#10 砂漠の夜に募る想い
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夜、カーミルはエフィを宮殿から連れ出し、辺境の部族出身の情報通のもとへ向かう。エフィの父親について、何か知っている可能性があった。その道すがら、カーミルがいかに王国の民に慕われているかを知り、エフィはますます惹かれていく。
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すっかり日は落ちていた。エフィは客用居間の窓辺に立ち、ライトアップされた宮殿の壮麗な庭を眺めていた。世界に名だたる高級ホテルの次は、贅の限りを尽くした王宮にいる。イギリスを離れて数日しかたっていなかったが、こじんまりとしたアパートでの生活がとても遠く思えた。次々に飛び込んでくる鮮烈なイメージが、自分の気持ちまでも変えているような気がする。以前なら、そんなことはあり得なかったのに。カーミル王子との出会いが、心にまで大きな影響を与えていることはまちがいない……。
ノックの音に、エフィはわれに返った。「はい?」と声を上げると、「私だ、カーミルだ」と深みのある力強い声がする。ドアを開けると、カーミルとアンセルが立っていた。2人を招じ入れ、ドアを閉める。カーミルは窓際まで歩いていって体をくるりと回転させると、「国王が明日、お会いになるそうだ」と2人に伝えた。
「それはつまり、オレの主張は認められたってことか?」いつのまにかソファでふんぞり返っているアンセルが言う。
「ああ。国王はおまえの母親のことをよく覚えていた。やむを得ない事情でイギリスを離れ、そのままになってしまったというのが、ことの真相らしい」
アンセルは黙っていた。どこか安堵したようにも悲しげにも見えた。
「まあ、死んでしまうまえに傭兵から足を洗えということだな」カーミルが笑うと、ようやくアンセルもにやっとしてみせた。「いただくものは、きっちりいただくぜ」
「そうしてくれ。さて、ひとつ問題が片付いたことだし、エフィ、ドライブに出かけよう」
と、アンセルが勢いよく立ち上がった。「ちょっと待てよ。シンガポールでは譲ってやったんだ。今晩はオレの番だ」
「勝手に決めないで。あなたに付き合うつもりなんて、ありません」
エフィが突き放すと、アンセルは彼女のそばに歩み寄り、華奢な肩にその手を載せた。「お礼ぐらいさせてくれても――」
「その手を離さないか」カーミルはアンセルの手首をつかみ、エフィから引き離した。が、肩から少し離れたところで2人の腕は静止し、小刻みに震えた。力が拮抗し、次第に血管が浮き出てくる。
「このオレに腕力で楯つこうってわけか?」押し殺した声で歯をくいしばりながらアンセルが言う。
「私にも武術の心得はある。だてに士官学校を出たわけではない」
口調こそ穏やかだったが、2人とも腹の底から絞り出したような声だ。
「やめて、2人とも」自分をめぐって2人が争っているという状況を、エフィにはどう理解すればいいのかわからなかった。とりあえず、この場をどうにか鎮めないと。
そのとき、ノックの音が響いたかと思うと、ドアが勢いよく開いた。
「帰ってたんだね、
「シンガポールのレース、見たよ。あれは競馬史に残る名勝負だったね」マームーンの顔にはまだあどけなさが残っているが、まるで年季の入った競馬ファンのような達者な口ぶりだった。
「ここで何をしているの? というか、誰、この人たち?」
カーミルはアンセルの腕の力が弱まったのを感じ、ようやく手を離した。「事情はちょっと込み入っているんだが、まあ私の友人たちというところだ。こちらがエフィ・ベレスフォード、そしてアンセル・モリンズ」つづけて、エフィとアンセルに「私の弟、マームーンだ」と紹介した。
「ようこそ、パダーンへ」マームーンは笑みを浮かべながら、王族らしく鷹揚に手を差し出した。
「はじめまして、マームーン王子」エフィが礼儀正しく握手し、軽くひざを曲げた。
一方のアンセルは、じっくりとまだ幼さの残る若者の顔を覗き込み、珍しいものでも見るような顔つきで「どことなく、オレと似てるな」とつぶやいた。
「そうだ、マームーン。アンセルに戦場の話を聞かせてもらったらいい。興味があると言っていたな。アンセルは戦地に何度も足を運んだ経験があるそうだ」カーミルは意地悪そうな目でアンセルを見やった。「カメラマンとして」
「え、本当ですか! アンセルさん、ぜひ話を聞かせてください」少年のような好奇心をのぞかせてマームーンが言う。
「さあ、行こう」カーミルはささやいてエフィの手をとると、客間の出入り口へ向かった。「アンセル、マームーンにたっぷり話を聞かせてやってくれ。ついでと言ってはなんだが、きみ自身のことも」
アンセルは部屋を出て行く2人をなす術なく見送った。「つれないな、エフィ嬢ちゃんは」そう独りごち、マームーンに目を戻す。「いいか、兄弟。戦場ってのは、アクション映画みたいに甘っちょろくはないんだ。まあ、座れ」
マームーンは目を輝かせながら、素直にソファに腰を下ろした。
― * ― * ―
カーミルのカンドーラ姿を実際に目にするのは初めてだった。記事のために取り寄せた写真で見るのとはちがい、完全なるアラビアの男そのものだ。その凛としたたたずまいに魅せられる。一方で文化の壁を意識せざるを得ず、エフィにはカーミルが少し遠い存在に感じられた。スポーツカーの車内で、こうしてとなりあっているというのに。
うなりを上げるエンジン音は、この伝統的な民族衣装といかにも釣り合わない。それを言ったら、カンドーラに身を包んだ王子が最新型BMWのハンドルを握っていること自体もそうだ。いいえ、もしかしたら、助手席に座っているわたしこそいちばんミスマッチなのかも……。
物思いにふけっていると、車が信号で止まった。エフィは、通行人たちがこちらに向かって手を振っているのに気づいた。みな、にこやかな表情だ。エフィがカーミルのほうを見ると、彼もまた白い歯を見せながらあちらこちらに向かって小さく手を振っていた。
「有名人なんですね」口にしたとたん、エフィは慌てて言い直した。「いいえ、そうじゃなくて、みんな車を運転しているのが王子だとわかっているのが不思議に思えて」
「よくこうして1人で出かけているから、みんなもう慣れているんだ」カーミルが笑う。と、パワーウインドウを下げて「なんだね?」と声をかけた。
歩道にいた若者が「デートですか、王子」となかを覗き込む。
「いや、こちらはイギリスの新聞記者だ。取材を受けているところだ。調子はどうだね」
「まあまあってところです」
「それは何よりだ。まあ、がんばりたまえ。きみときみの家族に平安あらんことを」
「ありがとうございます。王子にも平安あらんことを」
カーミルが窓から手を出すと、若者はうれしそうにその手を握った。
信号が変わり、車がふたたび動き出した。なめらかにスピードが上がり、車窓には過剰なまでにライトアップされた近代的な建物が流れていく。
王子と街の人たちとの距離がこんなに近いなんて、驚きだわ。……それに、英語で話しかけてくるなんて。エフィは、てっきりパダーン首長国の言語が街中では話されていると思っていた。
カーミルは少しだけ苦く言った。「植民地時代を経て、多くの部族が共存するわが国では、共通語がほぼ英語になっている。それだけたくさんの部族がいるのでね」
「そうだったんですね」イギリスの植民地化――エフィは過去の歴史を思い、恥ずかしく思った。「多くの部族がいるとは言っても、みんな王子を慕っているように見受けられます」
「私がこうやって1人で出歩くのを快く思わない大臣たちもいるが、街中の治安はいい。辺境の地で伝統的な生活を貫く一部の部族を除けば、国民は国からの富の分配を快く受けて入れている」
エフィは取材したときにも同じ内容を聞いたことを思い出した。
「国民に慕われてこその王家だ。力で支配するのでなくてね。私はさっきみたいに気軽に声をかけられる国王になりたいと思っている。だから1人でよく街に入るんだ」カーミルは一瞬だけエフィに顔を向け、微笑んだ。
競馬場のパドックで騒ぎ立てていた見知らぬ自分をあっさり受け入れてくれた理由が、エフィにはわかった気がした。高い地位にありながら、それをまるで感じさせないカーミルを好ましく思った。
「これから、街外れに住んでいるある男に会いにいく」カーミルはまえを見つめたまま言った。「辺境の部族の出身なんだが、いろいろな情報を教えてくれる」
「スパイみたいなものかしら」エフィはつい思ったままを口にした。
「人聞きが悪いな。われわれと辺境の部族は敵対しているわけじゃない」カーミルは笑った。
「ごめんなさい」エフィは先ほどから自分の尺度でものごとをはかっていることに気づき、恥ずかしさをおぼえた。
「そうだな、むしろパイプ役だ。もっとも、一方通行ではあるがね。その男なら、きみのお父さんに関する情報を知っている可能性がある」
夜のドライブとは、そういうことだったのか。ひょっとしたら、デートのようなものかもしれないと少しだけ期待していた自分が、さらに恥ずかしくなってしまった。前方を見つめるカーミルのととのった横顔を見る。
「王子」
「うん? 何だ」
「わたしはあなたのことを」エフィは自分でもうまくとらえ切れない胸のうちをなんとか表現しようとした。「受け入れていると思います。その……心のなかに」
カーミルがエフィのほうに顔を向けた。「いまのきみからもらえる最高の言葉だ、エフィ」そして右手をハンドルから離すと、エフィの手をやさしく握った。
― * ― * ―
しばらくして車は街灯のほとんどない地域に乗り入れた。ブロックを積み上げてあるような塀に囲まれた家が立ち並んでいる。郊外まで来るとさすがに舗装ではなく、石畳のような古い街道のような道になった。カーミルは車を止めると、先に立って歩きはじめた。
だが暗すぎるため足もとがよく見えず、おそるおそる足を踏み出すエフィを見て、さっとひじをとって導いてくれた。カーミルがふれると、全身になんとも言えない満たされた感覚があることにエフィは気づいた。
強引ではないのに、当然のようにふれる。それがいつもあまりにも自然なので、つい身をゆだねてしまう。
わたしは甘えているんだろうか。肌がふれたときのぬくもりに、男らしい力強さに。このどこか無防備な感覚は、かつて味わったことがない。まるで魔法にでもかかってしまったかのようだ……。
心だけでなく、全身がカーミルと一緒にいることを喜んでいた。恋愛を自分に許したことのないエフィは認めたくなかったが、カーミルにどんどん惹かれる気持ちは、すでに止められなくなっていた。
とある塀のなかに入りこみ、カーテンのかかった入口に向かってカーミルが何か声をかけると、あごと口のまわりに髭をたくわえた50がらみの男が現れた。
「久しぶりだな、ナースィル」
「こんばんは、王子」ややなまりの強い英語だ。
カーミルは男と握手すると、頬をつけるように抱き合った。体を離して挨拶を終えると、エフィを紹介した。「こちらはエフィ・ベレスフォード、イギリスからの客人だ」
「ようこそおいで下さいました」男は丁重に挨拶した。
「夜分におじゃましてすみません」どう振る舞うべきかわからず、エフィは軽く頭を下げた。
室内に入ると民族衣装を来た男たちがいたが、エフィにはわからない言葉で男が何か言うと、全員が室外へと去って行った。エフィとカーミルは並んでソファに身を落ち着けた。
カーミルはすぐに用件を切り出した。「いまから15、6年まえ、北部国境付近でヨーロッパの医師団が襲われた事件があった。それについて、何か知らないか」
男は少しの間考えてから答えた。「いいえ。少なくとも、私の集落には何も伝わっておりません」
「そうか」カーミルは手を組み、男から視線を外した。
エフィは落胆した。ここまで来たのに、父の消息を知ることはできないのかもしれない……。
男は2人の客人のがっかりした様子を見て、必死に頭のなかを探っているようだった。
「そう言えば」男が口を開いた。「かなり離れた集落に白人の医師がいるという噂を耳にしたことがあります。ずいぶんまえの話ですが」
「父はイギリス人です!」エフィは思わず声を上げていた。
カーミルがあとを引き継ぐ。「こちらの女性の父親は、襲撃されたグループのなかにいた。全員が遺体で発見されたんだが、その人の遺体だけは見つからなかった」
「そのお方なのかどうかは、私には判断できません。その村をたずねてみてはいかがですか。ワーディという小さな村です」
「どの辺りだね?」
「私の集落から国境方面へ30キロほど北西へ向かったところです」
「わかった、たずねてみよう。助かったよ、ナースィル」
カーミルが礼を言うと、男は安堵したような表情を浮かべ、うやうやしく頭を下げた。
「ナースィルさん、ありがとうございます! 父はきっとそこにいると思います」エフィの心は躍っていた。ようやく手がかりが得られた。初めて希望が生まれた。
ナースィルはちょっと困惑した表情を浮かべた。「私が耳にしたのは噂に過ぎません。それもずいぶんむかしのことです。あまり大きな期待は――」
「もちろん、わかっています。でも、まちがいなく父がわたしを導いている気がするんです」
「神は信じるものを導きます」ナースィルは預言者のようにおごそかに言った。
別れぎわ、カーミルとナースィルは「平安あらんこと」と言いながらふたたび抱き合った。
エフィもナースィルを抱きしめたかったが、「神のご加護がありますように」とだけ言うに留めた。お互いに信じる神はちがっても、神は神だ。
「お父さんに再会できることを祈っていますよ」ナースィルが穏やかな表情で言う。
「ありがとう」気がつくと、エフィはナースィルをハグしていた。
― * ― * ―
表に出ると、砂漠の冷たい夜風が興奮に微熱を帯びたエフィの肌を撫でていく。それがとても心地よく感じられた。夜空を見上げると、満月に限りなく近い大きな月が浮かんでいる。いまこの瞬間、父さんもこの月を見ていますように。エフィの頬が自然にゆるんだ。
「寒くないか」カーミルが言った。
「むしろ気持ちがいいくらいだわ」明るい笑顔を向け、エフィはほほえんだ。
カーミルは足もとをよく見ようと顔を下に向けたエフィのひじをとると、そのまま抱き寄せた。ふわりとカーミルの腕のなかに体が落ち着く。すると、「きっと会える」と力強い言葉が、深い声とともにエフィの耳に響いた。
エフィはカーミルの背中にしっかりと腕をまわし、その胸に頬をうずめた。ずっとこのままでいたい。誰に頼ることもなく自分を律して生きてきたエフィの心は、いま大きく揺れていた。
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