空洞
お疲れ様です。お疲れさまでえす。
トイレで鏡を眺めながらぼんやりしていたら、後ろから声を掛けられ、はっと覚醒した。打ち合わせ後、チームの皆で食べに行ったランチの量が多くて、お腹いっぱいになったせいかひどく眠たい。
「——ああ、お疲れ様」
慌てて返して、流しっぱなしにしていた水を止めた。ちらりと横目で確認する。顔は見たことがあるような気がするが、名前は知らない。二年目、三年目くらいの子たちだろうか。二人揃って挨拶をしてきた彼女たちは、手洗い場の隅に化粧ポーチを置くと、私には構わずお喋りに興じ始めた。私は私で、のろのろと化粧直しを再開する。プレストパウダーを片手に取ったきり、そのままぼんやりしていたらしい。
「てかさあ、あの人また産休だって」「マジ? 復帰は?」「延期! 育休から間あけずに産休だそうですー」「すっごい。強心臓」「おかげで先輩たちの機嫌サイアクだし。ピリピリしてるわ」彼女たちは、眉を顰めつつときに唇を歪ませつつ、無邪気にしゃべり続ける。片方の子がしゅっと髪の毛にスプレーを吹きかけ、鏡の前にヘアコロンの香りが舞った。なるほど、同期の部署の子たちか。雲行きが怪しくなって、私はせかせかとパフを顔に滑らせた。きっとこの子たちは、私にわざと聞かせるように、喋っている。このくらいの年次にありがちな、万能感というか、怖いものなしな振舞いに、数年前の自分の姿を見せられているような恥ずかしさを覚えた。きっと彼女も、五年後、若い子たちのこんな振舞いを見ては思い出して赤面するのだろう。
「しおりも産休でしょ」
不意に、片方の女の子が言った。パチン、と私がコンパクトを閉じるのとほとんど同時だった。思わず、口紅を探しにポーチへ差し入れた指が止まる。指先のすぐそこに、口紅はあるのに。
「びっくりだよね、でき婚だったって聞いてた?」
「ううん。多分誰も知らなかったんじゃない? まあ、安定期入るまでは言わないのが普通っぽいけど」
「産休十二月からだっけ。相手は——」
「マッチングアプリ」
「やっぱアプリなんだ」
「めっちゃ浮かれてるよね。しおり割と派手なほうだったのにさ、まつエクもジェルも止めたしめっちゃナチュラルメイク~だし」
「服もリネンワンピ」
「そんでフラットシューズ! 妊婦さんってみんなワンピにフラットシューズなのなんで」
キャハハ、と彼女たちは笑い声をあげた。笑いながら、片方の子は頬骨にやさしくチークを入れる。片方の子は透け色のリップグロスを唇にそっと重ねる。丁寧な、いつくしむような仕草で。「ビューラーある?」「あるよお」それらはまさしく私がしおりちゃんに対してかつて抱いた呪詛そのもので、居たたまれなくなる。手早く口紅を塗ると、急いでポーチに仕舞った。
「誰が聞いてるかわかんないよ。噂話はほどほどにね」
それだけ言って、足早にその場をあとにした。彼女たちはばつが悪そうにペコリと首を傾げ、しおりちゃんの話はそこでやめたようだった。
お手洗いを出たところで、私は小さく悲鳴をあげた。動線に立っていた人に、ぶつかりそうになったからだ。
「わっ! すみませ……、おっと、しおりちゃん」
そこに、当のしおりちゃんがいた。いったいいつから立っていたのか分からないが、小さなポーチを抱えるように持って、まさしく立ち尽くすような風情で、彼女はぽつねんと立っていた。フラットシューズにくるまれた小さな足の甲が、廊下の白々しい蛍光灯に青く照らされて、ひどく頼りなく見えた。
「お疲れ様です」
しおりちゃんはか細い声で応じた。その声に被さるように、まだ鏡の前に陣取っているのであろう女の子たちの無邪気な声が漏れ聞こえてくる。お手洗いの中は、存外声が響くのだ。それに気づいて、私はなんとか誤魔化そうと身じろぎをしたりしてみたが、当然のように無為に終わる。観念して、声を絞り出した。
「ええと……」
だが先が継げなかった。「大丈夫……?」自分でも意味がわからないと思いながら、そう呟いてみる。
「なにがですか」
しおりちゃんは、剣呑とまでは言わないまでもやや棘を感じる口調で、応じた。そりゃそうだ。女の子たちが出てくる前にこの場を離れたほうがいいと思って、思わずしおりちゃんの手を掴んで、「二階のトイレ行こう」と有無を言わさず連れ出した。意外にも、しおりちゃんは特段何か言うことはなくそれに従った。
二階のお手洗いには誰もいなかった。人感センサーだけが私たちを見つけて、無言でライトを点ける。しおりちゃんは、ポーチを抱えたまま入口で固まっている。
「私」と、しおりちゃんが口を開いた。
「やっぱりナチュラルメイク、似合いませんかねえ」
慌てて彼女の顔を見る。
奇妙なバランスで笑っている。泣いているみたいに目のまわりが真っ赤だ。胸が激しくきしんだ。なぜもっと早く、強く、あの子たちを諭さなかったのかと今更ながらに後悔する。ランチ中の同期の嘆きも重なって蘇ってきた。私が素知らぬ顔で吐き出した、よく似た毒のことも。
「——そんなことないよ」
許しを請う気持ちで、絞り出すように、答える。
「私だって、別に好きでこんなかっこうしてるんじゃないんです」
しおりちゃんは声を詰まらせて続けた。
「私だって、まゆさんみたいにハイヒールで、毎月クリーニングに出さないといけないような服を着て、多少重くてもカッコいいバッグで……、今までみたいにおしゃれしたいですよ」
「でも、体力はどんどん落ちるし、何をするにも時間がかかるし、億劫だし、お出かけだって今まで通りできないし。服も、もうずっと買ってないんです。今着てるこれも、通販で、フリーサイズのを買いました。乾燥機も大丈夫なやつです。美容院はかろうじて行ってるけど、長い時間座ってるのもしんどいし、この先頻繁にメンテできるかわかんないからカラーやパーマはやめたんです。まつエクもやめました」
「どんどん鈍くさくなるからヒールなんて履けない。駅の階段が怖い」
「医者にダメって言われてるからネイルもできない」
「よく眠れなくて、化粧のりも全然良くない。つわりの間にたびたび吐いてたら、リップ塗るのだってばかばかしくなっちゃった。肌質も変わりました。そばかすとか、肝斑が目立つようになって、でも妊娠中だから美白サプリなんて飲めない。ライブだって行けません。コーヒーを飲みに喫茶店巡りするのが趣味だったのに、今はそれもやってません」
「前に言われたんです。派手な服着て、って。妊婦なんだから妊婦らしくして。おとなしくしてって。そんな言い方じゃなかったけど。でも概ね意味はそう。——もちろん、妙な人に目を付けられたりしないようにって意味なんでしょうけど。言っている側としては——」
「でも、結局どんなかっこうしてたって、同じなんです。派手にしてたら目立つ、地味にしろ、地味にしてたらわざとらしい、あざとい!」
抗いようなく溢れだしたみたいに、しおりちゃんは一気に喋った。濁流だった。彼女、こんなに勢いよく話せたのか、と刮目するほどに。普段のおっとりと喋る彼女を知っているだけに、私は圧倒されて押し黙った。
「でも私が選んだことだから、しょうがないんですよ」
私があっけにとられているのに気付いたのか、彼女はふいに声の調子を落とした。
「全部手放してもいいから子どもが産みたかったんですよ。私。——いや、わかんないですけど。全部手放してもいいとかそこまで覚悟キマッてたかどうかはわかんないですけど、」
「でもきっと全部手放さないと赤ちゃんって抱っこできないんでしょ。そういうもんなんでしょ。みんな、そうだったんでしょ……」
赤ちゃん。
私の空洞が、しくしくと痛み始める。
「でも、たまに虚しくなります」
「私ってなんだったんだろうって思います。私だって、私なりに大事に選んできたもので自分を作ってきたはずなんですけど」
「妊婦さんっていう別の生き物になって、私だけが変わっていくみたい。私だったものは、もう空っぽでなんにもない。ただの赤ちゃんのための入れ物」
私だけの「だけ」、その向かいにいる片割れは、子どもの父親だろうか。それとも、私たちのような産んでいない側の人間すべてだろうか。私はふいに、ヒロキのことを考える。花井と名乗ったあの女のことを考える。暖色のライトがぼわぼわと照らす空間で、私たちはしばし黙って向かい合っていた。うーん、と微かに唸って、私は言った。
「空っぽなんかじゃないよ」
それは本心だった。空っぽというのは、私のようなものをいうのだ。後悔、不安、執着、情、妬み、恨み、思い出、そうした自分から滲み出る毒ひとつ、まともに抱えられず誰かに何とかしてほしいとすがって捨ててしまう、私のようなものをいうのだ。
「しおりちゃんは、ちゃんと自分で抱えてるもの」
私の独りよがりな励ましを聞いたしおりちゃんは、よくわからないといった顔を向けたものの、励ましと受け取った様子で弱く笑った。「今は無理だなって諦めたことも、諦めて辛かったって気持ちも、——なんだろ、うーん、不用意に? そうそう不用意に捨てたりしないでちゃんと抱えてるしおりちゃんは、きっとあとからそいつらを取り戻すことだってできるし、大丈夫だよ」言いながら、取り返しのつかない気持ちになってくる。私の抱えているべきだったもの、せめて自分で埋葬すべきだったものたちは、とうに消化されてしまった。すん、としおりちゃんの鼻をすする音が、妙に可笑しく響いた。
「それに——あのトートバッグは素敵だよ。似合ってるし」
それもまた本心だった。
まゆさんに相談できてよかった。そう言ってはかなげに笑うしおりちゃんのせいで、その清廉なたたずまいのせいで、あんたが光るせいで、私の空っぽなところばかりが映える。耳障りのいいことを言っているだけで、よく聞けば、言っていることさえ空っぽだ。
泥人形。肉塊。それはそうだ、消化されきった肉団子なのだ。私は。すがすがしく空っぽになれた分だけ、私は私を作っていた執着を捨ててしまって、今やなんでもないただの肉の袋。いらないものが溜まれば、蜘蛛に食べてもらえばいい。だからいくらでもいらないものをためて、善人ぶった演技をしたって平気だ。蜘蛛が、食べてくれさえすれば、いつでも空っぽに戻れる。今はただ、少しだけ溜めているだけだ。
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