第35話 歪んだ『好き』


 ――行ってくるね。


 今日の授業が終わって帰宅や部活の用意を始めるクラスメイトたちのざわめきの中で、俺は間宮からメッセージを受け取った。


 どうやら間宮は危険を承知で呼び出しに応じるらしい。


「俺はどうする?」と送り返せば、即座に「待ってて」と返ってくる。

 相手は間宮に一人で来ることを要求しているため、下手に俺が顔を出すことで逆上されるのを避けたいのだろう。


 少しだけ心配な気持ちを抱きつつも「何かあったら連絡してくれ」と念を押せば、無言のまま間宮に笑みを投げられた。


 一見すれば普段通りに見えるものの、微妙に硬さのようなものがうかがえる。


 間宮は制服をひるがえして教室から出て行く。


 何事もなく済んでくれと心の中で祈りつつ、手持ち無沙汰になってしまった俺は席に座ったまま課題を進めることにした。



 ■



 胸の中に立ち込める薄い緊張を意識的に遠ざけながら、私は指定された空き教室へと向かっていた。


 こんな方法で私を呼び出すのだから、犯人は私たちの秘密を知っている相手で間違いないと思う。

 だとすれば……犯人の要求はなんだろう。


 真っ先に思いつくのは身体、次いで交際の強引な申し込みくらいかな。

 悪戯にしては度が過ぎているし、できることなら私だって応じたくはないけれど……そんな選択肢は残念ながら存在しない。


 犯人がなりふり構わずに秘密をバラまいたら、妙な噂が立つのは避けられないはず。

 私も藍坂くんも否定するけれど、もしかしたらという疑念の目が生まれては学校生活が窮屈になってしまう。


 それに、こんなことで藍坂くんに迷惑をかけるのは本意ではない。


 藍坂くんは私が偶然秘密を知られて強引に巻き込んでしまっただけで、何の罪もないのだから。


「……ここ、だよね」


 ポケットから折りたたんでいた手紙を取り出し、指定された空き教室の扉を開いた。


 そこは使われていない机や椅子が並べられた埃っぽい空気が漂う部屋。

 警戒しつつ足を踏みいれて部屋をぐるりと見渡せば、窓辺に立っている一人の男子生徒が目に付いた。


 彼は扉の開いた音に反応して振り向き、


「……よかった。来てくれたんだ、間宮さん」


 安堵と喜色と、そこはかとない不気味さをたたえた笑顔を向けてくる。


 確か彼は――


「……内海さん、で合ってますか?」


 記憶の片隅にあった顔と名前を照らし合わせて訊くと、「覚えていてくれたんだね、間宮さん」と口の端を上げて答えた。


 彼――内海うつみ愼二しんじは写真部に所属する別のクラスの男子生徒で、以前私に想いを伝えてくれたものの丁重に断った相手でもある。

 角が立つような断り方をした覚えはないけど……それは断った側が言うことではないのかもしれない。


 過程はどうあれ、自分の好意がないがしろにされたと思われればそれまで。


「先に一つ、聞いてもいいですか」

「うん、何でも聞いてよ」

「……私に隠し撮り写真を送り付けていたのは貴方ですか」


 ぴくり、と彼の眉根が上がる。


 だが、彼が口にした言葉は私の予想を超えていた。


「結果的に見ればそうかもね。でも、これは間宮さんのためなんだ」

「……私の、ため?」


 怪訝に聞き返した私を差し置いて、彼は教室の扉を閉め切ってしまう。


 逃げ道を塞がれた……けど動揺してはいけない。

 気丈に、冷静に、彼から情報を引き出す。


「間宮さんは、あの藍坂とかいう人に脅されているんだよね」

「……なんのことですか」

「放課後、二人が教室で何かしてるのを偶然聞いて、間宮さんがこんなことをさせられているのも知ったんだ」


 そこで彼はスマホを操作して、画面を私に見せてくる。


 映っていたのは、私が裏垢女子として写真を投稿していたアカウント。


 さっと身体から温度が消えていく感覚があった。


 まだ誤魔化しようはあるかもしれないけど、彼の様子を見るに私の話を冷静に聞き入れようと言う雰囲気には見えない。

 彼の中ではそのアカウントに投稿しているのが私として固定化されている。


 それに加えて、話の流れからして連日私に隠し撮り写真を送っていた犯人も自然と彼、ということになる。


「顔が見えなくても、制服の特徴が映っていなくても僕にはわかるよ。この脚のラインとか、タイツのデニール数とか、スカートの生地の感じとか――僕が毎日撮っていた間宮さんの写真と同じなんだから」


 自慢気に、恍惚こうこつとした表情で語る彼。


 ぞわりと、嫌な震えが背を駆けあがった。


 毎日、私を撮っていた……?


「見間違えるはずがないよ。だからさ、僕の間宮さんがこんなのを誰かに撮られているってことが許せない。僕の方が、間宮さんを好きなのに……っ!」


 私が一度断った彼の『好き』は、こんなにドロドロとしていなかったはず。


 もっと真っすぐな感情だったはず。


 ――それを歪めてしまったのは、私のせい?


 胃から酸っぱいものがせりあがってくる感覚がある。

 視界がゆっくりと回り始めて、背中にじっとりとした汗が滲んだ。

 呼吸が僅かに乱れ始める、手足が意思とは関係なく震えてしまう。


 それでも、聞かなければならなかった。


「……内海さんは、私を好きだから隠し撮りを――嫌がらせをしていたのですか?」


 絞り出すようにした言葉が教室に広がって。


「嫌がらせ? これは違うよ。僕はただ間宮さんを守りたくて、僕の物なんだってアピールするために写真を送り続けたんだ。全部よく撮れてたでしょ? 僕はいつだって間宮さんのことを見ているんだから当然だよね」


 平然と言ってのけた彼のそれに、酷い寒気がした。


 話が根本的に嚙み合わない。


 生きている世界がズレているのではないかと思うほどに、私と彼の間にある溝は深かった。


「だから、間宮さん」


 彼が近付いてくる。

 着実に迫る足音。


 私はそれに合わせて下がる。


「僕は間宮さんのことが好きなんだ」

「……その好きには応えられません」


 距離は変わらず、緊張感だけが高まっていく。


「どうして? まさか、あの藍坂とかいう男と付き合ってるの?」

「違います。彼は友達です」

「じゃあ、僕と付き合ってよ」

「それとこれとは話が別です。第一、私は内海さんのことを恋愛感情的な意味で好きではありません」


 ぴたり、と彼の足取りが止まる。


 彼の表情には困惑が浮かんでいた。


 ああ、ようやくわかってくれたんだ、と思ったのも束の間。


「――でも、こんなのバレたら困るのは間宮さんだよね」


 私の裏垢を見せつけながら彼は迫って――否、脅しをかけてくる。


「……何が言いたいのですか」

「バラされたくなかったら僕だけの間宮さんになってよ」


 彼は薄気味悪い笑みを浮かべながら、私に再度迫ってくる。

 私は後ろへ、後ろへ下がって――壁に背中がついてしまう。


 正面には彼の顔。

 視線が制服を押し上げる胸や腰回り、脚などへ巡らされていることに気づく。


 でも、私はここから逃げられない。

 彼に秘密を握られている以上、私は彼に逆らえない。


 もしも彼が秘密を明かせば、私だけでなく藍坂くんまで被害を被る可能性がある。


 それだけは絶対に、ダメだ。


「……好きにしてください」


 無抵抗を示すように、私は脱力したまま彼を見る。


 極度の緊張と恐怖を優等生の仮面で覆い隠す。

 だってそれが、彼が私に求めている姿だから。


 毎日やってきたこと――そのはずなのに、こんなに胸が痛むのはなぜだろう。


「僕の物になってくれる気になってくれたの?」

「………………」

「だんまりかあ。でも、嬉しいな。間宮さんは僕だけのもの。僕だけの間宮さん。もう大丈夫だよ。あんな男に脅されてやっていたことなんだから、間宮さんは何も悪くないんだ」


 違う。


 裏垢は私の意思で、藍坂くんを脅したのは私だ。


 全部、悪いのは私。

 責任を負うのも私だけでいい。


 彼の腕が私の肩に伸びてくる。

 制服の上から指で腕のラインに沿ってなぞられ、喉の奥から自分のものと思えない細い悲鳴が漏れ出た。


 身体が恐怖と気持ち悪さに耐えかねて硬くなり、動かせない。


 そんな私の震える心を無視して、彼は私に抱き着こうとして――


「――やめ、て」


 辛うじて溢れたのは拒絶の言葉だった。


 しかし、それは彼に届いた――届いてしまったようで、一瞬だけきょとんと目を丸くしてから、


「どうして? どうして、どうして、どうしてどうしてどうして!!!! 間宮さんは僕のものなのに、どうして断るのさっ!?」

「ひゃっ――」


 力任せに抱き寄せられ、息苦しさを覚える。

 お腹を締め上げるような腕はどうやっても解けそうになくて、肩口に埋められた彼の頭は離れない。


 呼吸のたびに息がかかり、好意というラベルを張った独占欲とか執着心と呼ぶべきものを間近に感じて震えが走る。


「くる、し、い……」


 彼の背中を弱々しく叩いて腕を離すように伝えようとして見るも、まるで意味を成している様子はなかった。


「間宮さんっ、僕はこんなに好きなのにっ!! 間宮さんだって僕のことを本当は好きなはずなのにっ!!」

「ごめ……ん、なさい……っ」

「だってあんなに間宮さんは僕に優しくしてくれて、笑ってくれて、それなら僕のことだって好きなはずで――」


 勘違いだ。


 その私の心境を代弁するかのように、閉め切られていた扉が開いて。


「――人の気持ちも聞かずに強引な手段で迫るのは感心しないな」


 一番来てほしくなかった人の声が、遠くなった私の耳に届いた。

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