第2話
沈んだ意識がようやく浮き上がった時、それははっきりとひとつの形に整っていた。闇の底で冷やし固められたように、栗原ユマという人間の輪郭にきちんと収まっている。もちろん肉体の輪郭も同じく明確で、皮膚が温度や湿度や風や――周囲のけはいを捉えるのを感じる。
「息を……しています」
当然、聴力にも問題がない。
「だから言っただろう。俺の理論に過ちの在ろうはずがないと。まあ些か小ぶりにはなったが仕方があるまい。生きているだけで上等であるし俺にも貴様にも十分な成果だ」
しかし、聞こえてくる内容には問題があるように思えた。あるいは、意識も肉体もまだ安定していないのかもしれない。聞こえた内容を正しく理解できないか、聞こえる音を正しく認識できないのかもしれない。
(別にわたしのことを話題にしているとも限らんし……)
自分に言い聞かせるように胸の内で呟いて、ゆっくりと瞼を押し上げていく。
「さて、あとはこれに適当な魂を吹き込むだけだが、魂を縛るのには名前も必要だ。さしあたってはポリフィガルキウス、略称でポチとしよう」
「そうはならないだろ!」
悠長な気持ちが吹き飛んで、ユマはかっと目を開いて跳ね起きた。
どうにも不穏な単語がちらほらと混ざったやりとりは、十中八九ユマのことを話題にしていた。そうでなければ、会話に参加できない状態の人間の傍らでわざわざ話す必要がない。ならばユマは、でたらめとしか思えない文字列がポチに収斂されたことにも、その名前が自分に与えられようとしていることにも抗議しなければならない。
見開いた目の先にいたのは、伸び放題の髪で顔を半分覆われた薄気味の悪い男で、予想に違わず、その灰褐色の手はユマを指していた。
ほらみろ、と思うまもなく、ユマは情けない声をあげて上体をのけぞらせた。灰褐色の手。よく見れば半ば隠れた顔も同様にくすんだ色で、おまけにどうも虫食いがある気がする。
「な、なんだお前!」
「それはこちらの台詞だ! なんだ貴様は!」
「いや絶対にお前の台詞ではないじゃん! なんだその体! ゾンビかよ!」
裏返った声で叫ぶユマに負けず劣らず、灰褐色の男の顔も驚愕に染まっていた。そんな顔をされる筋合いはないはずなので、未知との遭遇に怯えながらもふつふつと怒りが湧き上がる。
ユマはこうして目を覚ます前、駅にいたことを覚えている。暑く、うるさく、人にまみれた拠点駅。ユマはそこで、人波に押されて学校の最寄りの一つ前でホームに押し出され、寝坊してしゃにむに駆け込んだホームで定期入れを落とし、携帯端末で今日のニュースをチェックし、若い女性に譲られて時刻表の横のベンチに腰を下ろし、自分と同じ学校の制服が半袖ばかりなのを見て何食わぬ顔で長袖のシャツの袖をまくって――電車を待っていた。
その後の記憶は一切ないので、何かがあって意識を失ったのだろう。
そうして意識をなくしたユマを、明らかに駅ではない場所に寝かせて、おかしな名前をつけようとした。どう考えても男がこの状況を作ったのに違いないのに、白々しく驚いた顔をするのが腹立たしい。
しかし、怒りを込めて男を睨みながら気がつく。つまりこの男は人攫いなのだ。ユマはさっと血の気が引いていくのを感じて恐る恐る立ち上がり、そうっと後ずさった。男は随分と大柄なようで、かがみこむような猫背のくせにユマと頭二つ分ほど身長が違う。その体格差にいっそう警戒を強めて睨め付ける目に力を込め、ゆっくりと右足を半歩下げる。次に左足を下げようとしたところで、警戒も虚しく、男の腕が伸ばされてユマの腕を掴んだ。灰褐色の不気味さに似合わない俊敏さだったが、その感触は色のイメージ通りに硬く冷たく、触れられたところからぞっと悪寒が広がった。
「ひえ……は、離してくださいこの犯罪者!」
「誰が離すか。そのまま下がれば貴様は石畳に頭を打ち付けて最悪死ぬぞ。用があって作ったというのに、勝手に死なれては困るのだ」
拘束から逃れようと小刻みに腕を振っていたユマは、男を睨みながら素早く背後を一瞥し、視線を前に戻してからようやく状況を理解してもう一度後ろを見た。ユマが立っている場所は何かの台のふちだった。確かに、何も知らずに足を踏み外せば、受け身を取る間もなく頭を打ち付けているところだ。
理解した瞬間に恐怖と安堵が押し寄せて、全身から力が抜ける。男はその隙を見逃さずその体を引き寄せると、思案するそぶりを見せてから両脇の下に手を入れて持ち上げ、床に降ろした。
木の枝で挟まれてでもいるような硬質さに身を竦ませながらも、存外善人のようだと思ってしまい、すぐにその考えを打ち消した。男の発言を振り返って見れば、何かしら利己的な考えに基づいた行動でしかない。
ユマは地面に足がつくやいなや素早く男から離れ、そこでようやく講義の声をあげた。
「なんなんですかあなた。人のことをポチとか、作ったとか、死なれては困るとか、わけのわからない、偉そうなこと、ばっか、言って……」
だが、威勢のよかった声は、かがみこんでいた男が体を起こすにつれて尻すぼみになり、しまいには消えてしまった。文句も十分に言えないまま、ユマはぽかんと間抜け面で男を見上げた。
台から降ろされたユマの目線は、男の腰よりも低かったのだ。
(な、なんだこいつ……遠近法が働いてないぞ)
動揺を鎮めるためにそんなことを考えたが、もちろん本気ではない。ゆっくりと数度、呼吸をするうちに冷静になって、ユマは現実を受け止めた。
規格外に体格のいい人間というのは、遭遇することは稀とはいえ、探せば案外どこにでもいる。ユマの身長と比較すれば男は二メートルを優に越していることになるが、人類の最高身長は二百七十二センチだ。何も問題はない。
(でも人間の体が一般的な規格の範疇から飛び抜けるのは脳下垂体に異常があるからだと、歴史も言っているし柴田亜美も言っていた。こいつはきっと長生きできまい……いやちょっと待て。そもそもこいつは生きているのかというのが最初の問題じゃなかったか?)
ユマはほんの数分前の自分の言葉を反芻して、反射的にもう一歩後ろに下がってから男の顔を凝視した。見上げた顔は大部分が影になっているが、瞳は濁って虹彩のふちがぼやけており、額と左目の下にいくつか、虫に食われたような丸い穴がある。皮膚は妙につるりとしているように見えるが所々にひび割れもある。ホラーだろうか。ホラーである。
(やっぱ死んでるわこいつ)
そう結論づけてすっと目線を横にそらした。必然的に目に入るのは、男の背後にある石積みの壁。日常生活を送る上でなかなかお目にかかれない建材だ。それがなぜだか不安を掻き立てて落ち着かず、結局ユマは視線を男に戻した。ただし顔は上げずに、色褪せ、湿った土にまみれ、糸がほつれ、所々腐って溶けているような、ひどい状態の貫頭衣を見つめるに留めた。最悪、目さえ合わせなければ大丈夫だとホラー界の先達たちが証明しているからだ。全てフィクションだというのは些細な問題だ。
この男が、特段おそれる必要のない存在――例えば、特殊メイクか何かで怪異に扮した誘拐犯の人間だという可能性は、ユマは一切信じていなかった。むき出しの右腕に、直に触れられた肌の感触が残っているのだ。あれを知っていながら人間であることを期待するのは無理がある。それでももし本当に人間であるとすれば別の意味でおそろしく、なんの慰めにもならない。
(え〜、は〜、死んでるじゃんこいつ。やばいじゃんキモッ。なんで動いてんの? ゾンビ? いやまあ多分ゾンビだけど……現実? ゾンビって本当にいるもん? ファンタジーがすぎない? ひょっとするとここは、ナサが闇に葬り続けムーが暴こうとし続けてきた、世界のアンダーグラウンドなのでは? 国営放送だって否定の姿勢で超常ファイル放送してんのに、それも隠蔽工作の一端だったのか? マ? 素直に受信料払ってんのにそういうことすんの? 真実を教えてくれるのはネトフリだけなのか?)
パニック状態の頭でろくでもないことを考えながら、じりじりと後ずさる。男は特に何をいうでもなく、するでもなかった。ただじっと、ユマの挙動を観察している。ような気がした。必死で目をそらし続けているので、男がその場から動いていないことしかわからなかった。
やがて下がれるだけ下がりきってしまい、背中が冷たい壁に当たった。動揺が激しく、ただ惰性で後退を続けていただけのユマには、それからどうすればいいのか全く思いつかない。逃げるべきだし、逃げたいと思ってはいる。だが、巨躯の異形からどうすれば逃げられるのかがわからない。
そうして立ち竦んだままどれほどの時間が経ったのか、ふいに視界の端に違和感を覚えてユマは二、三度瞬きをした。何か、動くものがあった気がする。男が急に動き出すことを警戒して、そちらを意識したままそうっと違和感のあった方に目を動かすと、途端に脳の顔認証が働いた。
「壁に顔が!」
「壁とはなんです失礼な!」
壁ではなかった。よくよく見れば、幸の薄そうな青白い顔の下に薄暗い部屋に溶け込むような暗いドレスの輪郭が見える。さらにその後ろにもう一人、幸も髪も薄そうな、顔色の悪い壮年の男も立っていた。
「い、いるなら最初から存在を主張しろよ! ホラーかよ! そういうのは死霊系のホラーの演出であってゾンビには求められてないんだ! ジャンルをわきまえろ!」
「ルイリィン殿……なにやら訳のわからないことを言っているが、これは本当に成功なのか?」
ユマの叫びは黙殺され、壮年の男が怪異に向かって慎重に問う。声にはかすかに非難の音が込められているようだった。
「そうですわ」
女の涙声がその非難に同意を示す。
「それはあなた様の儀式が完遂される前に動き出しました。やはり失敗したのではありませんか?」
それ、と言いながら示されたのは、当然ながらユマである。誰もかれもが失礼極まりない暴言を口にしているが、不穏な情報の断片がまた増えて、思考が一時停止した。
成功、失敗、儀式、灰褐色の虫食いゾンビ、石造りの部屋、生きているだけで上等、魂を吹き込む、ポチ、小ぶり。
ぐるぐると脳裏を巡る言葉たちに不安がどんどん大きくなる。これまでも薄々と不穏な雰囲気を感じていたものの、情報量が多すぎて処理を後回しにしていた。しかしさすがに無視を続けることが難しくなりで、ユマは恐る恐る、さかんに文句を言い始めた二人の姿を確認した。壮年の男は異形の男より肩の位置が高く、その肩の位置に女の顎先が重なっている。
めまいを覚えて自分の足元に視線を落とし、ぎょっと目を見張る。床が、あまりにも近い。そして、むき出しの腹、太もも、足先。混乱しながらも、反射的に裸身を人目から隠そうとしゃがみこむ。一瞬で体が縮まる。おかしい。おかしくない。縮める長さが、最初からほとんどなかったというだけのことだ。
(……大きいんじゃなくて、小さいのか)
彼らではなく、自分が。だが、その理由がわからない。ユマは確かに普通の女子大生で――いや名門と呼ばれる私立校に通う男子小学生で――三日前に彼女に振られたばかりの男子高校生で――茶陶鑑賞が趣味の年金受給者で――専業で生計を立てられる程度に名前の売れた絵本作家で――
(い、いや、なんだそれは。一度きりの人生ちょっと欲張りすぎだろう。とにかくわたしは普通の女子大生で平均的な百七十ちょっとの身長で普通に職場に行こうとしていて、普通に……普通に……)
考えれば考えるほど、ユマには自分のことがわからなくなる。まるでいくつもの人生を経験してきたかのように、自分の来歴が定まらない。
膝を抱えたまま呆然としているユマをよそに、幸の薄そうな男女は灰褐色の死体に向かって控えめに抗議を重ねていた。「これから自分たちはどうすればよいのか」と。
異形の男はそのほとんどと聞き流し、せせら笑って顎をしゃくった。
「目の前に答えがあるだろう。儀式は成功だ」
「しかしあなたとて、随分と取り乱していたではないか」
「まあ、想定外の事態であることは否定しないが、こうして生きて動いている以上我々のどちらが求める結果からも遠くはないだろう。つまり、成功だ」
「……仮に儀式が成功であったとしても、これほど小さくては話になるまい」
不満をあらわに食い下がる壮年の男に、女が言葉を続ける。
「そもそもを論じるならば、その者は女ではないですか。それでどうして、わたくしの夫になどなるのです!」
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