第10話 日本橋の百貨店にて

むかし、かべのなかよりもとめ出でたりけむふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身のうへの事とは知らざりけりな。みづくきの岡のくづ葉、かへすがへすも、かきおくあとたしかなれども、かひなきものは親のいさめなり。

十六夜日記より



私は子供時代に、癇癪を起こし父親の硯を投げて割ってしまった。叱られた記憶はないが、それっきり父親は書道をやめてしまった。あとから知ったのだが、父親は青春時代を中国で過ごしたようで、その時に町で声をかけられて買い求めた硯だった。


贈答品を買いに、荻窪から地下鉄を乗り継ぎ出かけた。父の還暦祝いだ。「定年を境に、ゆっくり書でも始めるか」と、ボソッとつぶやいたときに、やっと幼いころからのわだかまりが解けると思った。


普段はあまり行かなデパートに出かけた。1階の受付で、書道用品を探していると訪ねたら、わざわざエレベーターまで案内してくれた。

見るからに歴史あるエレベーターで、金属のフェンスで覆われている。右手の石の柱に階数を示す数字のレリーフが嵌め込まれていた。


ずいぶん旧式のエレベーターで、乗り込むのに一瞬躊躇した。受付の女性は丁寧に頭を下げて、エレベーターのドアが閉まった。エレベーターの箱は最新式だった。少しほっとした。老舗百貨店だ、建物は大正時代に建てられたものでも、設備は新しい。5階のボタンが既に押されていた。


フロアーに出ると、デパートの中とは思えないほど、照明が暗く感じられた。大理石の床を真っ直ぐに進むと、すぐにデパートの制服を着た店員が近づいて来た。探しているのは、書道に使う硯と筆だ。


5万から10万円ほどの彫刻が施された硯が並ぶ。

「もう少しいいものも見てみたい」

すると、奥のほうから初老の女性が出て来た。

「お客様、当百貨店では、骨董品の取り扱いがございません。高額の面白い硯なら、ちょっとこちらに」


店の奥にさらにドアがある、バックヤードに入れるのだろうか。百貨店のバックヤードには、当然、従業員用の食堂や、トイレや倉庫があるのだろう。それにしても広いんだなあ。


真っ直ぐに通路を進み、先程とは違うエレベーターに乗ると、2階下に降りた。

「この先は、百貨店とは別の施設でございます。おそらく、お探しの品はこちらにございます。個人の作家の作品が並んでいますが、百貨店ではございませんので、クレジットカード、商品券はお取り扱いしておりまこせん」


カバンの中には、この日のために、百万円をおろして封筒に入れていた。案内された先は工房になっている。硯が3点ショーケースに並び、一枚板の大きなテーブルの隅で、工芸家と思わしき老人が硯を彫っていた。


『ここはどこなんだ?』

言われるまま付いて来たが、あたりを見回せば、商店街のような町並みだった。この店も、古めかしいガラスの引き戸だ。


ガラス越しに、おもちゃ屋と、喫茶店が見える。

無性に喉が渇いている。

「こちらで見せて頂きますから、どうぞ、私に構わないでください。あそこで、コーヒーを頂いてからにします」



「私もご一緒いたします」

彼女は誰なんだろう、百貨店の店員じゃないのか? 私が今いる場所が今ひとつ理解できない。

「私はブラジル」

彼女はストレートコーヒーをオーダーした。私は「ブレンドね」と軽く言う。


「私ね、この店が好きでね。ほら、ジャズが流れてるでしょ、仕事中にジャズが聴けるなんて、素敵でしょ。好きでこんな仕事してるわけじゃないのよ。なんかヤバイ感じじゃない? もう両親も亡くなって、多少危険な匂いも魅力的よね、お客さん、若いのに、渋い趣味ね」


はぁー、何を言い出したのか? まったく脈絡を感じられない。

「特別なものが欲しいんでしょ、すぐにわかったわ。百貨店の客じゃないでしょ。あの職人ならなんでも彫れるわよ」

私はカバンから古い写真を取り出した。父親が書斎で机に向かって書を書いている。私はその横で正座をして、父を見ている。


机には硯が写っている。少しぼやけて、彫刻までははっきり見えない。同じ物など無理だろうが、似たような硯はないだろうか。


「それなら、あの2番目の硯にしなさいよ。さあ、行きましょう」

なるほど、サイズも価格もちょうどいい。


ギフト用に包んでもらった。女性に送り出されたドアから外に出ると、日本橋のたもとだった。礼を言おうと振り返ると、出口も女性も消えていた。カバンを探すと、ギフトの包みは持っている。


父親に硯を渡した。

父は目を丸くして、頷きうやうやしく硯を受けとった。それだけだ、喜んでもらえると思った私は、拍子抜けした。それから父は毎日書を書いていた。きちっとしたお手本のような書体で、書道に疎い私はああ「また書いている」とその姿を見ていた。


仕事で日本橋を歩いているときに、ふっと思いつき、いつかの百貨店に行った。5階の書道用品売り場に彼女の姿を探した。

「ああ、いつかの硯の方? やっとお会いできたわね」

彼女に誘われてまた後について、百貨店の裏のドアに通された。


「この店、いい感じじゃない? 」

彼女はストレートコーヒーをオーダーし、タバコに火をつけた。やはり、なんとも不思議な空間だ、落ち着いてよく見れば、時代も、世界観もバラバラだ。千両箱に、鎧甲冑、ランプや照明器具の数々、水晶のドクロ。昔のアキバの商店街のようだ、あるいは、中野ブロードウェイのような。


広い場所に小さいブースがひしめいている。

「あの硯ね一目見て特別なものだとわかったから、こちらに案内したの。私は百貨店のコンシェルジュ、百貨店と言うからには、なんでも揃わないとね」

ふぅーとタバコの煙を吐き出した。

「あれは調べてわかったんだけど、閻魔大王の持ち物で、盗品なの。あの硯で書いた名前が地獄に落ちた人の名前、閻魔様はのちに地獄から救い出す者の名前を書き綴っていたの」

「ああ、父が書いているのは、名前なのか」そうかも知れない。不思議な話に引き込まれてゆく。


「閻魔の硯を盗み出すなんて、大それたことをしたもんだわ。それが中国の裏市場で売られていたのね、で、今の持ち主はお元気なの?」

「はあ、書ばかり書いていますが、元気ですよ」

「私はただの店員だけど、探しているものの由来まではわからない。果たして探して上げたほうがいいのかもわからない。ヤバイ仕事だとは思っているのよ」


父親は、82歳で亡くなった。きっと極楽に行ったに違いない。亡くなる前の日に、自分は誤って人を殺害し大陸に逃れたと言っていた。それきりだ。


後の筋書きは自分で付け加えて、この物語りを終えよう。


父親は逃れた中国で、硯を手に入れた。硯で墨をすり、筆を手にすると、書くべき名前が浮かんでくる。父は次々に書いてゆく。それは、閻魔大王が地獄に落とした者の名簿から、救い出した者の名前。ある時、盗賊が大王の元に来てまんまと硯が盗まれた。盗賊は息を吹き返し、さすがに怖くなり、すぐに出会った若者に二束三文で売ってしまった。


硯には閻魔様の思念が込められていた。

手に入れた者は、自然と名前を書き綴ってゆく。それが仕事のように。父は私が硯を割ったときに、解放されたに違いない。そして再び硯が父の元に戻った。父はなんだかわからないまま、文字を書き綴っていた。後には膨大な巻物が残されていた。私は棺桶にすべての書を入れて、父と共に火葬した。硯は焼けないので、棺桶に入れることを拒まれた。


私はまた百貨店で彼女を探した、すぐに向こうか、声をかけてくれた。硯の処分を頼んだら、心よく受けてくれた。彼女も今年で定年だと言う。

老舗百貨店のコンシェルジュと言う仕事。確かに今思えば、ヤバイ仕事に違いない、なんとかして探そうと思っている物を探し当てるのだから。


「私は欲しい物なんかないの。執着は恐ろしいわ」

彼女もかつては執着する物があったのだろうと思った。私は父も亡くなり、天涯孤独となり、今は清々している。

さて、これが私が出会った不思議な話しだ。最後まで終わらせたくて作ってしまった。

きっとこんなところだろう。

おしまい

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