第3話

「オェ、エ? オッ……?」


 聞き捨てならない言葉が耳に入り、ユマは伏せていた顔を上げた。混乱は少しも収まっていない。むしろどんどん酷くなっている。しかし、たった今投下された爆弾は一時的にほかの全ての疑問と悩みを吹き飛ばした。


「ふむ。確かにまあ、何もついてはいなかったな」


 濁った目が膝で隠された股ぐらに向けられて、ユマはいっそう体を縮こめた。


(この状況で気にしても仕方がないのかもしれんが、こいつらデリカシーがなさすぎないか。なんでわたしは全裸なんだ。なんで誰も気にしてくれないんだ。なんで全裸で見知らぬ女の夫にされそうになっているんだ。訳がわからん。恥ずかしい。こいつらを全員殺してわたしも死にたい)


 じわじわと涙が滲んできた目で異形の男を睨み付けると、ふんと鼻で笑って返された。


「ちょうどいい、貴様にも言っておこう。貴様はこの俺が、そこの女の夫とするために作り出した擬似生命、名前はポチだ。まあ哀れにも男の象徴は欠けてしまったが、特に不都合はないだろう」

「いや大ありだろ! 何言ってんだお前!」


 あまりにもあまりな言い様に、ユマは声を張り上げて抗議した。


「おい、俺は貴様の創造主だぞ。ご主人様に向かってなんだその口の利き方は」

「どこの世界に自分のことをご主人様と呼ばせる創造主がいるんだ! 第一、わたしはお前に作られていない! 健全な両親から生まれた一人の人間で、最初からわたしだし、女だし、ポチじゃなくて佐々木梢だ!」


 指折り数えて男の傲慢な言葉を訂正していき、最後に名前を名乗ってから――ユマはかちんと固まった。


 自分が何を言ったのか、うまく理解できない。ユマは生まれてこのかたずっと栗原ユマであるはずなのに、なぜ違う名前が口をつくのか、理由がわからない。


「貴様が己をどう認識していようと知ったことではないが」


 先程までの勢いを失って口を閉ざしたユマに、異形の男はただ冷ややかな目を向けている。


「現実に、貴様は俺が作り上げたのだ。異世界よりを召喚し、繋ぎ合わせ、人のかたちに整えた。まあ所詮肉塊は肉塊、使えぬ部分も多く、うまく人型にするために多少小ぶりになってはしまったが。こうして動いて喋っている以上、肉体の機能に異常はない。我が術式は大成功という訳だ」

「に、肉……」


 呆然としたまま震える声で口にすると、どこかで聞いた声が蘇る。「鮮度の良い死体だ」と。 


「本来ならばその肉塊に魂などなく、代わりに俺が適当な精霊をその体に縛り付けて代用とする予定であったが、まあ鮮度が良すぎて魂の破片もついてきてしまったのだろう。自分が死んだことにも気づかぬ、間抜けな魂が」


 半分は幸の薄い男女に向けた言葉だったのだろう。二人は気勢をそがれたように些かたじろいで見せた。

 ユマには反論ができなかった。信じたくはないし、俄かには信じられない。それでも、男の語る非現実的な前提と非人道的な言動を認めれば、ここで目を覚まして以来自分を悩ませ、混乱させていた事柄に説明がついてしまう。


(わたしは……死んだのか? 肉塊とか呼ばれるほどバラバラにされて? それで鮮度の良さを理由に死体を異世界に回収されて、リサイクルされた? そんなバカな……バカな話がある訳ないけど実際めちゃくちゃ小さくなってるし、こいつはゾンビだし……普通も常識もとっくにないじゃん……)


 正直なところ、ユマはもうほとんど、灰褐色の男の言葉を受け入れていた。受け入れられてしまうという事実がまた、自分がそれまでの人生や『普通』と切り離されたことを実感させて悲しかった。


「まあそういう訳だ。貴様はそこの女の婿として作られたのだ。あとは二人でよろしくやるといい」


 消沈したユマのことなど気遣うそぶりも見せず、男は言い捨ててどこかへ立ち去ろうとした。それを引き止めるだけの気力が、ユマにはない。けれどその場には、幸の薄い二人もまだいるのだった。


「お待ちください。わたくしは受け入れてはおりません」


 女は両腕を広げて部屋の入口に立ちふさがった。


「わたくしは子を成すために夫を望んだのです。そのために、今生では払いきれぬ対価を支払いました。このような……小人の女では困るのです」

「ならばどうする? この俺を伴侶に迎えるか? 生憎だが、お前のような生身の女に興味はない」

「わたくしだって、あなたのような死霊になど興味はありません! よしんばあったところで、子種も腐り果てた死体にはなんの価値もないでしょう!」

「ふん、モノと子種さえあれば誰でもよいと。ずいぶん淫蕩な女だ」

「ルイリィン殿、あなたには我々の呪いをお話ししたはずだ。そのように娘を侮辱することは、断じて許さぬ」

「ふむ、子を成すために夫がほしいと願うのと、イチモツのある男に鳴かされたいのと、何が違う?」

「全く違います! 子を成すのはわたくしの義務であり切望です! 過程に――行為そのものに求めるものは何もありません!」

「ならばそこの小人でなんら問題はないな」

「あるでしょう。ルイリィン殿、あなたは生前研究に溺れ、男女の仲どころか真っ当な人間関係も築いていなかったと伝記にありました。ならばご存知ないのかも知れませんが、子供とは、男女のまぐわいの果てにできるものなのです」

「知らぬはずがなかろうバカか貴様は」

「ならばなぜ、そこの小人がわたくしの夫になるなどと言えるのです!」

「そうだな、確かに夫ではない。だがこれは貴様の子にはなる」

「は?」


 なんでもないことのように放り投げられた言葉に、ユマも親子も、虚をつかれて同じ声をあげた。

 死体の男の言葉が事実ならば、ユマは肉塊から人型に組み上げられた。その行為をもって自身を父と名乗るのであればまだわかるが、女が母になる理由がない。女にも心当たりはないようで、しきりに瞬きを繰り返している。

 呆気にとられる三人を置いて、男は女の横をすり抜けて戸口に立った。


「エレゼアナ・ハーノウィン。俺は貴様に、心臓と魂の半分を寄越せと言ったな。それは俺が術を行使するために求めた報酬ではない。そんなものは求めずともいくらでも手に入る。それでも寄越せと言ったのは、そこの小人に練り込むためだ。貴様の魂とそのあたりの下級精霊を砕いて捏ね上げたものが、そこの小人の魂になるはずだった。それを間違いなく器に縛り付けるために、心臓の半分を肉体に埋めた」


 そこで男は言葉を切り、にいっと気味の悪い笑顔を浮かべた。


「試してみろ。貴様と貴様の父親が名前を捨てられるかどうか、資格の譲渡を行えるかどうか、魔術が使えるかどうか、庭から逃げられるかどうか。想定外の事態は確かにあった。だが貴様らの望みが『庭から逃げること』である以上、俺の仕事は成功だ。報酬はきっちりいただいていく。ではな」


 今度こそ男は、誰にも止められずに暗い部屋から立ち去っていく。歩く死体のいなくなった部屋は、途端に静かになり、そして若干、空気が良くなった。

 誰もが放心してその場に立ち尽くしていたが、しばらくして女が動いた。疲れたように足を引きずって歩き、ユマの前でひざまづくと、肩にかけていたショールをその体に纏わせる。反射的に頭を下げかけて、ユマはぞっと体を震わせた。女の顔はまるで石像でも相手にしているように無表情で、ただ身についた習性として義務的に体が動いただけであることが容易に察せられた。


「……わたくし、逃げるつもりなんて――押し付けるつもりなんて本当になかったのよ」


 ぽつりと、女がこぼした。それはユマに向けられた言葉ではなく、本当にただ抑えきれずに溢れてきただけのようで、女の目はどこも見ていない。


「ただ、わたくしたちには義務がある。ハーノウィンに生まれたものとして、逃れられない役割がある。そのために――この血を継承していくために、伴侶を求めた。けれど、そうね。慈しまれたいとも思っていたのかもしれない。ハーノウィンの孤独に寄り添い、支え、手を取り合って共に歩んでくれる者も、欲しかったのかもしれない」

「エレゼアナ、それは間違いでない。わたしもずっと、お前の母に支えられて役目に耐えてきたのだ」


 生気の抜けた顔で吐露する娘の肩を、父親が抱き寄せる。

 なんと美しい親子愛だ、とユマは頭の片隅で茶化す。だが、であるユマに向かって、その愛を披露するのはいただけない。どうにも厄介ごとの予感しかしない。

 はたして、女はじっとユマの目を見つめながら爆弾を落とした。


「わたくしには、あなたと共に庭を守っていくことはできない。あなたに対して、何の感情も湧かない。興味すらない。それに、あの男が言った継承が正しくなされたのかどうかは、あなたを置き去りにすることでしか証明できない」

「ま、待て。ちょっと大半何を言っているか分からないんだが、置き去りという単語はよくない。どう考えてもよくない」


 慌てて縋り付いたが、予想外に強い力で振り払われて、ユマは背中から床に転がった。


「これ以上、何も説明するつもりはないわ。知れば知るほど、わたくしを恨むだけでしょうから」

「恨まれるようなことをするつもりなのはよくわかった!」

「大丈夫だ。この庭にいる限り、危険はないし、死にはしないし、どうとでもなる」

「よかないわ! そんな生きてさえいいりゃそれでいいなんて崖っぷちの人生は送りたくないんですよ!」


 女は明言できないが恨みを買う自信だけはある剣呑な事情を元にユマを置き去りにするつもりで、男も娘さえよければ他人の犠牲などどうでもいいらしい。ユマは冷や汗がだらだらと背筋を伝うのを感じた。


「せ、せめてここがどこなのか教えてくれ」


 感情のない顔で自分を見下ろす二人に懇願すると、父親が軽く首を振って答えた。


「ここはハーノウィン大公領ウィンデルノート大高原だ。我が領には民はおらず、ただハーノウィンの者だけが住まう土地であるがゆえ、庭とも呼ばれる」

「庭……」


 与えられたものは求めた答えではなかった。地名だけを知ったところで、どこのことやら全くわからない。異世界から召喚したなどと宣うくせに敢えてそれしか言わないあたり、やはりこの男もユマに何かを教える気はないようだった。


「それで君は、ササキコズエと言ったかな?」

「いいえわたしはスカーレットヨハンソンです」


 ユマはしれっと即答する。親身になるふりをして実際のところなんの助けをする気もない男には、娘以上に警戒するべきだと思えた。だいたい、この状況で一度口にしただけの名前をしっかり覚えているのはいかにも怪しい。

 ふむ、と顎を撫でて思案する様子から、男が疑っていることは明らかだ。男の目的がなんなのかを探ろうと、ユマは次の言葉を待った。なにがなんでもこの親子を引き止め、少しの間でも面倒を見てもらわなければいけない。与えられた情報と現実を信じるならば、ユマは見た目も頭脳も幼児同然なのだ。

 だが、父親とユマの腹の探り合いは、娘の一言であっけなく終わってしまった。


「肉塊は五人分あったのです。魂も複数あったとして、何も不思議はありません。思い当たるだけ試せば良いのですわ」

「え、ちょ、嘘」


 忘れていた疑問に唐突に答えを投げつけられて、ユマは頭が真っ白になった。『普通』ならば到底信じられないことだが、女の突拍子も無い仮説はユマの身に実際に起こったことを正しく説明している。召喚されたと肉塊というものがのだ。ユマが断片的に思い出していた記憶――大学生と、小学生と、高校生と、老人と、絵本作家。その全て正しかったとすれば、女の言葉はすんなり理解できるのだ。

 誰かが佐々木梢で、誰かが栗原ユマだった。


(それとも、全部が混ざって栗原ユマになったのか? わかんない……わかんないけど本当に誰かがスカーレットヨハンソンだった可能性も否定しきれないということだけは希望に感じる……)


 虚ろな気持ちでそんな馬鹿馬鹿しいことを考える。気持ちに余裕があるわけではない。突きつけられた『事実』を疑いたい気持ちがないわけでもない。けれどこれは、真面目に向き合おうとすればするほど深みにはまっていく問題だ。ユマの事情を余さず理解しているはずの親子に、必要な情報も得られぬまま置き去りにされそうになっている今、そんな問題に拘っているわけにはいかなかった。

 一刻も早く立ち直るために必死で現実から目を背けたのだが、ユマの立ち直りよりも親子の行動の方が早かった。娘がユマの右手を取り、どこかから取り外したブローチの針先を指先に刺し、ぷくりと滲み出た血の玉を自身の胸元のペンダントに当てる。


「血の楔によりライデア・ハーノウィンの御代より継がれしウィンデルノートの契約を新たな血族ササキコズエが継承する」


 あっけない言葉だった。それだけで終わってしまった。

 不思議な呪文でも魔法でもない、ただの言葉だった。それでも、ユマは自分が庭に繋がれてしまったことがわかった。

 『庭』がどのような地形で、どこにどのような植物が生えていて、どのような生物が住み着いていて、何が不要で何が必要かが手に取るようにわかる。とんでもない重荷が、一瞬にして課せられていた。


「お、お前ら……許さんぞ」


 恭しげにペンダントを首にかける細い手を払いのけ、弱々しく恨み言を吐き出したが、もはや親子には届くものではなかった。彼らもまたユマと同じものを、はるかに長い間背負っていたのだ。その顔にあるのは、重責から解放された歓喜だけだった。


「おお、ついに、エレゼアナ! ついに解放されるのだな!」

「お父様! これでわたくし、どこへでも行けますわ! 誰にだって会えますわ! 素敵な方に巡り合って、恋をして、気持ちを伝えることもできるのですね!」

「そうだとも。もう庭を理由に敬遠されることなどなくなるのだよ!」


 抱き合って喜ぶ親子は、ユマのことなど眼中になかった。ひとしきり歓声をあげ、ほんの少し冷静さを取り戻してエレゼアナ・ハーノウィンとジグスト・ハーノウィンの血の契約の破棄と廃絶などというものを唱えると、あっという間にその場から立ち去ってしまった。

 庭に繋がれてしまったユマには、自分がいる場所が領主の館の北にある墓地の地下祭祀場であることも、五頭の馬が飼育されている牧場がそこから近いことも、二人が屋敷にも戻らずそれぞれ馬を選んで南へ駆け去っていくことも、その場を見ているように知ることができた。

 わかったところで、できることなど何もない。この契約は庭を健やかに保つためのものであり、庭を支配し魔術的な力で大地や植物を動かすといった、おとぎ話のような力が与えられるものではないからだ。そしてユマは、死体を継ぎ合わせて作られた『小人』にすぎない。全力で走って追い縋ったところで、追いつける見込みもない。この体格で乗れる馬もいない。


「くそ、くそ、くそ……なんだよもう……本当に異世界じゃん……魔術じゃん……ファンタジーじゃん……わたし死んでるじゃん……くそすぎじゃん……」


 泣き言を口にしながら、よろよろと祭祀場の出口に向かう。吐き出し続けていないと、行き場をなくした感情が破裂して、もう立てなくなってしまいそうだった。

 ぶつぶつと呟きながら磨り減った石の階段を一段ずつ登り、礼拝堂に出る。砂埃の匂いがする礼拝堂の中央には、三日月を象ったレリーフが飾られている。その左右に曇った赤銅の燭台が置かれているが、それだけだ。儀礼の場としてずいぶん簡素だと思ったが、それが仕方のないことだというのもわかってしまう。庭に繋がれた瞬間にユマが把握した人間の存在は、あの親子だけだった。他の親族も見当たらなかった。おそらくこの土地を親子二人で管理していたのだ。単純な広さとしては、およそ五十ヘクタール。東京ディズニーランド並みの広さ、東京ドームなら十一個分だ。そこをたった二人で、庭の要求に応えて毎日せっせと管理する。途方も無い話だ。手入れどころか、礼拝堂など利用する暇さえなかっただろう。

 そんなことを考えると、微かな同情の芽が頭をもたげかけたが、すぐに怒りの炎で燃やし尽くした。彼らは二人だった。そして一般的な成人の体格をしていた。しかしユマはたった一人で、身長は推定百センチ。おまけに彼らには祖先から一族に伝わる呪縛という、矜持と諦めがあったがユマにはそんなものはない。ただ巻き込まれて押し付けられただけだ。状況は彼らよりよほど悪い。


「絶対復讐してやる……破滅の底に突き落としてやる……絶対に……絶対に許さねえ」


 殺意を込めた言葉を呟きながら領主館へ向かう。ともかくそこには食料があるし、風呂があるし、ベッドがある。今後のことはいずれ考えるとして、今はただ休みたかった。

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