第16話 水墨画
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。
奥の細道より
彼はいきなり私の生活の中に侵入して来た。はじめて意識したのは、道玄坂のビルの角で、突然飛び出して来た彼を避け切れずに、舗道に尻もちをついた。
見覚えがあると思った程度で、互いに詫びて、彼が差し出す手で引っ張り起こされた。
持っていた書類袋から、同じ会社の人だと知った。そうと分かれば、見たことがある程度だった。
それからは度々会った。同じエレベーターを利用していたのだから、きっと知り合う以前もこんな事は何回もあったのだ。たまたま意識しただけのこと。
駅のホームで、反対側のホームに立つ彼に気がついた。列車が入って来る寸前に、彼は階段を降りるようにジェスチャーで伝えてきた。
たいした偶然ではないけど、私にはドラマチックな出会いを感じた。そのまま、夜の街で一緒にお酒を飲んだ。
会社の同僚であり、友人の加奈は『運命の人じゃないの? 』と、冷やかした。
朝、早出のときに、駅の売店で同じ新聞に手を伸ばした。5年間も同じ駅を利用していたんだと、互いに驚いた。
休日に、坂の途中でバイクが故障した。車で通りかかった彼が、バイクを引いてくれて、坂の上まで移動できた。その日、運命の人の自動車には家族が同乗していた。奥さんと2人の子供。後部座席には、スーパーで買い物をした日用品が積まれていた。
『運命の人』を意識していた私には、これまでのことは、よくある偶然、単なる勘違いだと知らされた。
休日に、坂の途中でバイクが故障した。車で通りかかった彼が、バイクを引いてくれて、坂の上まで移動できた。こんな出会いは、まっぴらだ。
私は生活時間を変えた。出勤時間も30分早め、休日の買い物は、隣街のスーパーを利用した。
彼が離婚したことは、社内の噂で知った。なぜこんなにも気になるのか、気にするから会ってしまうのか。少なくとも、私の理想相手とはかけ離れていた。冷静になるために、一泊で箱根の温泉に足を伸ばした。
彫刻の森美術館で、野外展示のトルソーの向こうから、手を振る彼の姿があった。
彼も『運命の女』と言った。
はじめて両親に引き合わせた時に、父親も母親もどこか上の空だった。
30年前にハルピンで暮らしていた時の隣人の子だと言い出した。両親は互いに日本から赴任していたハルピンで見合い結婚をしていた。苗字に覚えがある、顔も似ている。でも、まさかね。
しかし、それが現実だった。深夜に陣痛が始まって、慌てた夫婦が助けてを求めた隣人。父と母が車で病院に運び、無事に出産したのだ。
私たちは、そんなドラマチックな出会いから、式も挙げず、入籍だけの結婚をした。
あの不思議な出会いは、運命の悪戯か?
平凡な日常だった。
私は会社を定年退職し、子供もいない。散歩がてら美術館巡りをする。夫婦は別行動だ。その日は東京都美術館で中国美術の特別展をしていた。
水墨画もいいものだ。墨の色は古さを感じない。三人の老人が話す傍らに、二人の童子が遊んでいる。瀧の前の桃が満開だった。息が詰まるほどの花の香り、耳にはサラサラと瀧の音が、子供たちの笑い声。懐かしさに、胸が締め付けられる。
「運命の出会いって言ってたよね。今日ルーツに出会ったの」
夫はテレビを観ながらビールを飲んでいる。「そうだったのか、奇妙だと思っていたんだ」
夫は水墨画の話に、妙に納得してしまった。
遊んでいた二人の子供は、私たちだ。偶然に出会った訳じゃない。
翌日、二人で美術館に一緒に出かけたが、特別展など開催していないし、予定もないと説明された。銀杏の紅葉が美しかった。
「悠久の時って知ってるかい?」
「この年になれば、感じるし、わかるわ」
「運命とは抗えないもので、都会の雑踏の中で見落としていたんだ」
夫には、いつ何を見落としていたのかは、聞かないことにする。私たちが輪廻の輪の中にいるのか、時空を超えて出会ったのか、遅ればせながら、改めて運命の相手だったと悟った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます