蛇娘

宿の一室で、男の唇に滲んだ血を見ながら、私はあるひとりの女を思い出していました。


昔、私と母は、とある田舎のお屋敷にお世話になっていました。広い敷地の片隅にある古くて小さな離れを借り、二人慎ましく暮らしていました。

その庵の床下には、一匹の三毛猫が棲みついていました。曖昧、のような名前を持っていたその猫は、このあたり一帯の家を持たぬ猫たちすべての母であると、お屋敷の御主人からは聞かされておりました。スタンランの絵画に出てくるような、痩せていてどこか孤高な印象を持つ、美しい猫でした。


そうそう、一つ言い忘れましたが、この話は大昔の田舎での話です。皆さんがご存知のいわゆる「ペットとの付き合い方」とは異なる価値観かと思います。愛猫家の方々に於かれましては御聞き苦しいところもあるかと思いますが、どうぞご辛抱下さい。


その三毛猫は私たちに懐くこともなく、家に上がり込むこともほとんどせず、人間とはひとつの境界をもって生きていました。

ある日のこと。私は縁側から裏山を眺め、その日が明けぬ内に我が身に起こったある出来事について考えていました。

荒れた杣の中に、ひとりの白い女が見えました。ぎょっとしてよく見ると、それはあの三毛猫でした。口に何やら咥えています。

「何を喰べているの」

それは蛇でした。

先程一瞬、女に見えた。それは昨夜、お屋敷の御主人が内緒で私に見せた、古い版画の女に似ていました。白い裸体に纏わり付く巨大な蛇。その絵を観ながら、「女の身体とはこういうものだ」と、私は教えられたのでした。

ただあの絵と違うのは、そして私と違ったのは、彼女が蛇の頭を喰いちぎっていたこと。その赤い口元は、自分こそが関係を支配しているのだという風に見えました。

それから暫くのこと、その猫は何度目かの仔を生みました。彼女は産褥を人間に見せようとはしません。この時期は特に気が立っていて、いちばん慣れている我々母娘にも牙を剥き、牽制の姿勢を見せます。仔を大事に思う故でしょう。我々は縁の下を覗かず、縁側を使わず、素知らぬ顔で暮らすばかりでした。

ですが、仔猫というのは子供の興味を引くものです。すぐにお屋敷の坊ちゃんが近所のお友達を引き連れ、仔猫を見に訪れました。

「近寄らない方がいいですよ」

「仔猫取るんじゃない、ちょっと見せてもらうだけだよ」

やんちゃな坊ちゃん方は私の制止も聞かず、がやがやと床下に潜り込み、威嚇の声、叫び声、何すんだ、このメンタ、わぁわぁわぁ、ガタガタと根太に頭をぶつける音、私はそれらをなす術なく聞いていました。

坊ちゃん方が這々の体で帰ったその日の晩、床下から仔猫の声がしなくなりました。表に出ると、仔猫につきっきりでいたあの三毛猫が、ひとりでどこか遠くを見ていました。

「どうしたの」

返事のかわりに、にゃあと鳴きました。

その唇のまわりには、再び赤いものが付いていました。私は仔猫たちがどこへ行ってしまったのかを悟りました。

それから間をおかず、あの三毛猫がつがっている所を見かけました。首元に牙を立てられ、伏せた姿勢で。彼女はそのようにされながらも、まっすぐ私を見ていました。

「女の身体とはこういうものだ」

あの三毛猫に教えられました。それ以来、厠で、産褥で、紅血を見る度に、何度も否応なく、私が女であることを確認するのです。


「どうしたんですか、ぼんやりして」

「なんでもありませんよ」

血を舐め取り、また褥に潜り込む。

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