傍に 菫色した 花ぞ咲く







「……」

「…………」

 有難うございました、という樹慧琉さんの声を背に店を出て歩くこと十数分。あまりにも当然で、しかし完全な盲点であった事実に僕たちは固まっていた。


「なあ、ウロ。これってわざと来たってカウントにはならないよな? 」

「今回ばっかりは仕方ないわね……」

 現在地、不審物落下現場。及び野良黒紙発見地点。僕たちは忘れていたのだ、ここが僕の家へと続く道の途中であった事を。わざとじゃない分死ぬほど気まずい。往路で現場にぶち当たっていたって言うのに、良く忘れてたな。


「兎に角!さっさと通り抜けて今日の目的を果たすわよ!今度こそ!! 」

「お、おう」

 ヤケクソなのか怒りが臨界点に達したのか、めらめらと燃え上がったウロの言葉尻に知らず後ずさる。おお、怨霊帰還せり。素直に恐ろしい。


「あんたも私も何も見てない気付いてない!いいわね!? 」

「お……おー! 」

 流石にここで空気を読まず楯突くほど馬鹿ではない。大人しく返事をして自宅方面にまず一歩。よし、帰るぞ。真っ直ぐ、真っ直ぐ。


「あれ、君よく来る学生くんじゃないかい? 」

「へ!? 」


 僕の涙ぐましい行動は想定外の声に早速中断させられてしまった。どうしよう、今ウロの顔を見たら本気で呪われる気がする。仕方ない、声の主の特定が先だ。頭の中で言い訳を唱えつつ声の主がいる方向に振り返る。

「え、ええと。何でしょう?って……あれ? 」

「やあ」




 立っていたのは痩せ気味の穏やかそうなおじさんだ。手にはシンプルな鞄と、大き目の本が一冊。それと大きなビニール袋。この人は、確か。

「本屋の、おじさん? 」

「すまないね、姿を見かけてつい」


 笑顔を見せて一言。いつもと変わらない何とも癒されるオーラに、ウロの剣幕でキリキリと痛んでいた胃の調子が大分マシになった気がした。おじさんとはさっき孤独のレイシを買った時にレジをして貰ったぶり、つまりはつい数時間ぶりだ。今日は何だかやけに人とばったりしてるなあ、などと先程とは打って変わって呑気に考えつつ言葉を探す。


「あの、えっと……そうだ!今日は有難うございました」

「何がだい? 」

「ブックカバー。あれをむき出しにしてるのは何だか恥ずかしくって。助かりました」


 本当はおじさんがレジを打ってくれた事自体に感謝をしているのだが、まさかそんな事を言えるはずも無い。あれだ、レジが同じ大学っぽいバイトさんとかだと気恥ずかしいとかそういうやつ。あれを回避できたのは精神衛生上非常に大きい。


「いやいや、それくらい。しかし驚いたよ。君がああいう毛色のを読むなんて。私もまだまだ見る目が甘いかな」

「……実は頼まれ物なんです。どうしても読みたいって女の子がいて」

「ああ、成程ね。もしかして君の良い人かい?いやあ、若いっていいねえ」

「え、あ、いや……! 」


 まずい、今のウロは絶賛怨霊御礼なのだ。下手に刺激すると黒紙大爆発なんて事態にもなりかねない。あの見るからにヤバいブツを大量投函なんてされた日には絶対に変死か怪死を遂げるだろう。主に僕が。


「……。……? 」

 正直まあまあ覚悟したが、いつまで経っても投函の気配が無い。もしかしてセーフ、だろうか?恐る恐る視線を後方に送る。

「何?どうしたの、そんな間抜け面して。ほら、喋ってるんでしょ。怪しまれるわよ」

「う、うん…? 」


 いつの間にか怨霊モードが鳴りを潜めている。それどころか何だか上機嫌に見えなくも無い。何なんだ、一体。

「どうかしたかい? 」

「あ、いえ!誰かに呼ばれた気が、して? 」

「誰か? 」

 おじさんに怪しまれないよう慌てて取り繕う。我ながら苦しい言い訳だが半分事実だ。嘘っぽくまでは映るまい。


「うーん、もしかするとお友達かもしれないね。ごめんね、引き止めてしまって」

「いえそんな!ええと、今日は本当にありがとうございました」

「いやいや、どういたしまして。じゃあ、また」

「はい、また」


 おじさんは軽く手を上げると、マンションへと入っていった。なるほど、ここに住んでるのか。ここは立地自体も何かと便利だし、何より通勤時間が短く済む。いいなあ、そういうの。おじさんに癒された余韻かまったりと思いを馳せていると、後ろに冷たい空気が触れた。間髪入れず耳元でウロの声が響く。


「何浸ってんのよ。ほら、さっさと歩く! 」

「わ!後ろで急に大声出すなよ」

「今まで黙ってあげてたんだからその位我慢しなさいよね」

 つくづく口の達者な幽霊だ。嘘つくのは下手だけど。




「何か今余計なこと考えたでしょ? 」

「滅相も無い。ほら、読み書きの勉強しなきゃだろ。行くぞ、僕の家」

「ったく良い度胸してるわ」

 軽い言葉の応酬の後、すいとウロが横に並ぶ。ちょっと勝気な笑顔を浮かべる彼女にこちらもにんまりと笑顔を返すと、腕を軽く小突かれた。

 

 





傍に 菫色した 花ぞ咲く



  

「はー、やっと着いた! 」

「はいはいいらっしゃい」

 家に着くなり、ウロはまたもや窓辺に陣取った。どうやらここがお気に召したらしい。うーんと伸びをして寝転ぶ姿が何とも様になっている。


「さて、どうやって勉強するかな。ええと、ドリルドリル」

「ね、ね、カイ。アプリも一度見てみましょうよ。最先端よ、最先端! 」

 僕が勉強の準備をしていると気付くや否やがばりと身を起こして覗き込んできた辺り、想像以上に勉強を楽しみにしていたようだ。何だか嬉しい。


「OK、ちょっと待ってろよ。えーとストアから……」

 アプリの名前を打ち込んで、検索。おお、これだ。




「ふーん、ドリルの内容に合わせたアプリになってるんだな。じゃないとドリル買う意味ないし、当然といえば当然か」

「で、どういう内容なのよ。私にもできそう? 」

「どれどれ……。書き取りテストはタッチ前提だから難しいかな。お、読み方テストはできそうだぞ。一日のおさらいに使おう、ウロ」

「やった!ふふ、楽しみ」


 そう言ってくるりと一周。やはり嬉しいと身体が動くという僕の見立てに間違いは無さそうだ。

「じゃあまず今日は……。あ行とか行かな」

「アギョウ?カギョウ? 」

 ウロが不思議そうに首をかしげる。なるほど、文字の勉強をした事がないと50音もピンと来ないよな。


「ひらがなカタカナには50音順…文字の順番があるんだ。一行5文字、それが10セットで50音」

「順番!?そんな面倒な物があるの? 」

 げんなり。ウロの今の顔を形容するならこれ一択だ。気持ちは分からないでもないが、これを乗り越えないと読書など夢のまた夢だ。


「そう難しく考えなくても大丈夫。喋れてはいるんだからコツを掴めば早いもんだぞ」

「でも……」

「でももヘチマも無し。まずはあ行から」

 すっかりやる気がしおれてしまったらしいウロを尻目にドリルを開く。見開きであ行が行儀よく並んでいる。僕の小学校の漢字ドリルもこんなだったっけ。そうそう、薄く見本が印刷されたマスをなぞって、下のマスに一人で書くんだよな。


「うっわ、懐かしいなあ」

「うう、頭痛くなってきた……」

「ウロ、勉強嫌いのガキ大将みたいだぞ」

「誰がガキ大将よ! 」


 ムキー!とウロが威嚇の姿勢をとる。残念ながら全く怖くない。  

「ガキ大将を撤回して欲しかったら頑張って勉強しような。ほら、座った座った」

 ぽんぽん、と僕のとなりを叩いて示すと、観念したのか大人しく座り込んだ。




「このページにあるのは右からあ、い、う、え、おだな。50音表の一行目」

「あ、い、う、え、お……ねえ、何でこの5文字がセットなの? 」

「うーん、そうだな…。まず音って言うのは母音と子音に分けられるんだ」

「ボイン?シイン? 」


「母音は日本語だと全部の発音についてる音な。それがあ、い、う、え、お」

「なんで? 」

「どんな文字も伸ばすとあ、い、う、え、おのどれかが絶対付くようになってる。ほら、かぁー、とかしぃー、とか」

「ほんとうに?ぬぅー、めぇー、ろぉー……ほんとだ! 」


「子音は母音の前にひっついてる音。その子音が一緒同士の文字が二行目以降の同じ組って感じかな。母音の前に同じ形の口をするやつ」

「それってら、とかろ、とか? 」

「そうそう! 」

「じゃあそれをまたあ、い、う、え、おで並び変えたら……」

「ほぼほぼ完成って訳だ。凄いぞ、ウロ! 」

「なあんだ、思ってたより楽勝じゃない! 」




 ウロの顔に覇気が戻る。僕の方もなかなか飲み込みの早いウロに内心ほっとしたのは秘密だ。何とかスムーズに進みそうな気配に、すかさずドリルを翳す。


「よし、この調子で勉強しよう。じゃああ行から」

「ぐっ……もうやりきった気でいたわ。ここから本番なのよね」

「そう言う事。さあドリルを見たまえ、ウロ君」

「何なの、そのキャラ」

「先生、もしくはひらがな博士」

「ないわ、0点」

「手厳しいなあ……」



 

 そうして進めること少々。ウロは僕の予想通り、いやそれ以上の飲み込みの早さを見せて見事あ行とか行をクリアした。何とも幸先のいいスタートと言っていいだろう。


「本当に凄いじゃないか。もうマスターだぞ! 」

「えへへ、まああんたの教え方も良かったって事にして置いてあげるわ。まあ、私のセンスが凄ーく良かったって言うのが大前提だけど」


 僕の褒め言葉にいたく気を良くしたらしいウロが、これまたオーバーにえへんと胸を張る。調子良いな 、まあ気持ちは分かるけど。


「じゃあ今日はもう確認テストやって一先ず終わりにするか」

「ちょっと、まだまだ行けるわよ!? 」

「あんまり焦って詰め込んでも駄目だろ。定着しなかったら意味ないし。」

「ぐ……ぐぬ……。だってあと40音じゃない……」

「詰め込むのと使いこなすのとじゃ要る練度ってものが違います。ほらウロ、アプリ開くぞ」

「アプリ!最先端! 」


 これ以上詰め込んで努力がパーになっては困る、と言う僕の方針に異を唱えたのもつかの間、アプリと言う単語に目に見えてウロの機嫌が良くなった。やっぱり単純だな、と過ぎった感想を悟らせぬべく素早く押し込み、鉄は熱いうちにとばかりに畳み掛ける。


「ほら凄いぞ。音声認識して花丸付けてくれるタイプだ。これぞ技術の進歩って感じだな」

「何それ見せて!早く早く! 」

「ちょっと待っててくれよ。ええと、これか。ほら、スタート! 」

 ドリルに印字されたコードを読み取って、同期。よし。


「タップは僕がするから、ウロは発声担当な」

「オッケー! 」

 タップして、開始。そこからはつつがなく進み、僕の目論見通りウロはテストを難なくパス出来た。いいぞ、このまま行けば多く見積もっても一月も有れば朗読刑から解放だ。




「凄いじゃないかウロ!一発合格だぞ。ほら、花丸もこんなに。うん、優秀優秀」

 駄目押しとばかりの褒め殺し。此処で更に気を良くしてくれれば、後はそう難しく無い。朗読刑討ち取ったりだ。

「はは、実体が有れば先生よしよしでもしてる所だぞ!な、ウロ」


 それ、追い討ち。そしてトドメのエアよしよし。どうだ、この誉めの波状攻撃。これにはさしものウロも機嫌良く乗せられてくれるに違いない。常に無い高揚感と共にウロに向き直る。だが、しかし。

「……あ、あれ? 」

「……〜っ」

 向き直った僕が、目にしたのは。

「……、……」

「えっと、ウロ? 」


 声も無くぶるぶると震えて俯くウロだった。その姿は、正直割と怒っているように見えなくも無い。え、いや、何で。途中まであんなにドヤってたのに?僕の心中の混乱を他所に存分震えていたウロが、勢い良く顔を起こしてはくはくと口を動かし始める。


「……か」

「か? 」

「か……か、か」

「かかか? 」

「かえる!!!! 」

「ええっ」


 その間、数十秒。それまでの逡巡が嘘のように飛び出した大声。突然のそれに反応する暇も何も無い勢いで、ウロが屋外へと跳ね飛んだ。


 勢いのまま飛び去ってしまったらしいウロの、ばかー!だのあー!だの喚く声がドップラー効果を残し彼方へ消えて行く。わあ、ドップラー効果って幽霊の声にも掛かるのか。そんな見当違いの感想を抱いた僕の口からやっとこさ漏れた言葉は、言わずもがな。





「何なんだ、一体……? 」






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