第51話 裏側②


 翌朝。


 家から出たくなかった僕は、それでも恵里香には会いたくて学校には登校することにした。


 朝の通学路はいつもとなんの変りもない……はずだ。


 秋晴れの空に少しだけ肌寒さを感じる風が吹き抜ける道路には、僕の他に何人もの人が歩いている。


 電話をしながら忙しそうに歩くスーツ姿の若い男性。


 友達同士で仲良く会話している他校の女子生徒。


 元気よく騒ぎながら駆け抜けていく小学生くらいの子供たち。


 その光景は何もおかしくはない。


 いつも通りの光景だ。


 けれど、僕は常に後ろから視線を感じていた。


 スーツ姿の若い男性は革靴の音を響かせながら大声で電話をしていたのに、僕とすれ違った後は、声も足音もしなくなった。


 友達同士で仲良く会話している他校の女子生徒たちを追い越すと、二人の会話は一瞬で聞こえなくなる。


 僕の横を駆け抜けていった小学生たちの足音は、通り過ぎた瞬間にピタリと止まった。


 まるで皆が立ち止まって、僕の背中をじっと見ているような……そんな光景を想像してしまった僕は、けして振り向かずにただ足を速めた。


 僕は見なくてもいい裏側を見てしまったのかもしれない。


 誰かがしっかりと隠していた世界の裏側、それを覗いてしまった僕にはこの日常が酷く歪に見えた。


 そして、知らなくてもいい事を知ってしまった僕は、日常を装うこの世界には邪魔なのかもしれない。


 まるで異物のような扱いをされている気分を味わいながら、僕はただ恵里香に会いたい一心で学校までの道のりを急いだ。




「おはよう優君!」


 恵里香はいつも通り僕を待っていてくれた。


 もはや何も信じられない僕にとって、いつも通り明るい笑顔を見せてくれる恵里香だけが、手放してしまいそうな正気を保たせてくれる存在だった。


 それでも、限界はすぐにやってきた。


 お昼になる頃には、僕はもうこの作られた日常の中で生きるのが辛くなってしまっていた。


 もうこの歪な日常の中でこれまで通りに生活する事なんてできない。


 見えている全てが偽りかもしれないこの世界で、常にガマズミ様に怯えて暮らしていたら、きっと僕はおかしくなる。


 それに、こんな世界で恵里香と今まで通り日常を過ごせるとも限らないのだ。


 昨日の図書館での出来事や、一真のマンションの前で会った小田巻の様子、それに今朝から感じている監視するような視線。学校でもその視線がなくなることはない。


 僕が抱いてしまった疑問はきっとよくないものだったのだろう。


 明らかに様子がおかしかった人達の事を考えると、もう僕たちの安全を保障してくれるものは無いような気がした。


 僕にはもう恵里香しかいない。


 学校やクラスメイトはもうとっくに必要としていない。


 父さんだってたぶん何かおかしくなっているし、四人いた幼馴染のうち三人はもう死んだ。


 だからもう僕には本当に恵里香だけ。


 もし恵里香まで奪われてしまったら……。


 この日常というフィルターで覆われた、裏に何があるか分からない世界に一人残されてしまったら……それは考えるだけでも身体が震えてしまうほど恐ろしい想像だった。


「優君……大丈夫?」


 自分でも気が付かないうちに本当に震えてしまっていたのかもしれない。


 恵里香がそっと手を握ってくれて、思考に囚われていた僕は我に返った。


「恵里香、やっぱり変だよ」

「……うん」

「皆、いや全部変なんだ。昨日から、いやもっと前からなのかも」

「そうなのかも、しれないね」

「怖いんだ……怖くてたまらない」

「怖いよね。ごめんね。でも安心して優君。私がずっと傍にいるから」


 恵里香は僕を抱きしめてくれて、あやすように優しく背中を叩いてくれた。


 高校生にもなって、小さな子供のようにあやされるのは恥ずかしかったけれど、恵里香の声を聞いているだけで、僕は自然と安心している自分に気が付いた。


 それは本当に魔法のようで、恵里香が大丈夫と言ってくれるだけで、さっきまで感じていた身体が震えるほどの恐怖はすっかりと和らいでいた。


 それだけ僕にとって恵里香の存在が大きいものなのだろう。


 それを改めて自覚した時、僕はある覚悟を決めた。


「ねぇ恵里香、もう一度、あの神社に行ってみようと思うんだ」


 自分でも驚くほどすんなりと口にしていた。


 こんな事をいきなり言われた恵里香は驚いているだろうか。


 そう思って顔を上げると、僕の予想に反して恵里香は真剣な顔でこちらを見ていた。


「……急にどうしたの?」


 恵里香の疑問はもっともだと思う。僕だって本当ならあんな場所にはもう行きたくない。


 けれど、このままじゃダメなんだということも何となく分かっていた。


 僕たちがこんな訳の分からない状況に追い込まれているのは、きっとあの神社で祀られていた『ガマズミ様』のせいなのだろう。


 そうとしか思えないし、他に当てもないからそうだと決めつける。


 恵里香のためにも、僕はガマズミ様をどうにかして、なんとか本当の日常に戻りたかった。


「考えたんだ。僕たちがこんな事になってるのってきっとガマズミ様のせいなんだと思う。学校も警察も親も皆おかしくなってる。もう信用できるのは恵里香だけ、僕にはもう恵里香しかいないんだ。だから、恵里香を守るためにも僕はあの神様をなんとかしたい。そのためにはまた神社に行かなきゃいけないと思う」


 僕は恵里香の目を見てそう言い切った。


 黙って聞いていてくれた恵里香は少し目を潤ませている。


 澄んだ瞳から流れる涙はとても綺麗で、僕は少し見惚れていた。


「ありがとう優君」

「お礼はまだ早いよ。ガマズミ様をどうにかできるか分からないんだし……危ないかもしれないから、最悪恵里香は家に帰ってた方がいいかも」


 口ではそう言いながらも、僕は本当は恵里香と離れたくなかった。


 一人で神社に行くのが怖いというよりも、少しでも離れている間に恵里香に何かあるかもしれないという恐怖の方が強い。


「大丈夫だよ優君。私は優君の傍から離れない。私が優君を安心させてあげるから」


 力強く手を握ってくれている恵里香がそう言ってくれた時、僕は素直に安心した。


 見つめ合って頷きあう。


 もう僕に迷いはなかった。


 恵里香と本当の日常を取り戻すため、放課後に僕たちは神社へ向かうことにした。

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