第14話 夜の池袋

げにや安楽の世界より 今この娑婆に示現して 我等がための観世音 仰ぐも高し。高き屋に 上りて民の賑ひを 契りおきてし難波津や みつづゝ十とみつの里 札所々々の霊地霊仏。巡れば 罪もなつの雲 あつくろしとして 駕籠をはや おりはのこひ目 三六の 十八、九なつかほり花

曽根崎心中より


池袋から一駅のところにあるひっそりと佇んでいるお寺、あえて名前は伏せますが、大都会の一角とは思えない落ち着きと風情があります。


私は当時結婚したばかりで、なぜか恋人だったときには、本当に頼りがいのある良い方に巡り会えたと感謝していました。


結婚のため、池袋から近いこの地にマンションを購入し、新居としました。どちらの家もそこそこ資産もあり、親が折半で購入してくれました。


このあたりは、江戸時代には参道両側に茗荷屋、蝶屋、武蔵屋などといった料理茶屋が並ぶ一大観光地だったという記録が残っているそうです。


私たちは、通勤のため、近道に寺の境内を突っ切り、池袋の駅を利用していました。歩くとかなり距離がありますが、運動も兼ねていました。


私たちは1か月もすると、喧嘩が絶えない夫婦となり、とうとう、深夜に夫が『出ていけ』と怒鳴り、私はサンダル履きで、表に飛び出しました。


深夜の近道にお寺の近道は怖いと、迂回路に回り込んだときに、陽気なお囃子が聞こえて来ました。私は浮かれるように囃子に釣られて歩きました。


石段があり、どうやら音はその上の方から聞こえます。20段程の石段を登ると、ぼんやりした明かりの中に、夜店がたくさん並んでいます。


お祭りだ。そのまま屋台に進むと、お囃子の音がピタリと止まりました。屋台のあいだには、取り残されたように、浴衣姿の人々がいます。


静まり返った場所に、動きを止めた人たち。いっぺんに恐怖が襲ってきました。とっさに向きを変えたときに、手に暖かいものを感じました。


恐る恐る見てみると、2歳位の男の子が、私の手を握り、見上げています。男の子に手を引かれ、石段を降りました。途中まで降りると「バイバイ、またね」と手を振ります。


石段を降りたら、通りの向こうから走って来る夫が見えました。

『ごめん、いい過ぎた』

夫が迎えに来ていました。私たちは夜の街をそのまま駅まで歩き、喫茶店を探しました。


しかし、その晩はどういうわけか、お店が見つからなくて、気がつけば、同じところをぐるぐる回っているような。


夫が自動販売機でコーヒーを2本買い、ベンチに並んで座りました。私はまだ恐怖の中にいました。


そして、どうして深夜に徘徊する羽目になったのか、なぜたびたび怒鳴り合いになってしまうのか、これまでの喧嘩を振り返りました。


あたりが明るくなったころ、目の前に池袋の駅が見えました。私はたちは、コーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れると、手を繋いでマンションに歩いて帰りました。


それからは大きな喧嘩もしなくなり、子供を授かりました。男の子です。彼が2歳になったときに、おばあちゃんから浴衣を買ってもらいました。


浴衣姿の彼は、あの日、寺の境内で手を引いてくれたあの子に違いないとふっと思いました。

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