#02 シルクハットと燕尾服の王子
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出走馬が周回するパドック(下見所)で、黒装束の一団を認めるエフィ。「あれがカーミル王子一行に違いない」。警備員が止めるのを聞かず、エフィは強行突破で接触を試みる。
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エフィは芝生に覆われた一般エリアのなかをスタンドに向かって急いだ。
カジュアルな服装の観客にあふれ、自前の折りたたみチェアで悠々と足を組んでいる人たちもいれば、芝生の上に腰を下ろし、足を伸ばしてくつろいでいる人たちもいる。さながら休日の公園だ。
そして、そこかしこにいる家族づれ。彼らの楽しそうな雰囲気に、エフィの胸は鈍く痛んだ。
ピースの欠けていない家族。はじける笑顔。
わたしから永遠に奪い去られてしまったもの。
いいえ、ちがう。まだそうと決まったわけじゃない。エフィは頭を振った。
まさかこんな形で、パダーン首長国の王族に会える機会がおとずれるなんて。エフィはにわかに緊張していく自分に気づいた。わたしにこの仕事がまわってきたのには、きっと何か意味がある。
待ってて、父さん。
エフィは軽く息を弾ませながら「プレス」と書かれたカードをかざし、仕切りのあるVIPエリアへと入っていった。
目のまえに壮麗なスタンドがそびえ、もはや子どもづれの姿はなく、客たちもみなきちんとした身なりをしている。簡素な仕切りひとつ隔てただけで、〈休日の公園〉という雰囲気はまったくなくなっていた。
エフィはあたりを見まわし、いかにも仕立てのよさそうなスーツに身を包んだ初老の男性に声をかけた。
「すみません、2000ギニーに出走させる馬主の方たちはどこにいるんでしょう」
エフィが身分証を掲げてたずねると、その男はスタンドの奥を指さしながら答えた。
「レースがもうすぐだから、パドックにいると思いますよ、お嬢さん」
「ありがとうございます!」
小走りでスタンド内に入り、「パドック」と書かれた案内板を確かめて奥へと向かう。建物を抜けると、人だかりのむこうに馬の姿が見えた。
〝パドック。レースの直前に出走馬を披露する場所〟
それは調べてわかっていた。でも、こんな光景は想像していなかった。
周回する毛並みのつややかな十頭の馬。その中心に集まる紳士淑女の姿。色鮮やかなドレス、大きな飾りのついたキャプリーヌ。グレーや黒、ダークネイビーのスーツ。
まるでガーデンパーティ、いや国賓を迎える祝賀会のようだ。それにくらべて……。
エフィは思わず自分を見おろし、くたびれたパンプスに目をやった。
わたしったら、何を怖じ気づいてるの? わたしは新聞記者なのよ。ここで社交界デビューするわけじゃない。それより早く取材対象を、いいえ、わたしにとっての大事な手がかりを見つけなくては。
エフィは息をととのえ、はやる気持ちを抑えながらパドックの中央に集まる華やかな一群に目を走らせた。すぐに、ひときわ異彩を放つ一団が目に飛び込んできた。
黒のシルクハットと黒の燕尾服、浅黒い肌に密に覆われた
いかにもアラブの王族という雰囲気を醸し出している。あの人たちにちがいない。
エフィは警備員にプレスカードをかざしてパドックのなかに入り込んだ。
王子というのはどの人なの?
「カーミル王子! ロンドン・タイムズです。ぜひ取材を!」
エフィは黒ずくめの一行に走りよりながら、大きな声で叫んだ。
驚いた馬主たちが何事かといっせいにエフィのほうに顔を向ける。
「カーミル王子! わたしはロンドン――」
ふたたび声を張り上げた瞬間、エフィは駆け寄った2人の警備員に押さえつけられた。
「静かに! 馬が驚きます」
「カーミル――」
負けじと声を上げた瞬間、警備員の手がエフィの口を覆う。
「ムムム……」
口がふさがれ、声にならない。邪魔しないで。その手を離しなさいったら!
もごもご言いながら警備員の手から逃れようと暴れていると、警備員たちは「あなたを強制退去させます!」と宣告し、エフィの口を抑えたままパドックから強引に連れ出そうとした。
「いったいなんの騒ぎだ」
張りのある声がすると同時に黒装束の一団が二手に割れ、その間からひときわ存在感のある男性が向かってきた。
「誰か私の名前を叫んでいたようだが」
エフィは声の主を見た。その瞬間、目がはなせなくなった。左右に分かれた男たちと同じように、黒のシルクハットと黒のスーツに身を包んでいるが、ぴったり体に合った見るからに上質そうなスーツは、たくましく引き締まった体を強調している。もしかして、この人が……。
「お騒がせして申しわけありません。カーミル王子」警備員の1人がエフィを押さえ込んだまま、足を止めて答えた。「この女性がマナーをわきまえないものですから」
カーミルはエフィのもとへ近づくと、警備員に向かって右手を払うように軽く振った。メッセージを理解した警備員は、エフィの口を覆っていた手を離した。
「私の名を呼んだのはきみか?」ベルベットのようになめらかで深みのある声に包まれた。
エフィはカーミルのすばらしく端正な顔を見つめていた。長く濃い睫毛にふちどられた明るいブラウンの瞳。日焼けした褐色の肌にあって、その目はどこか涼しげに見えた。男らしく、まっすぐで力強い鼻すじ。整った面立ちには優雅さと力強さが同居していて不思議な力があり、エフィは一瞬、われを忘れた。
「騒いでいたと思ったら、今度は黙ってしまうのか?」
その言葉に、エフィははっと気をとりなおした。
「あ、あの、あなたがカーミル王子でいらっしゃいますか?」
カーミルは呆気にとられたような表情をしてみせた。
「私もまだまだ他国では知られていないようだな」そう言ってふっと笑う。「そういうきみはいったい何者なんだね?」
エフィはジャケットの裾をつかんできゅっと引っぱり、ひと呼吸ついてから口を開いた。
「失礼しました。わたしはロンドン・タイムズの記者、エフィ・ベレスフォードです。王子にぜひ取材させていただきたく――」
と、カーミルの顔がぱっと輝いた。
「なぜそれを先に言わない? 取材なら大歓迎だ。さあ、こっちへ来るといい」
カーミルはエフィの右手首をつかむと、取り巻きたちのもとへ引っ張っていった。仏頂面をしたシルクハットと顎髭の面々が、いっせいにエフィに目を向ける。
なんなの、この威圧感は。
エフィがたじろいでいると、カーミルは取り巻きを見まわしながら陽気に言った。
「みんな、こちらは新聞記者のミス・ベレスフォード。わが愛馬を取材してくれるそうだ」
仏頂面がたちまち笑顔に変わり、全員が白い歯を見せながらエフィに軽くうなずいた。
「いえ、そうではなくて――」
だが、すでにカーミルは愛馬さがしに夢中だった。
「ほら、あれがそうだ」
カーミルが指さすその先にエフィは目をやった。
ライトブラウンの毛色をした馬。歩調にあわせて、水平に伸びた頭が小気味よく上下し、そのたびに黄金のたてがみが揺れる。そしてエフィの目のまえまでやってきたところで、手綱を引いていた厩務員が立ち止まり、馬もおとなしく足を止めた。
「ニューミレニアム。わが駿馬だ」カーミルは自慢げに言うと、馬の首筋をぽんぽんと2度叩いた。「どうだ、すばらしいだろう?」
日ざしを受けて虹のような輝きを見せる馬体に、エフィは思わず手を伸ばした。と、ニューミレニアムの瞳がぐるりと動く。それまでは黒いガラス玉のようでしかなった瞳に白目が現れ、その表情はどこか人間めいたものになった。
おまえは誰だとにらまれたような気がして、エフィはさっと手を引っ込めた。
「大丈夫、噛みついたりはしない。少し警戒心が強いだけだから」
カーミルはおもむろにエフィの右手を取ると、ゆっくりと愛馬の鼻筋にあてがい、撫でるように静かに動かした。
手のひらには馬のつややかな毛並み、手の甲にはやや硬さのある男性の手。どちらもあたたかいけれど、まるで感触がちがう。かつて味わったことのない妙な生々しさに、なぜかエフィの胸がどきんと大きく鳴った。
「騎手のお出ましだ」なにごともなかったようにカーミルはエフィの手を離すと、ステッキを片手に現れた小柄な騎手に握手を求めた。「先行抜け出しで頼む。やつらを蹴散らしてくれ」
ジョッキーは右手の親指を突き立てると、ニューミレニアムの背中にまたがった。とたんに馬はその首を弓なりに曲げ、小さくはねるようなステップで歩き始めた。
「闘志に火がついたぞ。ジョッキーを背にすると、馬にはレースが近いことがわかるんだ」
「頭がいいんですね」エフィは馬を見送るカーミルをじっと見つめた。
この目……。長くて濃い睫毛に、深みのある焦げ茶色の瞳。アラビアのきつい日ざしを浴びた浅黒い肌にあって、オアシスのようにきらきらと期待できらめいている。
「馬はあっちだが」エフィの視線に気づいた王子が言う。「アラブ人の顔のほうがめずらしいかね?」
エフィの頬がぽっと赤くなった。わたしったら何をしているの?
「いいえ、そういうわけじゃ……」
「私より、わが愛馬を見たまえ。あの馬体の輝き、あの後脚の踏みこみの力強さを。ニューミレニアムのスピードについていける馬がいるわけがない」
各馬がパドックから姿を消すと、カーミルはエフィの背中に腕をまわした。
「よし、馬主席へ行こう。きみには歴史的瞬間の目撃者になってもらう」
言い終えるやいなや、カーミルはエフィの右手をぎゅっとつかみ、スタンド内へ向かって足早に歩き始めた。
こうなったら、成り行きまかせだ。それに、王子がこういう気さくな人なら、わたしの込み入った話にも耳を傾けてくれるかもしれない。そう思い、エフィも足を早めた。
と、エフィの目がパドックのそばにいるカメラマンの姿をとらえた。
「マイク、こっちよ! いまから馬主席に行きます。ついてきて!」
エフィに気づいたマイクが慌てて駆け寄ってきた。カーミルに手を引かれているエフィを見て、驚いた顔をしている。
「いったいどうなってる? もうお近づきになったのか?」
「なんか、そうみたいね……」
「頼りなさそうだったが、なかなかやるな」
背中をポンと叩かれると、エフィは肩をすくめてみせた。
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