射干玉の 夜咲く椿 春厭い




射干玉の 夜咲く椿 春厭い




 ……張り込む事、既に二時間。そろそろ手がかじかんできたな、家に戻ればまだカイロがあるのに。ああ、一旦帰りたい。今夜は鍋したい。そんな事をつらつらと考えていると、不意に視界の隅に違和感が生じた。何かがコソコソと蠢いている。いや、大きさ的にゴソゴソ、か。辺りが静かなせいか、大きくは無い筈のその音がやけに耳に届く。続いて固いものの擦れあうガチャッ、という音。街頭の光を受けて2つのレンズがちらと光った。特徴的な形の、硬質なそれは、正しく。


――双眼鏡だ!


 どう見ても、黒。覗き見の現行犯。双眼鏡を取り出した男であろうシルエットの人間が、小鳥遊さんの部屋があるであろう方向を正に覗いている。程なくして、そいつの胸辺りから何かが這い出るように覗いて蠢いた。ドロリとしたそれがだんだんと形を成し、畳まれ、封をされて……。あまりの非現実にあっけに取られていた僕は、そこまで見てはっと我に返った。

「あれ、黒紙じゃないか……! 」


 想定外の遭遇に、どきりと胸が鳴る。しかしここは冷静に、冷静に。一度深呼吸をして、懐からスマホを取り出す。スピーカーに指を当て、こっそりと一枚。よし、押さえたぞ、現行犯!これで万一騒ぎになったときの保険は手に入れた。……少々頼りないが無いよりマシだ。




 さて、覗きの証拠は押さえたし黒紙の差出人もあいつで間違いない。そして、覗きに熱中しているのか追いかけようにも動かない。この分ではウロが気付いてここに来てくれれば一先ず今日の僕の仕事は終わりだろう。小鳥遊さんには悪いが素人の僕が対峙してもまず奴を取り押さえられないし、ここで覗きを中断させて刺激するのはいい手ではなさそうだ。


 そろそろ寒さにも限界を感じて、僕の中でそう結論付けた矢先だった。徐に目の前の影が、明らかに今までとは毛色の違う動きをした。何だ、身じろぎか?それにしてはおかしい。何で、今。よく目を凝らし、動きに集中する。双眼鏡を持ち替え何かを取り出す素振り。ギラリ、その何かが光った。ぽつんと立った街灯の光を、鈍い銀色が弾き返す。あれは。

 間違いない、刃物だ。遠目でも明らかにそれと分かるほどの刃渡りの。まさか用意していた?小鳥遊さんを刺す為に?予想外の展開に荒くなる呼吸を必死で殺し、何とか考えを巡らせる。嘘だろ、一体どうしてそこまで?……どうして、今日なんだ?


 そこで僕は不意に昼の小鳥遊さんの状態を思い出した。満杯のポスト。無意識に繰り返すと言っていた自殺のような夢遊病。もしかすると、僕たちに出会っていなければ正に今日、彼女は。


 縁起でもない考えに、慌てて頭を振る。だがしかし。もしこの仮定が正解だとしたら?それが僕たちに出会ってポストを軽くできたことで、変わりかけているのだとしたら?そうなれば、運命を変える鍵はきっとウロか僕だ。だが、頼みのウロは手馴れているとはいえ幽霊で、急に押し入った犯人に対抗する手段があるとは思えない。このまま放っておけば恐らく彼女は死んでしまう。



 それを避ける為に、一体どうするか?答えは至って簡単だ。放っておかなければいい。そう、ここで僕の方が動けばいい。僕が犯人に一声掛け、意識を逸らす。それできっと彼女の死期は遠のく。僕だってポストは軽くなっているし、彼女と同じように考えればここでは死なない。筈。


 根拠の無い理論ではあるが、何もしないよりはずっといいだろう。僕を奮い立たせるにはそれで充分。充分だ!男だろ、僕!そう念じながら意を決して飛び出し、息を吸い込んだ。冷たい空気が喉に痛い。ウロ、早く気付いて何とかしてくれよ……頼むぞ!

呼吸の震えを振り切るように、思い切り声を張り上げる。


「おいお前、そこで何してる! 」







 張り上げた声は、静かな学生アパート群に存外大きく響いた。弾かれたように視線の先の人間が顔をこちらに向ける。


 襲い掛かってくるか、逃げ出すか。相手は女性に張り付いて昏々と恨みを積もらせ、そこに刃物まで持ち出す最悪なタイプだ。どちらも考えられる。激しく暴れる心臓を押さえて、息を吐く。やばい、こちらに向かってきた!手には握られたままの刃物が見える。こうなれば怪我の一つもやむなしか。覚悟を決めたその時だった。


「何? 今の声」

「わ、見てよ! 何あれ! 」

「ねえあいつ双眼鏡下げてるよ、覗き? 」

「えー、気持ち悪い! やだ! 」


 頭上から女の子の声。どうやら僕の声を聞きつけて住人が顔を出したようだ。一つの部屋から、4人。春休みに帰省しなかった子達だろうか。酔っているらしくスマホ片手にやたら騒いでいる。おい、危ないぞ!自分達の置かれている状況がいまいち飲み込めていないだろう彼女達の為に、僕はもう一度大声を張り上げた。

「君達、危ないよ! 部屋に戻って! 」

 万一あいつに彼女達の素性が割れたら、それこそ厄介だ。これで何とか気が付いてくれれば良いのだが。そう思った矢先、彼女達の間延びした声が僕の耳にのろりと届いた。


「わあ、ヒーローじゃん! かっこいー! 」

「動画とってるよ、頑張って! 」

 うわあ、マジか。そんな感情が多分に出ただろう僕の表情など気にも留めず、頭上の女の子達はのんきにこちらに手を振っている。ああもう酔いどれめ、人の気も知らないで!


「刃物、刃物を持ってる! 早く、110番! 」

 騒ぎに気がつき始めたのか、はたまた不穏な単語を拾ったからか。他の部屋からも人が顔を出し始めたのが目に入った。そこでようやっと事態の深刻さに気が付いたのか、女の子達もきゃあ、と悲鳴を上げ始める。この人出と、喧騒だ。流石に分が悪いと判断したのか、目前の影が路地へと進路を変える。


「くそっ、待て! 」

「待つのはあんたよ、止まりなさい馬鹿! 」

 犯人を追いかけようとして、数瞬。意識外から掛かった僕を引き止める声に我に返った。幼いながらも気の強そうな、少女のそれ。間違いない、ウロだ。

「今捕まえておかないと彼女が危ないんだ、行かせてくれ! それにウロだって追いかけろって」

 言っただろ。言い終わらない内に僕の言葉が鋭く遮られる。


「あのクズ、あんたに襲い掛かろうとしたでしょ! それに刃物だって持ってたわ! そうなれば話は別よ。あんたじゃ危なすぎる! 」

 私が行く!そう言ったウロは路地へと飛び出したかと思うと、不意にこちらを振り向いた。

「今から言う番号に電話しなさい。いいわね、一度しか言わないから! 」



 慌てて携帯の画面を切り替えて、指示通りに0、8、0と押していく。良かった、何とか一度で聞き取れた。正解を押し終えた携帯の先で、コール音が1回、2回、3回と鳴り響き、4回目で不意に途切れた。程無くして、青年らしいトゲトゲした声が電話越しに響く。


「おいテメエ、今何時だと思ってる! 誰だ! 」

げえっ、柄悪いな。もしかしなくても、この人は。ウロの言っていた「雇い主」だろうか。

「あ、の。ウロの雇い主さんですか? 今ウロが黒紙の差出人を追ってます、ええと、そうだ……刃物! 刃物を持ってて。何とかなりませんか!? 」


 回らない頭で必死にいきさつを伝えると、くそ、あの馬鹿。面倒事を、そんな言葉を最後に電話が切れた。程なくして近づいてくるパトカーのサイレン。誰かが、通報してくれたのだろうか。……一先ず、助かった?



 緊張が一気に解け、思わずその場にへたり込む。ああ、情けないな。犯人との対峙を覚悟していたのだ、正直肩透かし感がないと言えば嘘になるが、命あっての物種だ。無事に越したことはない。







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