不快の泥




「帰りましたよ」


 いつものように、押し入れに向かって声を掛けながらソッとバッグを床に置く。リリリ、と弱くコオロギが鳴く。さっき雑貨屋へ駆け込んで買ってきた虫かごに、コオロギを十匹、流し込むように入れた。ゼリーを置いてやれば、彼らはいそいそとそれを舐めに寄ってくる。こうして見るとなかなかに可愛らしい。

 押し入れをのぞき込むと、昨日よりも白布の厚みが増しているように思った。やはり、くだんの脱皮用のシーツだ。きっと。——刺激しないように。店主の言葉を思い出して、音も立てずにふすまを閉めた。

 その夜は、かさこそと小さく生きるコオロギの忙しない気配を感じながら、対照的に押し入れの奥でじっと固まる蜘蛛のことを考えながら、浅い眠りを舐めた。


 蜘蛛が死んだら、どうしたらいいんだろう。実家で買っていた犬が死んだときは、ペット専用の業者に火葬してもらったが、そういう業者は巨大な虫も同じように火葬してくれるんだろうか。すごくよく燃えるだろう。枯れ木みたいな脚、こまかい毛に覆われた腹。ぼうと燃えて、しゅうと消える。そうなったら、私はこのどうしようもない空洞に溜まっていくものを持て余してしまうだろう。今はまだ空っぽだからいい。まだ十分に、すかすかだからいい。でもいつか、ヒロキを失ったあの白昼みたいに、しみ出して止まらなくなる憎悪に駆られる日がきたら。

 蜘蛛にやるために買ってきたコオロギは、出番もないまま部屋の片隅でリンリン鳴いている。共食いしたらしいコオロギの死骸が虫かごのなかで悪臭を放っている。指でつまんで、ゴミ箱に捨てる。脱皮かもしれない、と思った蜘蛛は、しかしその後も動きはなく、ただただ無為に数日が過ぎていった。餌虫という、画期的な解決策も試せず、下手をしたら死ぬかもしれないという脱皮をただただ待っている間に、私の体もどんどん重くなっていった。


 デスクの前でぼやぼやと背伸びをしていたら、社内チャットがポコンと通知音をたてた。生産管理の担当者だった。昨夜もよく眠れなくて、朝から調子があまり良くないところに、「工場からサンプル上がってきたんですが、できが悪いです」という第一報。慌てて電話をかける。


「クライアントへの提出、来週火曜なんですが、今からやり直しききますか? 提出分だけでもなんとかしないと」


「今工場の担当に連絡とろうとしてるんですが、捕まらなくて……。とりあえず席まで来てもらえますか」


「今から行きます」


 電話をポケットに仕舞って立ち上がると、トラブルですか? としおりちゃんが頸を傾げる。


「うーん。まあ、生産管理のジャッジが厳しすぎるだけでそんなに悪くないことを祈る」


「誰ですか?」


「森さん」


「ああ、森さん。その可能性あるかもしれませんねえ、完璧主義だから!」


 しかし、作業台に置かれたサンプルは、森さんの渋い顔に見合うだけのできであった。私はため息をつく。これじゃあ出せないですよ。ですねえ。森さんも渋い顔のまま呟いた。ですねえ、って何。いらだちがピリッとひび割れみたいに走った。工場の窓口はあんたなのに、こうなるって予見できなかったの。体の奥で、乾いた不快の泥が割れる。


「連絡つきました?」


「いえ、まだ。さっき境井さんもCC入れましたが、一応メールは送ってるんで、折り返し待ちです」


「さすがにこれじゃあ土日になんとかしてもらうしかないですね。サンプル提出、ただでさえ今週末予定だったのを来週に延ばしてもらって、それでコレ、なんて」


「けど、職人が来ないでしょう、土日なんて」


「それはあっちが考えることかと」


 次第に、口調にもいらだちが混ざり始めたことに気づき、慌てて冷却を試みるべく一呼吸置いた。森さんは、呆れを隠さない表情で私を見ては、困ったような口調で言う。


「たぶん、このレベルだと仕様からやり直さないとキツイって言われると思いますよ。このご時世協力工場にあんまり無理も言えないし……、なんとかサンプル納期だけでも調整できないですかねえ。じゃなきゃウチが入ってる意味ないですもん。調整役でしょ、ウチ」


 ウチが、と彼は言ったが、正しくは「お前が」と言いたいのだ。得意先の窓口はお前なんだから、得意先に対して折衝するのはお前の仕事だろ。そういう意味だろう。思わず眉間に熱が集まった。どんどん余裕がなくなってくるのが分かる。


「もちろん。ですが協力工場のグリップも頼みますよ。サンプル提出、一回納期落としてるんですよ」


 正直こんなレベルのもの、一言も添えずに送り付けてくるなんて、ちょっとよくわからない感覚ですよ。あっ、——言い過ぎた、と思ったときには口をついて出てしまっていた。森さんはまた、呆れたような困ったような曖昧な顔で、口角だけ上げて私を見た。


 デスクに戻って、心境的には殆ど頭を抱えた。協力工場の担当者からは、量産用に仕様をマイナーチェンジしたせいだと思う、仕様変更を今一度検討できないか、デザインの再考ができないか、せめて量産納期を伸ばせないか、……と、くどくど返信がきていた。はああ、と深めのため息をつく。いずれにしても、工場に具体案を聞きにいかねばなるまい。今日も早く帰って蜘蛛の様子を見たかったのに。森さんに、午後急遽打ち合わせをセッティングしてくれとチャットを打っていると、しおりちゃんが郵便物を抱えて席へ戻ってきた。


「大丈夫じゃなかった感じですかあ……?」


 私宛の郵便物をそっと差し出しながら、彼女は様子を窺うように言った。


「ありがとう。全然大丈夫じゃなかった。午後、工場行かないと。だからごめん、午後の打ち合わせ、同席できなさそう。あとで共有してもらっていい?」


 午後に、おりちゃんから引き継ぐ案件の定例ミーティングが入っていることをしゃべりながら思い出して、両手を合わせながら言う。まかせてくださあい、と答えるはずの彼女は、しかし気まずそうな顔で口元に手をやった。


「あ……、すみません、私午後はお休みいただいてて」


 どうしてもずらせない予定で。しおりちゃんは小さな声で継いだ。


「え、そうなの? でも前の打ち合わせのとき日程について何も言わなかったよね?」


 思わずむっとして、それが声に表れる。ええと、と口ごもる彼女に、またじわじわといらだちがしみ出してくる。しおりちゃんの案件だよね? 重ねて言うと、彼女は黙った。


「予定あったならあのときに今日はダメだって言うべきじゃないかな。それともあれで引き継ぎ終わってあとはもうお任せ、って感じ? もう手放したってこと? 私は違うと思うけど」


 詰問口調に、しおりちゃんはますます委縮していく。違う、言いすぎだと思うのに、止まらない。ひび割れが私の意思なんてお構いなしに伸びていく。


「すみません」


「……まあ予定あるなら仕方ない。でもちょっと考えてね」


 言い捨てるみたいに言って、私はメールのチェックに取り掛かった。気まずかったのか、気を悪くしたのか、気分でも悪くなったのか、しおりちゃんはそっと席を立って出ていく。——私が悪いみたいじゃない。その後ろ姿の哀れっぽい様子にさえ、ダメ押しとばかりに色濃いいらだちがじわりと滲み出した。私にばかり、しわ寄せがきている気がした。


 結局、しおりちゃんからの引き継ぎ案件の打ち合わせに出て、忙しなく協力工場に向かう。長々と説明や言い訳を聞かされた結果、仕様変更を検討せざるを得ないと結論が出て、いやいやながらに得意先へサンプル提出遅延と、仕様変更の検討依頼の電話をかけた。「今さらですかあ」と、呆れきった先方の声に、申し訳ないです、と繰り返す。繰り返すたび、不快の泥が硬く乾いていく。「初回のモックはいい感じだったじゃないですか」「量産に向けて若干——見え方に影響でない程度に——こっち側で仕様いじってまして……、その量産型第一号が今日上がってきたんですが、ちょっとあんまり良くなくてですね。品質の安定の観点からも、もとの仕様をほんの少し相談させていただきたいんですが——」


 電話を片手に、いらいらとパソコンをいじる。私が打ち合わせに出ている間に退社したしおりちゃんのカレンダーには、確かに【午後休暇】と書いてあった。備考欄にはご丁寧に「検診」と書いてある。まじめで、まめな子なのだ。そのまめさにさえ腹が立った。いらだちのひび割れは、どこまでも細く長く伸びていくばかりだ。


「とりあえず、そのダメだったサンプル見せてもらえます? 変更の方向性と併せて打ち合わせさせてください」


 電話口で、先方はため息混じりに言った。さっと時計を見る。もう十八時だった。


「ええと……、月朝でもよろしいですか? 工場にも仕様変更後の詳細描かせてますし、それが上がってからのほうが」


「いやあ、できれば方向性だけでも先に聞いときたくて。内容によってはディレクターの耳に今週中に入れときたいんです。遅めでもいいから来てほしいんですが。私があんまり週明け時間取れそうにないのもありますし」


 蜘蛛の様子が気になってしかたがなかった。

 店主の言いつけ通り、朝通勤電車で調べたことには、脱皮前後は乾燥で調子を崩すことが多いらしく、押し入れに入れっぱなしの除湿剤のことがずっと気になっていた。そのサイトに書いてある蜘蛛にとっての適温より、自室は寒いような気がしていた。早く帰って、加湿器をたいて、室温を上げたい、そればかりを考えて出勤したのに。


 こんなことになったのは、サンプルひとつまともにあげられない業者のせいだ。しおりちゃんが打ち合わせに出られないって言うから、定例ミーティングに出てから工場に行かざるを得なくて、こんな時間になってしまった。しおりちゃんのせいだ。検診なんて、日にちをずらせばいいのに。


 いや、違う。


 しおりちゃんの引き継ぎを優先して、普段だったら行くはずの工場立ち合いに、行かなかった自分のせいだ。森さんはベテランだからまあなんとかいけるだろうと、コミュニケーションもろくに取らずに甘えていた自分のせいだ。しおりちゃんに至っては、ただの八つ当たりだ。すっかり引き継ぎは終わったと思っていても、別におかしくはない。きちんとスタンスを合わせておかなかった自分のせいだ。


 分かっている。


 本当は分かっているのに、どくどくとしみ出してくるものを止められない。


「承知しました」


 私が一瞬口ごもったのを察して、先方はすみませんねえ、と苦笑混じりの声で言う。


「境井さんも華金なんで、まあ色々予定とか、お楽しみとかあったと思うんですけど」


 先方の担当者はベテランの男性で、お楽しみという言葉を好んで使う。主に、異性に関する予定のことを指す。下卑ているといつも思うが、今日はことさらに不快だった。彼に対しても、またいらだちを覚えた。彼は当然、私に恋人がいたことも、夏に破局したことも、今はオスの蜘蛛を飼っていることも知らないわけで、悪意のない軽口である。


「いえ。では、御社到着しましたらまたお電話します」


「はい、よろしくです」


 電話を切って、ギュッと拳を握った。手のひらに、伸びたジェルネイルが刺さった。刺さったところから破れて、この醜い肉の袋に溜まった不快がすべて流れていくなら、いくらでも破るのに、残念ながら私の体はそういうふうにはできていなかった。やっぱり、消化してもらわないと。早く帰らないと。ここから得意先へは、よりによって二時間はかかる。それから打ち合わせをして、きっと急いで帰っても九時は回るだろう。加湿器を買って帰りたいが、電器屋は開いているだろうか。特急の窓を転がっていく街灯を眺めながら、蜘蛛のことばかりを考えていた。


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