非番であるボクだけだった。そういう日に限って、貸し出しと返却が多くて手間が増えた。ひとり作業で目が白黒してたと思う。お弁当箱を開けてもいない。窓を開けると室内に舞う埃がチラホラ見えた。透明の空気の中に細くて白そうな糸の端っこみたいに短いものが浮いている。ここにたくさん有る本から出たのか。今日はつまんなかったな、と思ったとき、図書室にあるホワイトボードに落書きを思い付いた。ホワイトボードには誰が当番か書いてあるはずなのに書いていない。真っ白だ。だから引き継ぎ連絡がなく、今日はスガちゃんが来るはずだったのに来なかったのか。けどアイツの場合はサボりだろう、そう塊が言う。そう考えた方が落書きしやすいからだ。青い太ペンでボクは「スガ 煮物担当」と書いた。そしてそのままして午後の授業に戻った。放課後、勉強しに来る三年生とかが噂するだろう。「何、煮物って?」「なんで煮物なの?」とか。当のスガちゃんはいつ気付くだろうか。いつの間にか煮物の担当になった自分に。この後の授業中に塊が爆発してしまうだろうな。ムダな連想。どこかで止めておく事ができない。既に文化祭で煮物を作っているスガちゃんを思い浮かべてしまって、導火線に火が付いた時のような音がボクの口から出てる。食べられなかったお弁当を持って教室まで走っているとき、箸が落ちて転がった。塊の正体がそのときはっきりと分かった。遮る者が誰も居ない。皆、授業を受けるために着席している。真四角で真っ直ぐの廊下に、時計仕掛けの檸檬レモンが暴発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チャハーン 鈴木松尾 @nishimura-hir0yukl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ