第35話 神崎沙綾は激しく戸惑う
「ごめん……なさい」
これは、別に昴を拒絶する為に出た言葉ではなかった。
昴は今までも「可愛い」とか「大好き」とか言葉にしてくれていた。けれど、こんなどこにでもいそうな普通の女に、誰が見てもイケメン過ぎる昴が惚れるとか、どうにも信じることができなかった。嘘だ……とまでは思わないが、なんで? どうして? という疑問はいつでも頭にあった。
昴が自分のことを特別だと言ってくれても、どうしても素直に受け入れられなくて、それに対する「ごめんなさい」であったのだが、昴は違う意味で受け止めたらしかった。
初めて見た男性の涙に戸惑っているうちに、昴の「逆玉」発言になるほどなと初めて納得でき、膝にすがりつかれて「沙綾がいればいい。沙綾と一緒にいたいんだよー」と号泣された時には、すっかり冷静に考えられるようになっていた。
昴の母親には、怒りを覚えるほどだった。沙綾には当たり前だが子供はいない。いないが、梨花の子供である千奈津のことは生まれた時から見てきた。というか、千奈津の子育てに参加することが沙綾のリハビリにもなり、ヒキコモリにならなかったのは彼女のおかげだと思っている。赤ん坊の高い体温に癒やされ、大好きと抱きついてくる小さな身体を抱き上げ、沙綾が泊まりに行くといまだに一緒に寝たいとゴネる。自分の子供じゃなくてもこんなに愛おしい存在なのに。ネグレクト? 意味がわからない!
しかも親の庇護が必要な多感な時期に、自分の子供を他人に押し付けて捨てるとか、いくら昴を産んだ親だからといえ、同じ人間だとも思えない。
その後昴がしたことは褒められることではないが、そうしなきゃ生きていけないと教えたクズ男も許せなかった。
膝が涙か鼻水かよくわからない物体でぐしょ濡れになったが、沙綾は気にすることなく昴の背中をポンポンと叩いた。千奈津が泣きべそをかいた時にしてあげるように。
しばらくすると、グズグズ言っていたのも落ち着き、昴は沙綾の膝にしがみついたまま話しだした。
「……こんな俺じゃ駄目? 嫌いになる? 」
「ならないです。落ち着いてください」
「別れない? 俺は別れないよ」
「それはおいおい話し合いましょう」
昴はガバッと顔を上げた。泣いたからか目は真っ赤に充血し、瞼も腫れぼったくなっていて、鼻の頭まで赤くなってしまっていたが、やはりイケメンはイケメンだった。沙綾が同じくらい泣いたら、絶対に人に見せられない顔になっている筈だ。
「おいおい……それは老後ってことだよね」
「それは老い老いですよね。私の言っているのは話を追っての追い追いですからね」
「追い追いもなにも、別れ話は聞かないったら聞かない」
なんて言うか、いきなり子供っぽくなったな。
今までの優しくて穏やかな(たまにエロ発言するけど)昴も魅力的なんだろうが、沙綾は今の昴の方がより親しみやすく感じた。
「浅野さん……自分のこと俺って言うんですね」
「なに、それが駄目なの? 僕? 私? 何なら良い? 」
「いえ、俺で良いと思いますよ。凄く自然ですし」
「うん、もう沙綾には隠し事はないし、全部見せることにしたから。これが俺の自然体。人当たりがいいのは優しいからじゃなくてただの処世術」
「浅野さんは優しいですよ」
「そう見せてるだけ……グズ」
鼻をすする昴にティッシュを差し出した。
「お鼻チンです」
「ン」
ティッシュを鼻に当てると、素直に鼻をかむ。完全に子供化している昴だった。
「浅野さんは優しいです。私がやることを急かしたりしないし、私が人と視線を合わせるのが苦手だから無理に視線合わせようとしないです。いつだって私のペースに合わせようとしてくれました」
「別に、沙綾……ちゃんのペースは嫌いじゃないだけ」
今更ながらに、沙綾のことを呼び捨てにしていたことに気付いたのだろう。沙綾はクスリと笑った。昴に呼び捨てにされるのは嫌じゃない。
「いいですよ。無理にちゃん付けにしなくても」
「なら、沙綾も俺のこと名前で呼んで。口調ももっと砕けて」
「……それも追い追い」
「追い追いが好きだな」
「そうかもしれませんね」
昴は立ち上がって沙綾の横に腰を下ろした。少し……かなり距離は近いが、肩越しに感じる体温が暖かく感じるのは、昴が泣いたせいか、沙綾の昴への気持ちが近付いたせいか。
「なぁ、話し合うって別れ話なら聞かないからね」
「別れ話……ではないです。多分」
「多分……」
昴が沙綾の手をギュッと握った為、沙綾は優しく昴の手をポンポンと叩いた。
「まずですね、大前提が間違っているので、そこを正さないとなんですよ」
「大前提? 」
「はい。うちは中流……ちょい以下くらいの一般サラリーマン家庭です」
「?」
意味がわからないという表情の昴に、沙綾はスマホをポケットから取り出してお正月の親戚との合同写真を昴に見せた。母方と父方の2枚だ。
キラキラ華やかな親戚の真ん中にザ・地味な家族がチマッと座っている。着ている物からしてまず違う。いかにもセレブリティな人達と、平々凡々な一般庶民。
「確かに親戚は華やかな人達が多いです。でも、おじいちゃんは米農家だったので、お父さんの兄弟は自力で企業して今の地位にいるんです」
「それは凄いね。なんかオーラのある人達ばっかだ。お母さんの方の親戚の人達は固そうな感じだね。あれ、この人どっかの大学教授じゃない? 昨日テレビに出てた」
「はい、母の方は長男が警視長……だったかな。次男が大学教授ですね。三男が弁護士……違った裁判官やってるのかな。確かに職業は固いですね。父親の方は起業した人ばかりでしょうか。その中でうちの父親だけ普通のサラリーマンですし、どちらかというと窓際族っぽいです」
「あー、うん。優しそうなお父さんだよね」
見た目もパッとしないから、それくらいしか言いようもないだろう。
「家は郊外の一応一軒家ですけど、庭とかない建て売りの縦長の3階建てですしね。遺産とか期待できる物は何もないです。親戚がこんなんだから、勘違いされることが多いですけど。あ、うちの親戚の会社限定ですが、就職する時は多少は口がきけます。そのくらいの特典しかありませんね」
「特典って」
「私とお付き合いする特典です。逆玉は無理なので。浅野さんには全く魅力的でない特典で申し訳ないのですが。うちの会社、縁故採用はあっても、出世は個人の力量なんです。なので、私関係なく浅野さんなら出世できそうですね。起業とかするなら、色んな面でご相談にはのれるかもしれません。主に私の親戚がですが」
「起業の予定はないかな」
かなり珍しく沢山喋って喉が渇いてしまった。しかし、昴に手を握れているからお茶の準備もできない。
「そうですか、残念です。そうすると私には付き合う価値がほぼなくなるんですが、浅野さんはそれでも私とのお付き合いを続行する意思はありますでしょうか? 」
「え? 俺に決定権があるの? 」
イケメンはびっくりした顔もやはりイケメンだ。何を驚くことがあるのかわからないが、逆玉狙いで自分に近付いたのなら、逆玉じゃないとわかったらフラれるのは自分ではないだろうか?
「逆玉ではないのでそうですね」
「俺が別れないって言ったら別れない? 」
「まぁ、きちんとうちの状況をご理解いただけているのなら、浅野さんの意思を尊重しますよ。……私も別れたい訳ではないので」
ただ、もう一つ気になることがあるっちゃある。昴の生きてきた環境を考えると、ちょっと聞くのを躊躇われるけれど。
昴が沙綾に求めているのは男女の恋愛ではなく、ぶっちゃけ家族愛なんじゃないかということだ。最低最悪な本物の母親のかわりに、「お母さん」を沙綾に重ねているのではないだろうか?
もしそうだとして、沙綾は昴の「お母さん」役をいつまでできるだろう。昴の母親が昴を甘やかさなかったかわりに色々してあげたいという感情はある。千奈津に向けるような愛情を注いであげたいが、それが辛くなる日がくるだろうこともわかっていた。
沙綾が昴に感じているのは親子の愛情ではないのだから。
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