第31話 秘密、だからね

 

 頭がドロドロに溶けていて、ストッパーと呼ぶべきものが吹き飛んでしまっていた。


 手が動く。

 今度は自発的に自分の右手を太ももの付け根に這わせて、スマホのカメラでそこへとピントを合わせておく。


 逆三角形に飾られた赤い下着、柔肌を包み込む黒いタイツ、その上で影を作るプリーツスカートの裾。

 熱っぽい吐息と、僅かに荒い息遣いが教室に広がって、時折二人分の体重に椅子の金具が悲鳴を上げる。


 ぴったりと制服越しにくっついた身体。

 大きな膨らみが胸に押し付けられていて、その柔らかさに心臓が早鐘を打っていた。


 肩に乗るような頭が揺れるたび、細やかな髪が頬をくすぐって甘い香りを呼吸と共に肺へ取り込んでしまう。


 直視するのははばかられるものだとわかってはいるのに、猛毒のような魅力に意識が取り込まれていく。


 ごくり、と生唾を飲んだ音が聞こえた。

 俺と間宮、どっちのものかすらわからないほどに二つの意思が混じりあって、現実から切り離されたような感覚になる。


「なんか、やっぱりエッチだね」

「……誰がやらせてると思ってんだ」

「私も少しだけ、そういう気分、わかってきたかも」

「俺は冷や汗ダラダラだが?」

「その割に目がマジだけど」

「今度こそ本気で襲うぞ」

「……私をちゃんと見てくれるなら、いいよ?」


 甘い誘惑。

 かぷり、と耳たぶを甘噛みされて、生暖かくぬるりとした感触がそこを蹂躙した。


 それが間宮の舌であることくらい見なくてもわかったが、俺は喉を詰まらせながらくぐもった声を漏らすしか出来ない。


 俺が何一つ返せないことに気分を良くしたのか、くすりと間宮は意地悪そうな笑みを浮かべて、舌先で唇を湿らせる。


「お返し、してよ」


 挑発的な言葉に、今度こそ俺の中の何かが吹っ切れる。


 太ももの付け根をさわさわと摩って、指先で弾力のある肉を弾いて、それから焦らすように逆三角形の場所へと手を誘う。

 間宮は拒絶することなく、ただ身をよじらせながら堪えるように俺へ抱き着いてくる。


 間宮は背中に爪を立てていた。

 自分はここにいるんだと俺に意識させるようなもので、決して痛みは感じない。


 やがて、俺の手が赤い下着へ辿り着く。


 僅かに湿っていて、生暖かくて、絶対的にダメなことをしている感覚が脳へじわりと押し寄せる。

 俺は間宮と目が合って、小さく頷かれてしまう。


もっと――そう言いたげなとろけた表情。


 俺は静かに指先を下着の、もっと言えば間宮の大事な部分の形に沿って滑らせた。


 焼けるような熱量が伝わってきて、手とそことの境界線が曖昧になっていく。

 手を進めるにつれて、その湿り気は増す。


 カメラで映される映像をぼんやりと眺めていると、現実のものとは思えなくて。

 でも、自分の目に、その光景が映っていて。


 頭がおかしくなりそうだった。


 もう、おかしくなっていたのかもしれない。


「ひ、ぁ……ちょっ、ストップっ!」


 悲鳴のような声を間宮が上げて、飛んでいた理性がふと戻ってくる。

 そこで改めて現状を……惨状さんじょうと呼んでもいい現実を直視して、


「……これ、撮っていいのか?」

「早く撮ってっ! これ、思ってたより恥ずかしいし……その、多分……言わなくてもわかると思うけど――」


 ごにょごにょと間宮は口ごもったが、言いたいことは俺も良くわかっていた。


 それに、俺も間宮と似たようなものだし、間宮もそれは膝に座っている関係でわかっているはず。

 これはそう、あくまで人間の構造的に仕方のない反応を互いにしてしまっただけで、そんな意図は全くない。


 そういう示し合わせを無言で終えて、俺は言われたとおりにシャッターを切った。


 現実感のない光景が、そのまま画面に切り取られる。


 タイツに覆われた赤い下着に触れる、俺の手。

 でも、これでは誰がやったまで見えない。


 俺は少し考えて内カメラに切り替え、間宮のそこと俺の顔が同時に映るように位置を調整し、もう一度シャッターを切った。

 今度は誰がやったかまで誤魔化しようがない証拠写真がデータとして保存される。


 この写真がある限り、俺は決定的に間宮へ逆らえなくなり、間宮は絶対的な生殺与奪の権利を握ったことになる。


「……これでいいんだよな」


 そこから手を引き戻しながら間宮へスマホを返すと、その画面をじっくりと見分してから「……うん」と小さく返事をした。


「私が信じるのはこの写真。これがある限り、藍坂くんは私に逆らえない」

「俺は間宮がその写真を信じている限り、間宮が俺を裏切らないと信じられる」

「……改めて口にすると歪だね、私たち」

「ほんとにな。バレたら学校生活終わるし」


 裏垢女子であることを隠し、優等生として振舞う間宮。

 その秘密を知ってしまい、致命的な脅迫材料を握られている俺。


 本来、そこに信頼関係など築けるはずがない。

 けれど俺と間宮は、写真という劣化しないものを介することで間接的に信用し合うことができる。


 人を信用したわけではない。

 行動の結果生まれたものと、互いの過去を信用しているだけ。


「……で、さ。そろそろ降りてもらえると助かるんだけど」

「えー? このままくっついてたらダメ?」

「脚痺れる」

「…………それ言わない方が良かったんじゃない?」

「無理やり降ろすぞ」

「しょうがないなあ」


 はあ、と軽くため息をついて、間宮は膝から降りた。

 そのまま荷物を取りに行くのかと思いきや、くるりと振り返って人差し指を自分の口に立てて、


「――秘密、だからね。誰かにバラしたら許さないから」


 わかりきった笑顔で間宮は言う。


 こんなこと、俺は誰かに言えるはずがない。

 間宮も理解しているし、この期に及んで釘を刺す必要性も感じない。


 これはあくまで体裁を整えるための確認。


「当たり前だ。間宮こそ頼むぞ、本気で」

「どうしよっかなあ。藍坂くんが変なことをしなければ大丈夫じゃない?」

「変なことをさせてるのは間宮だと自覚を持ってくれ」

「あんなにノリノリだったじゃん。手をぐいぐい押し付けてさあ……ほんとに、恥ずかしかったんだから」


 窓から差し込む夕日の赤が間宮の頬を彩る。


 僅かに伏せられた長い睫毛まつげ

 じっとりとした視線に息を詰まらせ、そのときのことを鮮明に思い出してしまう。


 あれは自分でもわかっているけど、確実に何かがおかしくなっていた。

 完全にあのまま続けていたら、雰囲気に流されてそういうことにまで進みかねない危うさがあったと、終わった今でも思う。


 それは俺はもちろん、間宮だって望む展開ではなかったはず。


「……二度としないからな。あれはやりすぎだ」

「うん。あれは刺激強すぎだね。藍坂くんが映ってる写真は裏垢に上げられないし。私も……少し変になってた」

「わかってるならいいけど。で、今日はもう帰るか?」

「帰りにどっか寄ってかない? 疲れちゃったから甘いの食べたい」

「奢らないぞ」

「知ってる。じゃあ――」


 間宮が荷物を取りに席へ戻る。


 その途中、すぐ近くの廊下から走り去るような足音が聞こえて、どきりと心臓が跳ねる。

 まさか誰かがずっとそこにいたのか……?


 扉程度なら俺と間宮の話を聞かれていてもおかしくはない。


 面倒なことになったけど、扉を開けようとしなかったなら気の強い人ではないはず。


 すぐにどうこうなるとも考えにくいけど、警戒だけはしておくか。

 俺が聞いたのは足音だけで姿を見ていない。

 でも、ずっとそこにいたなら俺と間宮が教室にいたのはわかっていると思う。


「間宮。多分、誰かがずっと廊下にいた」


 念のため共有しておくと、間宮は固い表情で振り返る。


「……話を聞かれていたってこと?」

「恐らく。全然気づかなかった、悪い」

「私もだから気にしないで。……今後、もしかしたら接触してくるかもね。藍坂くんも気を付けて」


 二人だったから姿を見せずに退いた、というのは理由として考えられる。


 でも、それなら狙われやすいのは――


「間宮も気をつけろよ。狙うなら俺より間宮だろうから。一対一で知らないやつと会うのは避けた方がいいと思う」

「なるべくそうする。一応、そういうときは場所だけ伝えるから。あんまり帰ってくるのに時間がかかるようなら様子を見に来て欲しい」

「わかった。先に言っておくけど、迷惑かけるとか思うなよ。秘密がバレて困るのは俺もだ」

「……ありがと。やっぱり優しいよ、藍坂くん。こんな私にその優しさを使わなくてもいいんじゃないかな、って思うけど」


 夕焼けを背に苦笑する間宮。


 時刻は五時過ぎ。

 もうこんな時間だったかと思いながら俺も荷物を手に取って、準備を済ませていた間宮が扉のロックを解除して外へ。


 職員室に鍵を返しに行った間宮を送って、俺は玄関で間宮の合流を待つのだった。

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