虫を買う




 午後、今日最後の打ち合わせ後、「境井さん、大丈夫?」と、課長に言われてハッとする。


「らしくないよお」

 社内の会議で、かなりやりあった直後だった。間違ったことを言ったつもりはなかった。けれど、言い過ぎた——、と思った瞬間がなかったわけではなかった。企画部隊の後輩が、最後には涙目になっていた。


「すみません」


 体がずっしりと重たい。


「境井さんくらいの年次になると、いよいよ上から下から期待されて、好き勝手言われて、しんどいからねえ。ストレス溜まるのはね、仕方ないよ。思いつめるのは良くないから相談しなさいよ」


 課長は困ったような顔で笑って、電子タバコのケースを手に取ると席を立って出て行った。


 あんたに何が分かる。無心にキーボードを叩く私の指先からは、汚泥が滴っている。あんたみたいに、安全地帯から無神経に人のことをじろじろ見るばっかりの人に、私の苦しみが分かってたまるか。私のことを救ってくれるのは、汚泥も愛着も全部まとめて啜ってくれる蜘蛛だけだ。蜘蛛がもとに戻ってくれさえすれば、私もすぐにまた善人に戻れる。それなのになんで、そんな簡単なことが思い通りにいかないのだろう。私はしおりちゃんみたいに、あれもこれもは望んでいない。しおりちゃんよりずっとつつましい。それなのに、なぜ私はたった一つの望みさえ思い通りにならないのだろう。何かを差し出さないと何かを得られないのだとしたら、私にはもう差し出せるものなんてない。それがいけなかったんだろうか。ヒロキを喪ったのは、私が、代わりに何も差し出さない分際で、ヒロキとの精算を渇望していたからだろうか。じゃあこの先、空っぽの私は、何も差し出すものを持たないまま、何も手に入れられないまま。


「ああ、そうそう」


 タバコ休憩から戻ってきた課長が、思い出したみたいに言った。


「境井さんのとこ、犬の調子悪いって言ってたじゃない? そういえばうち最近ドッグフード変えたのよ。そしたら食欲も上がってさ。この銘柄なんだけどさ……」


 差し出される携帯電話の画面を、興味を持った演技をしながらのぞき込む。犬じゃないって、言っただろ。一瞬いらっとしたが、ふと思いいたった。

 もしかして、普通の蜘蛛が食べてるようなものなら、食べたりしないだろうか。


 通勤電車のつり革にぶら下がりながら、「大きい蜘蛛 餌」で検索してみる。バッタやコオロギやゴキブリといった虫がずらりと画像欄に並んで、私は慌ててブラウザを閉じた。そんなものどうやって調達すればいいのよ。気を取り直して今度は、「蜘蛛 餌 売っている店」と検索してみる。


「へえ、けっこうあるんだ」


 思わずひとり呟いてしまって、前の座席に座る若い男がちらりを私を見上げる。慌てて咳払いをして誤魔化した。ちょうど、職場の最寄り駅から普段使わない路線で四駅ほどのところにも専門店があるらしい。少し考えて、社用携帯のスケジュールアプリを開く。——急ぎの予定や重たい予定はない。明日は早く切り上げて帰れそうだ。突発的な誘いを防ぐために、十八時~十九時に【その他】と入力した。


 その日一日は、蜘蛛に関するTODOがあると思うと、すこぶる調子が良かった。昨日やりあった後輩に、電話で謝る余裕すらあった。そつなくこなして、十八時十五分には席を立つ。


「お先です」


「あ、お疲れさまでえす」「お疲れ」「お疲れ様です」


 同僚たちは殆ど顔を上げることなく、ほとんど反射でそう応じた。社員証をぶらぶらさせながらエレベーターに乗り、速足で駅に向かう。いつもの癖で地下鉄に乗ろうとして、はたと引き返す。今日はいつもとは違う路線に乗らなければならいのだった。地下深くの空洞を行き来する弾丸に乗り込んで、私は扉にもたれかかった。


 蜘蛛のことを考えている間は、自分が空っぽだってことを悔やまずに済む。それがとても心地よかった。


 ……ちゃんとした餌を買ってくれば、食べてくれるかもしれない。でもちゃんとした餌って、コオロギよね。ゴキブリはこのお店には置いていないみたいだし。まあ、ゴキブリよりはましだけれど、つまり蜘蛛を飼うためにコオロギを飼わないといけないってこと? そういえばコオロギって何を食べるの? 蜘蛛に食べさせるコオロギに食べさせるものを用意しなきゃいけないってことよねえ、生き物を飼うって、難儀ねえ。……


 見渡せば、そこそこ混雑した車内には、くたびれきって眠りこける女や男、しゃんと立つ老婦人、携帯電話を横向きにして熱心に画面を見つめる学生風の若い子、みなそれぞれが一人ずつ、一人分の空間を守って静まり返っている。目的の駅の一つ前で、赤ん坊を抱える若い女性が乗り込んでくる。車内の目が一瞬、母親の腕の間に収まる赤ん坊の丸い背中に注がれる。ひいひいと赤ん坊がぐずり始める。寝こけていたサラリーマンが目を覚ます。あんなスライムみたいなねばねばしたものが、こんなにすべすべ・パン・と張ったお饅頭みたいな赤ん坊に変わるなんて、不思議だ。私はそんなことを考える。まあ、ねばねばしたスライムはただの私の、あてつけがましい空想なのだけれど。


 轟音で地下を滑る列車は、間もなく目的の駅に到着した。初めて降りる駅である。六番出口を目指して、ほこりっぽい地下通路を行ったり来たり、ようやく目当ての階段を見つけて、私は一気に駆け上った。六番出口を出てすぐ右手に曲がり、北に向かってまっすぐ七、八分。迷いようのない道である。だが、目的地と思しきビルに到着して私は困惑した。


「……本当にここ?」


 ビル名はマップに記載されている通りだが、特段看板やサインはない。露店の八百屋があるのみである。何度か通り過ぎて、ビルの裏側に回ろうとしてみたり、困り果ててうろうろしていたら八百屋の店主と思しき中年の男性が訝しげに「もしかしてさア」と、声を掛けてきた。


「お姉さん、蜘蛛買いにきたの?」


「蜘蛛? ……ええ、まあ……」


「蜘蛛屋は上だよ。そこの扉開けたらすぐ階段あるから、上がって右手」


 このあたりで行ったり来たりしている人間は珍しくないのだろう、八百屋は慣れた様子でてきぱきとビルの鉄扉を指さした。


 礼を言って、テナントの入り口には思えない粗末な鉄扉を押し開けると、なるほど、切れそうな電球がちらつく薄暗い階段が現れる。入口左手にある郵便受けには、八百屋の言った通り二階の欄に目当ての店名が申し訳程度にテプラで貼り付けてあった。古びた学校みたいなリノリウムの階段を、恐る恐る登る。狭い通路の二階右側に、郵便受けと同じ、小さなテプラで店名が掲げてあった。


「……ごめんください……」


 カランカラン、と扉に取り付けられた鈴が鳴る。

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