第3話 ある男の臨死体験
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
方丈記より
ふんわり、ふわりとただよううちに、三途の川にたどり着いたようだ。
聞いていた通り、荒涼とした場所だった。ダツエボだろうか、向こうからばあ様が見ている。そこには一艘の渡し船。だけど、私が行きつく場所はここではない。
きっぱりと否定した瞬間、三叉路に立っていた。
一本目にはリンゴの木があり、蛇に守られていた。次の道には、桃の木があり、たわわな実をつけている。桃と言えば黄泉の入り口だろう。行く訳がない、この道も違う。
次の道ばたには、菩提樹の樹あるが、ここでもない。さて、あちこち見物したが、わたしは道端に座り込んだ。お釈迦様が悟りを開いた菩提寺の木の道は多少縁がある。お寺さん併設の幼稚園だったから、甘茶を頂いたり花祭りをした。この道を行けば少なくとも、地獄には落ちないよなあ。
奥には美しい乳白色の花が咲く蓮池が見える。あれほど完璧な風景に入ったら、邪念だらけの自分は消えてなくなる。浄化されてしまう恐れがあった。ちょっと足がすくむ。
これほど生前の記憶を持ったまま、この地に立つとは知らなかった。私はどちらかというと、天国に行きたいのだ。
自分で天国をイメージできれば、行けるはず。百合の香りがする方向には、輝く扉がある。眩いばかりの光の道。天国に通じる道だ。うーん!
さてさて、困ったことになった。確かに私は死んだのだ。モニターに映し出された心電図が、完全に0を示すのを見た。そして、気がつけば、三途の川に出たのだ。誰かが向こう岸で手招きするとか聞いたことがある。身内に手招きされたとか。お迎えでもあれば行きやすいだろうに。
神様だって、ここまで来れば、もっと身近に感じる筈だ。私は小石を積む人を横目で見ながら、知ってる限りの神様を浮かべた。
天津神、国津神、天照大神、シヴァ、ビシュヌ、ブラフマー、梵天、ゼウス、ヘラ、ポセイドン、キリスト様、マリア様、アラー。スサノウノは神様だったっけ。どれも遠い存在だった。
完全に道に迷った。
せっかくここまで来たのに身動きが取れない。
よく見れば、うろうろしている人々の顔が見える。知った人がいるんじゃないかな。
あっ、あそこで笑うのは、叔父さんだ。飛び上がりそうになった。確か去年行方不明になったと聞いた。こんなところで知った人に会えるとは。
「あっ、お前か! 俺は、ヒマラヤ登山に行ったきり、遭難して、まだ発見されてないんだ。おまえは死んだのか」
「そうだよ。叔父さんは行方不明ってことになってる。これから、どうすればいいの」
「ここは、天国への出発ターミナルみたいなもんらしい、じいちゃんも、まだうろうろしてた」
叔父さんはニヤニヤ笑っている。
「なんでじいちゃんが? とっくの昔に亡くなったよ」
「ここに来たら、向こうから迎えが来て、光のトンネルに入ったり、階段が現れたり、ほら、渡し船があっただろ。船賃を渡せば、川向こうに行ける」
「金なんか持ってないよ」
「そうだよな、死装束は着せてもらえなかったのか、旅立つときに、六文銭を首にかけてくれるはずなんだが、あいにく我が家は仏教じゃないからなあ」
「竜宮城なら行ってもいいけど」
「そんなところはあるもんか、かぐや姫や、七夕さんも物語の世界だからな」
「おじさん、我が家は隠れキリシタンじゃなかった?」
「いや、曾祖父さんの代までだ。あとは、隠れる風習だけが伝わった。ただ自分の宗教を知られないようにした歴史が長いから、子孫はなにも知らない。祈る言葉も、作法も知らないだろ」
「おじさんはこれから、どうするの」
「諦めた、戻ることにしたよ」
俺も叔父さんも、九州の小さな離島で生まれた。
神棚の下に仏壇があり、マリア様の写真が飾られている。おまけに、隠された洗礼名を別にもつ。
特殊な宗教感の元に育った。
「戻れるの? それなら俺も帰るよ。もっと調べてからじゃないと」
「調べる? 違うだろ、誰かがお迎えが来るんだ」
「だって、来ないじゃないか」
「無理に進むと、混沌に落ちるらしい」
「混沌ってなんだ?」
「天国でも、地獄でもないところさ、聞いた話しだよ。先がわからないから、祖父さんも俺も途方にくれてる」
わたしは聞いた瞬間、叔父さんの手を掴み、反対側に駆け出した。
混沌だって?
天国でも地獄でもない場所なんて、絶対嫌だ。
「なあ、正、おまえに会って助かったよ。俺は、記憶を無くして、ネパールの奥地で発見された。すぐに帰国手続きができて、帰ったばかりだ」
ベッドの枕元に座っているのは、叔父貴だった。
「おまえも、死にぞこなった」
これは夢なのか、現実なのか。
「教えてやろう。うちの一族は、みんな混沌に落ちたんだよ。おまえと私だけが帰って来た。つまり、蘇生した。祖父さんもやがては混沌行きだな」
「親父は?」
「あいつは、カトリックに改宗しただろ。さっさと天使に連れられてどこぞに行ったよ」
たまに会うおじは、親族の中では、ホラ吹きと言われていた。おじさんは世界中を旅しながら、自分に合う神様を探していたのだと言った。
「信仰は持たないが、信仰心は大事だ。我が家は隠れキリシタンだけど、それすら隠していたために『住所不定無職』のようになってしまった。父親は仏壇に向かい十字をきるが、母は手を合わせていたよな」
そう言えば、葬儀は神主が執り行う。だけど祭壇は白黒の幕が張られていた。親父はいつの間にカトリックに改宗したんだろう。
「叔父さんは、前にもあそこに行った事があるでしょ」
「これで二回死にそこなった。10歳の頃に、崖から落ちて、気がついたらあそこにいた」
「また行きそこなったね」
「おまえも、当分死ねないな」
自分が逝く道がわからないとは、思いもよらないことだった。
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