第4話

 墓地は館の裏手に位置しており、距離にして二十メートルも離れていない。生粋の日本人である――と思われるユマにとっては少々受け入れがたい立地だ。あるいは埋葬されているのが自分の祖先であれば感じ方も違ったのかもしれないが、あいにくとユマとハーノウィンの一族の間には無理やりに刻まれた呪いのような繋がりしか存在しない。墓場のど真ん中を突っ切るのもそこからまっすぐに屋内に入るのもどうにも躊躇われ、すでに見えている裏口の存在は無視してぐるりと屋敷を回り込むことにした。

 その判断が大間違いだった。

 領主館はほぼ長方形で、建物の正面に当たる長辺の中央から玄関ホールの半円が飛び出した、ごくシンプルな形をしていた。壁面の装飾も、大半はずらりと並んだ半円アーチの長窓が作りだす幾何学的な美によって完成しており、余計な飾りで建物が変形しているということもない。壁に沿ってまっすぐ歩き、二回角を曲がれば、すぐに正面に出られるはずだった。

 しかしこの屋敷は段差地に建っていた。裏手から見たユマは二階建てと見当をつけており、実際後ろ半分はその通りだったのだが、屋敷の前半分は崖の下から続く三階建て。しかも、住人が崖を越えたいときには家の中を通ればよいため、屋外には階段も何も見当たらなかった。

 戻るべきか退くべきか。どう考えても退くべきなのだが、ユマはほとんど直角に近い崖を滑り降りることを選択した。ユマはすでに、訳のわからぬまま敗北を喫している。意味がわからないが負けたことだけはわかる、屈辱的な敗北を押し付けられている。この上さらに負けを認めて惨めな気持ちになりたくはないという、意地と矜持がさせた選択だった。

 当然ながら、その選択は惨憺たる結果をもたらした。全裸に薄布を巻いただけのユマの体は、全身が泥だらけの擦り傷だらけ。逞しく壁面に生えた植物を引きちぎりながら落ちたため、幸いにも骨折はしなかったが、着地に失敗して足首を捻挫した。勝ったか負けたかで言えば、これも十分に負けであった。

 涙をこらえて足を引きずり、肩で息をし、ついに視界に入った正面入り口は末広がりの階段の先にあった。精神的にも肉体的にも、階段を見るとこみ上げてくるものがあった。ついにこらえきれずにべそをかきながら階段を登り、取っ手の高さに苦戦をしながら観音開きの扉を開け、ようやく入り込んだ玄関ホールで、ユマは体力の限界を迎えて床にへばりついた。


「無理だわ……こんなん無理だわ……自分のことで精一杯で、領地の管理なんか到底無理だわ……」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら、ユマは弱音を吐き出した。

 怪我をしたのは自業自得だ。しかし、それを差し引いても困難が多すぎる。領地は独りで管理するには広すぎるし、ユマはこの土地のことを全く知らない。魔術的な力で庭に繋がれたことで、否応無く理解させられた知識は十分にある。だが、実際に目にするまで屋敷の構造も崖の存在もわからなかったように、豊潤な知識は全く体に馴染んでいなかった。庭についてわからないことを問えばどんな答えも返ってくるが、何がわからないかを理解して、何が知りたいかを意識することは、ユマ自身が行わなければならない。


(魔法もインターネットも何も変わりがないじゃないか……だったらわたしはインターネットの方が好きだった……少なくともインターネットはバカにも娯楽を与えてくれる)


 現実逃避のようにそんなことを考えたが、もうインターネットのある世界に戻れないことは身をもって理解していた。現在のユマは、存在そのものが魔術で構成されているのだ。身長百センチの世界と庭に繋がれた感覚を経験して、それを否定する気力など残っていない。


「魔法っていうなら、土地の管理ができる魔法を寄越せよ……庭ぺディアに聞いても人力で管理するイメージしか返って来ねえよ……おかしいだろ……庭の分際で愛情を求めるなよ……わたしが愛されて労られたいわ……」


 泣きながらそんな愚痴を呟いて、ユマははっと口をつぐんだ。ハーノウィンの娘と似たことを口走っている。これは危険だ。

 しかし、こうして口走ってみると、やはりあの親子に対して純粋な憎悪を向けられないことがわかる。もちろん自分がされた仕打ちに関しては許す気など微塵もないが、庭に閉じ込められて過ごすストレスには理解が及ぶし、それでもなお今日まで庭の管理を続けてきたことには純粋に頭が下がった。

 庭と結びつけられたユマには、自分が《﹅﹅﹅》庭の世話をしなければいけないことがはっきりとわかっている。魔術的な強制力のせいもある。しかしほとんどは、庭のことがわかる《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》が故に生じる義務感のためだった。

 この庭は、自生することができないのだ。

 人が手入れを怠ると、庭はあっという間に荒廃する。草木は枯れ、川は干上がり、大地は乾ききってひび割れ、湖は汚泥の沼となり、人も獣も住める土地ではなくなってしまう。ただ、それだけならばハーノウィンの人々も責任を放り捨てて逃げ出せただろう。しかし庭は、王国全土の縮図だった。全てが精巧に写し出されているわけではないが、大まかな地形は同じで、庭の西端にある木立は王国の西端の大森林と呼応する。庭の湖が濁れば、はるか彼方の湖も濁る。庭の草木に虫がつけば、国のどこかで虫害が起こる。川が溢れれば洪水が起こる。ウィンデルノート大高原とは大地と魔術を撚り合わせて作られた呪術的な箱庭で、ハノーウィンというのは国土と人命の全ての存続と繁栄を担わされてきた一族なのだ。

 だからあの親子も、忍耐の限界まで庭に尽くし続けた。魔術的な強制力は土地と結ばれた管理者の外出を阻むだけで、手入れを拒否することはできるし、庭を枯らして国を荒廃させることだってできた。それでもエレゼアナ・ハーノウィンとジグスト・ハーノウィンは受け継いだ血を理由に、何千何万、ひょっとすると何億という国民の命の責任を負い続けたのだ。

 ユマには彼らと同じことができそうにない。単純に体力的な問題として無理があるし、無理を押してでも国を守らなければと思う義理もなければ気概もないのだ。ごく一般的な感性と道徳観を持つ人間として、一国の興亡が――他人の命や幸福が自分の行動にかかっているという事実に責任は感じる。それでも無理なものは無理だと投げ出してしまいたいのが本音なのだった。


「ここはファンタジーだし……わたしだって死んでるし……みんなで仲良く一緒に死のうぜ……」


 後ろ向きにぼやいてからごろんと寝返りを打ち、異様に高い天井を見上げる。庭どころか屋敷の手入れも絶望的だと、ユマはげんなりする。


「ていうかこんなの、明らかに国家の要地じゃん……国が直々に管理するか、できなくても管理する人員をさあ……適切に補充するくらいはするべきじゃん。なんであんな我慢の限界ブチ切れ親子を二人きりで放っておくんだよ……人身御供かよ。結局、本当に管理してくれるかもわかんない人間ひとり生贄にして逃げ出しちゃってさあ……完全に国の怠慢じゃん……滅ぶのもやむなしじゃん」


 ぶつぶつとぼやいていると状況の理不尽さを改めて感じてしまい、また涙が滲み出した。


「そうだよやむなしだよ……諸刃の剣の管理を怠ったこと、絶対に後悔させてやるからな。こっちは命綱握ってんだ。貴様らの国土を瞬く間に衰退させてやるからな。地形とか改造して、国を混乱に陥れてやるからな……」


 物騒なことを口にしているうちに、段々気持ちが大きくなっていく。ユマは握りこぶしでホールの床を叩きながら、過激な言葉を口走った。


「そうだ! 荒廃なんて手ぬるい! 川には毒を流し、森を焼き、菜園にはサンポールを撒いてやる! ぺんぺん草一本生えない更地にして、適当にでっち上げたご利益のない神に縋らせてやるから覚えておけ!」

「よくぞ言った、ポチ! それでこそ我が被造物だ!」


 独りでヒートアップしていたユマの叫びに、無駄に偉そうな賛同が返された。ぎょっとして身を起こすと、半端に開けたままの扉の向こうから薄汚い灰色の塊が近寄ってくるのが見えた。そしてなにやら、埃と腐臭の混ざった悪臭が漂ってくる。


「それ以上近寄らないでください! 保健所を呼びますよ!」


 鼻をつまんで声を張り上げたが、灰色の塊はまるで意に介さない。文化が違うせいでツッコミもない。ばん、と音を立てて扉を押し開け、謎の塊が人型をしていて虫食いがあるとわかるほどまでユマに顔を寄せてきた。


「よいかポチ。我々は憎っくきあのハーノウィンの末裔に地獄を見せてやらなければならないのだ。ともに悪逆非道の覇道を歩み、この国もろとも彼奴らを絶望のどん底に叩き落としてやろうではないか!」


 声高に拳を振るう、腐臭ふんぷんたる虫食いの灰色男。涙をぬぐい明瞭になった瞳に映るのは、どう見ても『ユマを作った』とのたまったあの高慢ゾンビである。しかしこの男は、偉そうに講釈を垂れて偉そうにマウントを取って偉そうに退場していったはずだ。それがなぜ、親子への憎しみをむき出しにしてユマの前に再び現れたのか。

 思いつくのは、あの時口にしていた『報酬』が男の望むものでなかった、ということくらいだ。


「騙されたのか」


 鼻と口をあわせて両手で覆ったままジト目を向ける。男は顔を歪めて激しく舌打ちをした。


「決して許さん。末代まで続く呪いをかけてやる。いや、末代など生まれることのないよう、子孫など望めぬ呪いをかけてやる」

「騙されたんだな……」


 憐れみと嘲笑を混ぜて言うと、男は唾を吐く勢いでさらにまくし立てた。残念ながらゾンビに唾液はないようで、代わりに口内に詰まっていたらしい土が飛び散った。ユマは悲鳴をあげてそれを避けた。


「あの女、墓地から出られぬ俺を見てなんと言ったと思う! 死霊縛りの結界がなぜ張れらるか知っていますか? だと! 死者の肉体は早々に朽ちて魂も霧散してゆきますから、その滅びに恐怖し、生者に害なす悪霊と化さしむことのないよう、あらかじめ結界で隔離しておくのですよ。だと! まるで違う! 死霊術は俺が完成させたものだし、死者を呼び戻す際に結界を張るのは、余分な魂がついてこないようにするためだ! 呼んだ魂だけが戻ってくるよう、相手に合わせた結界を張るのだ! 俺の術式ならば肉体も魂もそう簡単には朽ちん! それを勝手に改悪して、何が『知っていますか?』だ! 絶対に許さん! あの親子を殺して俺の完璧な術式で決して朽ちぬ死霊と成し、永遠に奴隷働きをさせてやる!」

「いや実際言ってることがだいぶ悪霊では……」


 律儀にそう突っ込んでやりながら、ユマは男の置かれた状況をぼんやりと把握した。

 この男はどうやら、ハーノウィン親子によって甦らされたらしい。生前は自身もそういった魔術を研究していたようで、おそらくはそれで『ユマを作る』ことができたのだろう。その『報酬』に何を求めたのか、それが果たされたのかどうかはわからないが、それとは別に、甦ったからには自由に第二の生を満喫しようと思っていたところ、死霊を閉じ込める結界のせいで墓地から出られないことに気づいて憤慨している。

 なんと傲慢な、というのがユマの正直な気持ちだ。一度死んだ身ならば、おとなしくもう一度死んでほしい。どうせ死者を蘇らせるくらいしか能がないのだし、そんなことをしても死者には生産性がないので、ただいたずらに人口密度が上がるだけで社会の役に立つとは思えない。


(いや、待て。それは今のわたしが心の底から求めていることなのでは……?)


 人手が増えれば、庭の管理が行き届く。それは別に、生きた人間でなくても構わないのだ。少なくとも、当面のところは。

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