第8話 土地の記憶
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。
平家物語より
何度も迷い道に入ってしまった。東京という大都会は、過去の記憶を抱いて眠っている。
迷い道に入っては、街の歴史を調べたり、謎解きをしているうちに、迷いやすい道の検討がつくようになった。
明暦の大火をはじめ、火災による消失と、当時の悲鳴、阿鼻叫喚の地獄絵図。そうした土地の記憶はただ悲しいばかり、胸が押しつぶされそうになる。
関東大震災では、各地の避難場所にも火が移り、多数の死者を出している。街を歩くと、石碑に出会うことがある。偶然出くわした石碑の意味を知り、しばし愕然とする。
迷い道に入ると、空気が変わったのをはっきり感じる。私は日銀通りをよく歩いた。
そうそう、迷い道から抜け出す方法を伝授しておく。
いつか役に立つかも知れない。
関連する建物や、店、路地。とにかく当時から残るものや地点を探し出す。目を閉じて、心から祈りを捧げたり、情景を思い浮かべる。いまく行けばそれだけで、こちらに戻れる。また、自分はどのあたりにいるのか、現在の位置をイメージし、ひたすら歩くと抜け出せる。
決してパニックを起こしてはいけない。
私は東京に長く住み、日本橋界隈は30年もうろついている。それでも、どうしても戻れない時には、現在も残る寺や神社の境内に行き、眠ってしまうことだ。絶対火事に巻き込まれてはならない。朝になれば、戻っている。
多分歴史ある地方都市でも同じようなことが起こっているはず。そんな話を集めたら、図書館一軒分の不思議が集まるだろう。
とくに、日銀周辺の通りは昼間でも、薄暗いイメージがある。夏のカンカンした日照りは、蜃気楼のように土地の記憶に引き込まれる。目眩かなと感じた時にはすでに入りこんでいる。
日銀の円形ドームが焼けた日。いきなり、背後からの馬車に衝突されそうになった。騎兵のあの後ろ姿は、皇居の近衛兵ではないか?
一刻橋の上では、向こう側に土の道が続いていた。
茅場町あたりで雨やどりに入った店は、心地よいジャズの音楽で満たされ、紫煙に包まれた。
二度と遭遇しない店で、ひとつの陰謀をささやく輩と出くわした。
私は東京という街の魅力にやられてしまった。
細かい話はこの先ひとつひとつ語ろう。
幾度となく迷い込んだ裏路地は、私の郷愁を呼び起こす。
神楽坂は旧番地のままの町だ、昔ながらの提灯に火が灯るころ、仄暗い路地に入り込むと、まるで影絵を見てるような風景にぶつかる。
粋な着物に白塗りの化粧の女が、三味線を抱いて店に入ってゆく。半分突き出た2階のガラスに横掛けに座り、座敷唄が流れて来る。
さては、迷い込んだ、またやっちまったと辺りを見回すうちに、いきなりの擦り半だ。大八車に祭りのような喧騒。
真っ直ぐに坂を下り、見慣れた辻に出た。飯田橋だ。そうだ、違いない。頭の中の地図に重なった。橋を渡り、堀を北に向かううち、皇居の森が見えた。
車が脇をすり抜ける。
慌てて舗道に身を寄せた。
神楽坂方向の空を見ても、煙一筋上がっていない。
地下鉄に乗って帰るも、陽気な姐さんの座敷唄が頭から離れない。酔ってもいないのに、千鳥足で、団地に吸い込まれる。
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