第8話 浅野昴、家庭の雰囲気に暖まる

 会社では内緒にすること。


 付き合うとかまだそういう話にすらなっていないのに、友達の段階ですでに内緒にしなきゃいけない関係……。昴の過去がバレたとしたら、それはまぁそうだろうなとは思う。今の昴は肩書きだけなら有名大学卒業、某大手企業勤務のエリートサラリーマンではあるものの、実際は父親不明、母親に捨てられ、女性を金蔓にして生きてきたんだから。そんな男の友達なんて、フシダラな関係を疑われそうでバラしたくはないだろう。

 が、それをバラすつもりは今の所ない。


 なので一般的に見て、友人としても恋人としても、昴は最良物件の筈なのだが、昨日たまたまエレベーターで会った沙綾に、思いっきり背を向けられてけっこうダメージを受けた。

 勿論、約束があったから挨拶をするつもりはなかった。でも、誰も見てなかったから、つい微笑んで軽い会釈をした。そうしたら、二人しかいないエレベーターの中で明らかに顔を強張らせてクルリと背を向けられたのだ。


 エッ、そこまで?


 本当に沙綾は昴の予想外の反応を返してくる。だいたいにして、昴に微笑まれたら、顔を赤らめたりポーッとしたりするのが普通の反応である。数回会話しただけで馴れ馴れしくしてくる女子はいても、まさか距離を置きたがる女子は沙綾ぐらいしかいない。


 すでに3回、土曜日の午後を一緒に過ごし(沙綾が片付けするのをソファーに座って眺めていただけ)、夕飯を共にし(沙綾の料理上手は嬉しい誤算だった)、駅までのデート(数分並んで歩くだけ。会話は……ほぼない)を楽しんだというのに、あまりに縮まらないその距離に、さすがの昴も自信喪失する思いだった。さらに追い打ちをかけるようにエレベーターでのガン無視。


 こんなに一人の女についてアレコレ悩んだのは初めてだった。仕事中はさすがにないが、ふとした休憩時間とか移動時間とかに沙綾のことを考えてしまう。どうやって落とそうかということもそうなんだが、同期の女子に嫌がらせされてないかとか、あまりのとろさに上司に叱られてないかとか、過保護な親になったかのように心配してる自分に驚きだ。


 人当たりよく振る舞ってはいるが、実際の昴は利己的で他人には無頓着な性質である。自分に不利益になる相手なら、バッサリと切り捨てることが出来た。多分、今だって出来る……筈だ。

 実際に、沙綾と知り合ってからセフレに連絡をすることを止めた。それなりの頻度で会っていた数人には、セフレの解消を告げる連絡をした。泣いてすがって受け入れてくれない女もいたが、彼女らには仕事場は勿論自宅も教えていなかったので、スマホさえ着信拒否にしてしまえばスッパリ切れる。あとは彼女らと行ったような場所に近づかなければ良かった。


 どんなに身体を重ねた相手(とんでもない美女もいた)にも、全く情がわかなかった昴が、地味〜ッで挙動不審な女のことが気になっていた。


 今日は沙綾との約束の土曜日。ただ、今までは偶然土曜日出勤がなく、沙綾のとろくて丁寧な掃除風景や、仕込みしてきた料理の仕上げをする姿を半日じっくり眺めていたが、今日は得意先の指定で土曜日出勤する羽目になった。夕飯を誘われたが、「彼女が家で待ってますので」と言えば、すんなり開放してくれた。


 昴は足早に改札を出、ほんの数分の距離を走る。マンションが見え、階を数えた。10階の右端……電気がついている。2回数えたが、やはりあそこが昴の部屋だ。明るい……。

 自分の部屋に電気がついているのを見たのはいつぶりか? 記憶にある限りなかった。


「浅野様、お帰りなさいませ」

「野崎さん、こんばんは」

「今日も神崎様がいらっしゃってますよ」


 昴は頷くと、すぐにエレベーターに向かう。エレベーターは25階に停まっており、昴は苛々しながらエレベーターが降りてくるのを待った。途中停まることなく1階に到着したエレベーターに、昴は素早く乗り込むと素早く10階のボタンと閉のボタンを押す。連打したいくらいだったが、連打すると押した階が消えてしまう為にグッと我慢した。エレベーターの階数表示の表示板を睨み付け、10になり扉が開いてすぐに廊下に飛び出した。一番端の部屋の前に立ち、大きく深呼吸して気持ちを落ち着けた。


 ドアに手をかけると、鍵は開いていた。玄関に入り、靴を脱ぐ。電気のついた廊下、リビングダイニングに続くドアは開いており、出汁の良い香りが漂ってくる。


「ただいま」

「お帰りなさぃ」


 鶏肉と大根の煮物の味見をしていた沙綾が、パッと顔を上げたがすぐに視線をそらしてしまう。まぁ、いつも通りだ。テーブルには小鉢が置いてあり、大根の葉と揚げの炒めたものが入っていた。別の小鉢にはきんぴらごぼうが入っている。


「シャワー浴びてくるね」


 ご飯も出来上がっているようだし、鞄とスーツの上着を寝室に置いてきた昴は、パッパと入って汗だけ流してしまおうと風呂場へ向かおうとすると、沙綾が「あの……」と声をかけてきた。


「もう少し煮たいので、お風呂浸かってきて大丈夫……です。」


 つい先週くらいからだろうか、それまではつっかえつっかえ喋っていた沙綾が、あまり吃らずにつっかえずに喋るようになった。少しは馴れてきてくれたようで、昴はほふく前進並みではあるが確実な進歩を感じていた。


「そう? でも沸かすと時間かかるしな」

「沸いてます。……ライン見てから沸かしたから」


 帰るコールはしていたが、どうやらそれに合わせて風呂の用意をしてくれていたらしい。昴はありがたく風呂に浸かり、仕事の疲れを落とさせてもらうことにする。


 全身を洗い、温かい湯船に浸かる。いつもは烏の行水の昴は、あまり湯船に浸からないというか、湯船に浸かる習慣がなかった。足を伸ばして湯船に浸かると、つい「アー……ッ」と親父のような声が出てしまう。


 なんだろう、沙綾のいる家は、この湯船のように居心地が良い。

 電気のついた家、鍵を出す必要もなくて、家に入ると美味しそうなご飯の香り。「ただいま」と言えば、「お帰り」と返ってきて、温かい風呂まで用意されている。


 多分、普通の家庭の普通の出来事なのかもしれない。でも、昴が一度だって体験したことのない普通だ。


「お待たせ」

「今出来たところです」


 湯気のたったご飯、温かそうな味噌汁……家庭飯がそこにあった。


「うっまそ」

「だといいんですが」


 L字に座り、「いただきます」と言って食べ始める。向かいに座らないのは、その方が沙綾が緊張しないかなと思ってそうしてみたら、ポツポツと会話しながら夕飯が食べれるようになったのだ。


「美味いなぁ、なにこの葉っぱ」

「大根の葉です。葉つきの大根が売ってたから」

「あ、ジャコも入ってる。俺、これ好き」

「味付けは麺つゆだけだから簡単なんです」

「ふーん、ゴマ油の味もするけど」

「あ、炒めるのにゴマ油使ってますね」

「こっちの煮物も味滲みてる」

「昨日煮たので」


 長く続く会話じゃないし、他愛ないやり取りだが、沙綾のなんの駆け引きもない態度は昴を穏やかな気分にさせた。


 家まで送らせてくれない沙綾に、帰るのが遅くなると危ないからと、後片付けは一緒にする。初日は遅くなりすぎたから、それからはなるべく8時くらいには帰すようにしていたのだが、今日は昴の土曜日出勤だった為、すでに9時近くなってしまった。


「最寄りの駅から家までどれくらい歩くの? 」

「20分……くらい」

「は? 」

「20分です、だいたい」


 その遠さに驚いた昴に、声が聞こえなかったのかと勘違いした沙綾はもう一度はっきりと言う。


「20分? それって危なくない?!」

「大丈夫ですよ? ……私なんかをどうこうしようとする人いないです」

「いやいやいや」

「あっ、引ったくりとか? 」

「……」

「ほら、ここくる時はリュックで対策してますし……万全です」


 どこがどう万全なのかわからない。

 毎回ジーンズにダボッとしたTシャツで、確かにお色気感皆無だが、何が変態の琴線に触れるかわからないじゃないか。手提げだろうがリュックだろうが、こんなに小さく非力な沙綾だったら狙われたっておかしくない。


「今日は遅くなったし、家まで送らせて欲しい」

「……大丈夫です」

「でも、危ないから」

「問題ないです」

「僕が心配なんだよ」

「無理」

「ほんと、送らせて」

「嫌」


 何でそんなに頑ななんだ?!

 しかも、そのやり取りに気を取られてるせいか、いつもはおっとりと動いている手が、普通の速度で洗い物しているし。やれば出来る子なんじゃないのか?!

 と思いきや、手を滑らせてコップを割ってしまった。


「……すみません」

「大丈夫? 怪我してない? 危ないから触らないで」

「私は……」


 沙綾は大きくため息をついた。


「私、凄い粗忽者なんです」


 あまり若い子が言わない言い回しだと思ったが、沙綾があまりにシュンとしているので、昴は気にするなと沙綾の頭をポンポンと撫でてから壊れ物の後片付けをする。


「やらなきゃいけないことを忘れたり、パッとやって壊したり……。だから何度も確認したり慎重にするように心がけて。そうしたら、動作がトロくなって……」

「うん、時と場合によるのかもしれないけど、沙綾ちゃんの丁寧な仕事は僕には好ましいよ。部屋は隅々まで綺麗にしてくれてるし、洗濯物も売り物みたいに綺麗に畳んでくれてるよね。手に取る時に気持ちいいんだ。仕事だって早くて失敗されて二度手間になるより、納期さえ守れれば時間がかかっても正確な方がいい。あとは馴れさえすれば自然と手が早くなるだろうし」


 沙綾はコクリと頷く。


 凄く地味で特に美人でもないのに、そんな沙綾が思わず可愛く見えて、昴は頭の中で激しく首を横に振る。


 気のせいだ! 暖かい家庭の雰囲気に目と頭が誤作動を起こしたに決まってる。

 こいつは将来の保険。自分にとっては逆玉の為の手段でしかないんだから。


 それから黙々と片付けを終わらせ、結局沙綾は頑として電車で帰ると主張し、それでは駅から家までの間、スマホでライン通話することを約束させた。

 約束通り、駅まで送った三十分後に電話がかかってきて、会話というより帰り道の実況中継を聞きながら、なんとなく沙綾の住まいの場所が特定できてしまった。

 だって、「右に曲がりました。ファミリーマー●があります」とか、事細かに伝えてくるから。電車だって、乗ってた時間から計算すれば、だいたいの最寄り駅はわかるし。

 ストーカーじゃないから、わざわざ家まで行ってみたりはしないけど。


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