第11話 神崎沙綾のヤキモチ?

 お昼過ぎ、約束の時間に沙綾は昴のマンションについた。いつも通りに、ある程度仕込んできた夕飯の入った紙袋を抱え、沙綾はコンシェルジュの野崎さんにペコリと頭を下げてマンションに入る。エレベーターに乗り、10階で下りて昴の部屋の鍵を開けた。

 昴はまだ起きていないのか、部屋の電気は暗い。ソファーに無造作に昨日着ていたスーツが脱ぎ捨てられており、テーブルにはほぼ空のウィスキーのボトルとコップが一つ。


 ボトルとコップを片付けて、スーツをハンガーにかけようと手に取っると、そのスーツから昴のいつもつけているグリーンノートの香りよりもきついフローラル系の香りが匂った。明らかに女性の香りだ。

 玄関にはハイヒールとかはなかったし、コップも一つだけだった。この家に連れ込んではいなさそうだが、昴に女性の影を感じて沙綾はおもいっきり顔をしかめた。

 あまりに自分に対する態度に異性を感じなかったから考えてもいなかったが、芸能人も顔負けの顔面偏差値を誇る昴だ、女性の一人や二人……三人や四人……十人超えもあり得るくらいわんさか女がいたっておかしくない(ある意味正解)。

 いや、昴は確かにもてるがそんな不誠実なタイプには見えない(おもいきり不正解)から、ちゃんとした彼女が一人いるのかもしれない。あのいかにも女女した香水の持ち主が彼女……なんか少し嫌かも。自分には全くもって関係ないが。


 モヤモヤとした気持ちで掃除をしていたせいか、いつもよりも早く掃除が終わった。何も物を壊さずにすんで良かったが、掃除機をかけても昴は起きてこず、さてどうしようと沙綾は考える。出来ればシーツを洗濯したい。それに昴は土曜日は家で仕事をすると言っていたが、この時間まで寝ていて良いのだろうか?


 控えめに寝室のドアをノックするが、昴の返事はない。ただ寝ているだけならいいが、もし具合でも悪かったらと思い、沙綾は思いきってドアを開けた。


「お酒臭……」


 部屋中に酒の臭いが充満しているようで、お酒にからきし弱い沙綾は臭いだけで酔いそうだ。カーテンを開け、空気入れ替えの為の窓を開ける。


「浅野さん……」


 ベットに近寄ると、スースーと寝息をたてる昴の顔を覗きこんだ。切れ長の目は閉じられており、男性のわりに長い睫毛が微かに揺れる。形がよく高い鼻は外人さんみたいに鼻の穴が縦長で、薄くて男らしい唇は半開きで可愛らしい。

 本当に整い過ぎた顔だ。ここまで別次元の秀麗さを見せつけられると、好きとか嫌いとか言うこと自体烏滸がましい気がする。


「浅野さん、お仕事しないとじゃないんですか」

「……ウッ……ゥン」


 軽く肩を揺すると、甘い(酒臭い)吐息を吐いた昴がうっすら目を開けた。その途端、腕を引っ張られて体勢を崩した沙綾は、昴の上に覆いかぶさる形になってしまう。


「ゥッヒャ! 」


 慌てて起き上がろうとしたが、昴の胸元に抱き込まれる形になってしまい、思いきり昴の匂いを吸い込んでしまう。着替えずに寝落ちしたのか、昴はYシャツを着たまま寝ており、そのYシャツからは昴のグリーンノートの爽やかな香りと、お酒のクラクラする匂いに混ざっていたが、それよりも強くフローラルの甘い香りが主張していた。


 そして襟首についた赤い口紅の跡が目の前に……。


「浅野さん……Yシャツ洗います。脱いでください」

「うん……うん? 」

「口紅の跡、落とさないとですから」

「えっ?! 」


 昴はガバッと起き上がった。そのおかげで身体を離すことのできた沙綾は、寝起きで何やらパニック状態の浅野を冷静に見ることが出来た。いつもオドオド挙動不審なのは沙綾なのに、今日は浅野がオロオロしている。


「シーツも洗いますから、外して持ってきてください。お風呂入りますか? 沸かしましょうか」

「いや、シャワーで。洗濯物は僕がするよ」

「……そうですか」


 沙綾も、好き好んで誰だかわからない女がつけていた口紅のついたYシャツを洗いたい訳じゃない。

 沙綾は昴と目を合わさずに軽いお辞儀をして部屋を出ようとした。


「沙綾ちゃん! 」


 ドアを閉めようとしていた沙綾の手が止まる。


「あの、これは別にたいした意味はなくて、たまたま偶然ついただけで……」

「……そう……ですか。私には関係ないですから」


 たまたま偶然、あんなに匂いがうつるくらいに接触したんですね。別に大人の男性がどこで誰とナニしててても、それは自己責任だと思うし、わざわざ雇われハウスキーパーに言い訳なんか必要ない。

 そうよ、私はお手伝いさんみたいなもので、ただ私が家事にくる時間にブッキングしなければ、どうぞお好きに女性と過ごしてくださいっての。


 沙綾は何故か湧いてくる怒りをぶつける場所もなく、拭き掃除を開始する。


 そんな沙綾に声をかけようか悩んだ昴だったが、昴がリビングダイニングに顔を出しても背を向けられて窓を拭いている沙綾を見て、頭をガリガリとかきながら風呂場へ向かった。


 あー臭い、あー臭い、あー臭い!


 沙綾は拭き掃除が終わると、ファブリーズを片手に色んなところにシュッシュと始める。昴のスーツやベッドは念入りに、部屋中のアルコール臭とフローラルの香水の匂いを打ち消すように撒き散らかしていたら、ファブリーズがなくなってしまった。ストックの詰替え用を取りに脱衣所に向かうと、シャワーを出てラフな部屋着に着替えた昴と出くわした。


「沙綾ちゃ……ん? 」

「……何でしょう」


 沙綾にしては珍しく語尾までしっかりした「何でしょう」に、昴はへニョリと眉を下げる。イケメンは困った顔までイケメン過ぎて狡い。


「何か怒ってる? 」

「別に。……私、人より鼻がきくんです。だから、強い匂いが駄目で。それだけです」

「昨日かなり飲んだからな。もう、匂い取れた? 」


 沙綾は一歩近寄って昴の胸元の匂いを嗅いだ。通常ならそんなこと絶対にしなかっただろうに、アルコールの臭いに意識がぶっ飛んだのか、香水の香りに苛立ったからか。


「……さっきよりはずっとマシです」


 アルコール臭は微かにあるものの、あの香水の匂いはなくなっていた。昴のトワレの匂いにホッと息を吐く。


「何か食べますか? おじやとかならすぐに作れます」

「いいの? 」

「お待ち下さい」


 沙綾はそさくさと昴から離れるとキッチンへ向かい、昴は「ちょっとトイレ」と言ってしばらく戻ってこなかった。おじやが出来上がり、まさかトイレで吐いたりしているんじゃないかと心配しだしたちょうどその時、すっきりした表情の昴が戻ってきた。

 お腹をくだしたのか、嘔吐してきたのかわからないが、すっきりしたのなら良いことだ。


「食べられそうですか? 」

「うん、ありがとう」


 昴に卵おじやを出して、いつものようにL字の位置に沙綾は座る。フーフーと冷ましながら食べる昴の横顔を眺めながら、何で自分はこんなイケメンの横(斜め横だが)に座って食事の世話をしているんだろうとボンヤリ考える。まるで奥さんみたいだ……。


 いやいやいやいや、凄い勘違いだからね。ただのお手伝いさん、スーツの弁償の為に労働力を提供しているだけで、私みたいな一般ピーポーが恐れ多いでしょうが。妄想にしてもあり得ない。私なんかが……。それに浅野さんにはフローラルな彼女さんがいる筈。


「そう言えば……」

「ん? 」

「彼女さんには私のこと……私がハウスキーパーさんの代わりにおうちに出入りしていることは話してあるんですよね? 」

「彼女? 」

「はい。彼女さんがいることを失念していた私が悪いのですが彼女さん以外の女が家の鍵を持っていて自由に出入りしているなんて嫌じゃないですか。いや浅野さんにとって私が女の概念にかすりもしない存在だってのはわかってます。だから浅野さんももしかして彼女に話忘れてるんじゃないかと思いまして」


 沙綾は視線を床に固定して、ノンブレスでいっきに話した。こんなに話す沙綾はレア中のレアだ。


「彼女はいないし、沙綾ちゃんは僕にとっては普通に可愛い女の子として認識してるけど? 」


 イケメンは本当に息を吐くようにお世話を吐くなと感心しながら、沙綾は昴の言うことを本気にせずにスルーする。


 それよりも、フローラルの女は彼女ではないと?! あの口紅は?!

 彼女じゃないとしたら、そういうことする相手の一人や二人や……十人のうちの一人ということ?!!(大正解)


 この日、雑念の多かった沙綾の家事はすこぶる早く終わり、昴と視線が合うことはただの一度もチラともなかった。

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