#03 歓喜のキス

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馬主席に通されたエフィは、カーミル王子とともにレースを観戦。愛馬が1位で入線すると、王子は喜びのあまり、エフィにキスをする。戸惑うエフィだったが、改めて取材を申し込む。


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 馬主席は新設されたスタンド内にあった。

 パドックに通じる旧スタンドよりも内装は華やかで明るく、最上階にあるテラス席はセレブの集う社交クラブのようだ。色鮮やかに着飾った男女がワイングラスを片手に談笑している。

 カーミルは依然としてエフィの手を握り、引っ張るようにして歩いていた。

 これじゃ厩務員に引かれる馬みたいね、とエフィは思った。でも、不思議に悪い気はしなかった。その力強い大きな手の感触に包まれていると、ふと父もこんなふうに手を引いて歩いてくれたんだろうか、と思った。いまとなっては、はっきりと思い出すことさえできなかったが。

 やがて建物のいちばん奥にたどりつくと、エフィは個室に通された。

 広々とした室内には真っ白なクロスで覆われたテーブルと椅子がしつらえられ、卓上にはワインクーラーとグラスが置かれている。部屋の奥は一面ガラス張りで、ちょうど目のまえにゴールがあり、その先にコースが一直線に伸びていた。

「この競馬場で最高の観戦席だよ、ミス・ベレスフォード。コースを正面から見られるのはここしかない。馬たちはこの部屋をめざしているかのように走ってくる。勝ち馬の馬主にこそふさわしい場所だとは思わないか?」 

「そ、そうですね」もう勝った気でいるようなカーミルの口ぶりに戸惑いつつ、エフィはぎこちない笑みを浮かべて答えた。と、あの涼やかなブラウンの目にまた釘付けになる。つい見入ってしまう、この抗いがたい力はなんなのだろう?

「じき発走だな」カーミルは一瞬離したエフィの手をふたたびつかむと、ガラス張りのぎりぎりまで引っ張っていく。そして側近の1人に「ミス・ベレスフォードにシャンパンを」と命じた。

 まるで気配を消していたかのように、いつの間にかマイクがガラス張りの脇のほうに陣取っていた。黙々とカメラの準備を済ませると、合図を送ってカーミルにレンズを向ける。王子は冷静に右手をあげて写真におさまった。

 そこへ、側近の者がうやうやしくグラスを持ってきた。

「わたし、アルコールはあまり飲まないので……」

 カーミルはエフィの断りには耳も貸さず、グラスをとるとその手に握らせた。

「われわれに酒を飲む習慣はないが、きみは遠慮しなくていい。景気づけだと思って、さあ!」

 なんて強引なの? アラブ世界の王子とはこういうものなのだろうか。だが、気を悪くされたりでもしたら、せっかくのチャンスを潰しかねない。

 エフィは意を決し、ひと息にシャンパンをあけた。おなかの底が、にわかに熱くなる。

「王子の愛馬ニューミレニアムの優勝を願って!」エフィは乾したグラスを高くあげた。

 そして、ふうと息をついてカーミルを見ると、そこには満面の笑みが浮かんでいた。涼やかな美しさを漂わせる目もとは、この強引さとどうしても結びつかない。

「ありがとう、ミス・ベレスフォード! わがニューミレニアムがきみに最高の勝利をプレゼントするだろう。見ていてくれ」カーミルはそう言って、エフィに双眼鏡のひとつを渡した。

 そして発走時刻が来た。

「ゲート入り完了。スタートしました!」威勢のいい場内アナウンスが流れた。

 エフィは眼前にまっすぐに伸びるコースの先を見つめた。しばらくはよく見えなかったが、やがて横に広がる黒い影のようなものが姿を現す。そこでようやく双眼鏡を目にあてがった。

「よし、絶好のポジションだ」カーミルが抑制した声で言う。「いま2番手につけているのがニューミレニアムだよ」

 エフィはレンズ越しに黄金色に輝く馬の姿をとらえた。「見つけました。でも、ほかの馬とちがって騎手がまったく動いていないみたい」

「あれでいい。馬とジョッキーの呼吸がぴったり合ってるんだ」

 カーミルが何度も「いいぞ、いいぞ」とつぶやく。その言葉はやがて「まだまだ」に、そして「よし、行け!」に変わった。

 ジョッキーが腕を動かし始めたのがエフィにもわかった。先に逃げていた馬との差が少しずつ縮まっていく。やがて2頭の馬体が横並びになると、騎手はより力強く腕を前後に動かし始めた。

「いまだ、突き放せ!」カーミルが叫ぶ。

 その声が届いたかのように、ジョッキーがニューミレニアムの尻に2度ステッキを打ちつけた。瞬間、黄金の馬体がぐんと沈む。ストライドが大きくなり、並走していた馬をあっという間に交わした。その差がどんどん開いていく。

「すごいっ」エフィも思わず声を上げた。

 2人は双眼鏡を下ろし、力づよく疾駆するニューミレニアムの姿を裸眼で追った。後続との差を広げながら、猛然とこちらに迫ってくる。そして最後はジョッキーがガッツポーズをしながら、ゴールを駆け抜けていった。

「イエス!」カーミルが雄叫びを上げ、両腕を突き上げる。その姿勢のままエフィのほうに体を向けると、思いきり抱きしめた。

 うっ。

 グイと力強く抱き寄せられた勢いで、エフィの頭がのけぞった。背中にまわされた腕が上半身をきつく抱きしめる。大きな男らしい手が背中にまわり、あごはカーミルの肩に押しつけられ、首筋に漂う麝香の香りが鼻孔を満たした。あらゆる感覚がいっせいに刺激され、まわりはじめたアルコールも重なって、エフィはふっと気が遠くなった。

 と、カーミルはエフィの体をさっと離し、両手で肩をしっかりつかむと、2度3度強く揺さぶった。

「見たか、あの強さを! わが愛馬の圧倒的な走りを!」

 激しく揺さぶられた頭がようやく静止し、エフィの目は輝くばかりのカーミルの笑顔をとらえた。そして、その目を。

 砂漠のオアシスが光ってる……。

 2人の視線がまっすぐにつながった。その一瞬、興奮が消え、室内のざわめきは形と色をなくし、カーミルとエフィの目には互いの素顔だけが映っていた。

 それはほんの一瞬のことで、すぐにカーミルの顔に高揚が戻る。そして、その顔がぐんと迫ってきたと思った瞬間、エフィはカーミルに熱く唇を重ねられていた。

 あっ。

 張りのある男らしい唇から伝わってくる、思いがけないほどのやわらかさとあたたかさがたちまち全身に伝わっていく……。あまりにもぴったりくるその感触に、ふたたびエフィの気が遠くなっていった。

 やがて肉感的で熱い圧迫から解放されると、唇に外気がふれ、ちょっとだけひんやりした。

 遠のいたカーミルの顔には、興奮冷めやらぬ表情が浮かんでいる。

 エフィは右手を唇にあて、どうしていいかわからず、うつむいた。

「どうした、ミス・ベレスフォード。勝利の祝福だよ」

 顔を上げて、カーミルに視線を戻す。目と目があうと、歓喜一色だったカーミルの表情にわずかな戸惑いが浮かんだ。

「怒っているのか? いや、会って間もないきみに対して、失礼だったかもしれない。あまりのうれしさに、ついわれを忘れてしまったんだ」つかの間、カーミルは神妙な顔をした。

 怒る気持ちはなかったが、混乱していた。成り行きにまかせたとはいえ、まさかキスされるなんて思ってもいなかったから。

 そんなことより取材よ。エフィは頭を振った。

「王子、レースも終わったので、ぜひお話を聞かせてください」できるだけ事務的な口調を装う。

「話? パドックもレースも見たじゃないか。観戦記を書くには十分だろう」

「いいえ、今日は王子ご自身のこともうかがいたくて来たんです。ビジネスや競馬界への進出についてお話を聞きたくて」

 マイクに詳細は聞いていないけれど、たぶん方向性はまちがっていないはず。

「それをなぜ早く言わない?」

 言おうとしたのに、王子が先走ったんです、とは言えなかった。

「これから表彰式だ。それが終わったら、すぐロンドンに発つ。悪いが時間がない」

「それじゃ紙面に穴があきます。お願いです!」

 あせったエフィは全身で懇願を表現した。正直、記事はどうでもいいくらいの気持ちになっていた。この機会は逃せない。王子と絶対に話をしなければ。ただその思いで必死だった。

 カーミルはしばし思案したのち、取り巻きの1人にペンと紙を用意させると、素早くメモをした。それをエフィに手渡しながら言った。

「今夜、ここで優勝パーティを開く。来てくれたら、時間を割こう」

「ありがとうございます!」

 表情が一変したエフィを見て、カーミルは思わず笑った。

「きみはユニークだな」

 突然騒ぎ立てて現れ、酒は飲まないと言いながらシャンパンを一気に飲み干し、軽くキスしただけでうろたえ、ここぞというときの押しは強い。そして、この笑顔。媚びてばかりいる取り巻きの女たちとも、大人しいだけの祖国の女ともまるでちがう。先ほどの、なぜか離れがたかったキスもカーミルの心に強く残っていた。

「ひとつだけ注文だ。最低限の化粧だけはしてきたまえ」

 カーミルはそう言い残し、側近を引き連れて出ていった。

「話は聞けたのか?」

 背後からマイクに声をかけられ、エフィは振り向いた。「今夜、ロンドンのホテルであらためて会ってくれるって」

「おれは別な現場があるから1人で行ってくれ。表情はいろいろ押さえておいたから、写真のほうは心配ない。残念ながらキスシーンは撮りそびれたがね」マイクはそう言うと、軽くウインクした。

「そんなものは撮らなくていいの!」エフィは頬が熱くなるのがわかったが、平静を装ってつづけた。「もちろん取材のほうも1人で大丈夫よ。デスクが別枠を用意したくなるくらい、たっぷり話を聞いてきますから」

「そいつは頼もしいね、じゃじゃ馬ちゃん」

 そんな軽口も気にはならなかった。

 パダーン首長国の王子とじっくり話せるのだ。きっと何か重要な手がかりが得られるにちがいない。

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