痕を残す
「いらっしゃいませ」
抑揚のない声で、入って左手の勘定台に腰かけた店主が、パソコンのモニターから目を離さずに言った。
店内には、天井からびっしりと植物がぶら下がっていて、生ぬるく湿った空気がサーキュレーターでかき回されている。ぬるい風は沼のような匂いがした。ブーン、と駆動音が鳴っている。店のど真ん中に大きな水槽が据えられていて、どうやら音はそこから鳴っているらしかった。ざわざわ、がさがさと囁きあうような音が部屋のどこからか聞こえてくる。視線をぐるりと回して、また勘定台の店主に戻ってくる。気圧されて突っ立っていると、「閉めてもらえますか」と、店主がまたぶっきらぼうに言った。
「ああ、すみません」
慌てて扉を閉める。モニターや、勘定台に積み上がる本や紙類の隙間から、恰幅の良い店主の姿が見えた。もたもたと店内に入って、ぶら下がる植物をかき分けながら勘定台の前に立った。
「あの、」
「はい」
「く、蜘蛛の餌はありますでしょうか」
「はい、ありますが」
店主は、まだモニターから目を離さない。
「すみません、まったく初心者で、どういう大きさのものをどんなふうにやればいいのか、全く分からないので教えていただきたいのですが」
意を決して、一気に言う。想像していたより大きな声が出た。店主はそこで初めてちらりと顔を上げた。大きな体に見合わぬ小さな眼鏡に、壁じゅうに置かれた水槽の中の赤いライトを反射して、赤く光った。ふいにガサガサッと水槽の一つから音がする。驚いて見遣ると、壁際の水槽で大きなトカゲが二匹、赤い光に照らされて追いかけっこをしている。
「普通に、コオロギで十分と思いますよ。蜘蛛の大きさはどのくらいですか」
「大きいです、かなり」
そこは自信を持って答えた。「柴犬くらいあります」そう継ぐと、店主はフッと笑った。
「おもろいな」
そしてむくり、と背筋を伸ばしてこちらを向くと、勘定台をトントンと指で叩いた。
「成体に近いくらい大きいなら、Lサイズでええと思いますが。下にサイズ別で並べてますんで、見合う大きさのを適当に選んでください」
指さす先を見れば、確かにプラスチックの衣装ケースが並んでいる。のぞき込んで、一瞬のけぞった。どこからか聞こえるざわざわという音は、これらのひしめく音だったのか。絶えず動き回る薄茶色のコオロギが、衣装ケースの中に積まれた緩衝材を登ったり下りたり跳んだり鳴いたり、していた。こんなにたくさんの虫を初めて見た。衣装ケースの隙間からは、湿った紙の匂いがした。なんとなく、地下鉄を思い出すような埃っぽい匂い。
「えっと……。じゃあ、これを十匹……」
「はい」
多いとか、少ないとか言って欲しかったが、店主はまたぶっきらぼうに頷いて、紙袋にコオロギを十匹きっかり詰めて、紙袋の口にテープを貼った。
「あの、ちょっと聞きたいんですが」
「はい」
「最近、うちで飼ってる蜘蛛の調子が良くなさそうで。どうも、水も餌もとっていない様子ないんです。どうしたらいいんでしょうか」
千円札を勘定台のお皿に乗せながらそう聞いてみると、店主は首にかけているタオルで顔を拭った。
「最後に食べたのはいつですか」
「ええと、確か三週間ほど前だと思います」
「そのくらいだったら、拒食することはあります。水も、ちゃんと用意しているんであれば飲みたければ飲むはずなので、心配いらないと思いますが」
「そうですか……」
それか、とまた店主は顔を拭う。暑いのなら窓を開ければいいのに。
「糸をたくさん出している様子があれば、近々脱皮するのんかも知れません。脱皮前なら、餌は入れないほうがええです。万が一、脱皮直後のやわらかいところを齧られたらおおごとなんで」
「脱皮ですか」
「飼ってからどのくらい経ちますか。まだ脱皮したことないですか」
「ええと、飼い始めて二か月くらいになります」
「なるほどなあ。もし脱皮なら、ケージのなかに糸を敷き詰めて、モルティングベッド……シーツみたいなのをこしらえるはずですんで。そこでひっくり返って脱皮します」
「ひっくり返って」私は思わず復唱した。どういうことなのか、うまく想像できなかった。だが何となくコミカルな響きに、ほんの少しわくわくした。
「はい。まあ、調べてください。ちなみに、シユウはわかりますか」
「シユウ?」今度は明確に、聞き返す意図で繰り返す。シユウって、何ですか。
「雌雄。オスかメスかどっちですか」
「ああ、雌雄」私は少しだけ考えた。あの蜘蛛の性別など考えたことはなかったが、たぶん、「オスです」オスだろう。店主は、勘定台に置かれた千円札を金庫に仕舞って、代わりに袋からおつりを取り出す。
「オスで、もうだいぶ大きいなら、次の脱皮は最終脱皮かもしれません」
そして勘定台のお皿にそれを並べながら言った。
「最終脱皮?」
「オスの性成熟にいたる脱皮を最終脱皮と言うんです。最終脱皮は失敗しやすいから、脱皮前は極力刺激しないように」
まあ詳しくは調べといてください、と店主は再び言って、勘定台に置いた小さな紙袋を差し出した。
「脱皮、失敗したらどうなるんでしょうか」
私は、殆ど青ざめていたと思う。コツコツ音がする。亀が、その意外にも鋭い爪で水槽に浮かべられた浮島を突いては、ガラスにぶつけている音だった。
「だいたいは死にますね。最終脱皮のときは、生殖器……触肢の先っぽがひっかっかってうまく脱げないことがあるので。そうなったら——」
そうなったら、最悪、脚を千切って、血が固まるくらい片栗粉をぶっかけて、あとはもうお祈りやなあ。
帰り、私は最寄りのスーパーで青ざめたまま片栗粉を三袋まとめ買いした。かすかにざわつく小さな紙袋をバッグに収めて、見慣れた帰り道をとぼとぼと歩いた。
脱皮前は餌をやるな、刺激をするなと言われた。この十匹のコオロギをどうしたらいいのだろう。片栗粉と一緒に、昆虫ゼリーを買う。パッケージに描かれた、ハイになったようなカブトムシが、買い物かごの中からうつろに見上げてくる。バッグの中で、リンリンとコオロギが鳴いている。ふいに腕の掻き壊したあたりが烈しく痛んだ。搔きむしりたい衝動に駆られて、立ち止まる。
「それ、」
蜘蛛屋からの帰り際、店主は私の手のあたりを指さした。
「蜘蛛の毛を浴びましたか」
七分丈のジャケットの袖口から、掻き壊したみみず腫れが汚らしく覗いていた。女の人は、刺激毛、気をつけないけませんよ。痕が残るから。店主はそう言って、おそらく彼なりの愛想笑いのようなものを浮かべた。
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