窒息






 いやいや、だって、しょうがないよ、そうじゃない? 心配せざるを得ないじゃない。フリでもさあ。妊婦さんが体調悪そうにしてたらさあ。まゆは間違ってないよ。職場近くの定食屋で、ハンバーグをほおばりながら、同期は慰めるように言った。彼女のフォークの先で、ソースを吸ったひき肉が手慰みに転がされている。ひとつ転がすたび、つなぎを極力使っていないことがウリのハンバーグはぐずぐずと崩れていく。


「後輩の子も察してくれたらいいのにね。いちいちイラつかないで」


「うーん。まあ、そこら中で腫物みたいに扱われて、うんざりしてたんだろうね」


「でもそれはさ」


 彼女は転がしていたひき肉に、フォークを刺した。


「まゆには関係ないし」


 まあ、そう言ってしまえば、そうだ。彼女の言葉は、まさしく私を慰めるためのものだ。それなのに、どうして、心が晴れないどころかぐずぐずの肉片みたいな澱が溜まっていくのだろう。確かにねえ、と言いながら、彼女の崩したハンバーグのかけらをぼんやりと見つめた。


 話題は今彼女がトレーナーとして面倒を見ている新卒の男の子の話に移行していく。なかなかにいい大学を出ていて、バイリンガルで、妙に愛想もよくて、世渡り上手の子特有の万能感っていうの? そんな感じでイマイチこっちの指導が響いてない感じなんだよねえ。同期は、言いながらまたフォークの先で別のかけらを突き始めた。


「腹立つのはさあ、佐藤わかる? 一個下の男」


「わかるよ、天パの」


「そうそう。新人はさ、あいつの言うことは聞くの。完全に佐藤派閥。ナメられてんの、私」


 別に好きでトレーナーやってるわけじゃないし、いっそ佐藤に引き取ってほしいわ。彼女は憎々し気に呟いて、かけらを皿の端に集める。私はなんと答えたらよいかわからず、曖昧に眉を寄せて共感した振りをしながら、付け合わせのマッシュポテトを口に運んで間を持たせた。


「そのうち結婚していなくなるって思われてんのよ」


 同期は吐き捨てるように言った。


「今どき、結婚するだの出産するだので女が表舞台から引っ込んでいくわけないのに」


 表舞台。


 さらさらと流れていく彼女の愚痴のなかで、その単語だけが明らかな異物感とともに私の耳に引っかかった。


 彼女にとっては正しくそうなのだろう。きっと私にとっても。そう、というより、そう、であってほしい、のかもしれない。私は、しおりちゃんの顔を思い浮かべた。好きだった装飾的な服装も、トレンドを敏感に反映させた化粧も、サロンネイルもやめ、よく知らない人たちには腫物のように扱われ、デリカシーのない課長には的外れに茶化され、ひがみ根性の強い同僚——私だ——にはどうせいなくなるなどと陰で毒づかれ。地味になっていく。あなたはそっち、と線引きされて距離を置かれていく。それだけ見れば降りたも同然だ。表舞台を。でも本当にそうなのかな。表舞台って、何。今ひとつ腹落ちしない心地で、同期からつい、と目を逸らした。


「でも女をナメるやつらの気持ちがわかんないわけではないんだよね。……まゆのトレーニーだった子は今二年目だっけ」


 不意に、話題がまたしおりちゃんに向かって旋回した。そうだよ、ついこないだ入社したばっかりだと思ってたのにね。注意深く相槌を打って、またマッシュポテトを口に運んだ。


「二年目で産休入られたら、指導する側からしたら時間、無駄にしたみたいじゃない、ねえ?」


 その言い草に、私は思わずむっとした。


「まあまあ。入社後早めに産休に入るってことは、年次が若いうちに帰ってくるってことだから、……」


「いやあ、わかんないよ。うちの先輩、一人目の育休中なんだけど、切れ目なしに二人目の産休に入るってこないだ発表されたもの。しかも、産休は人員減じゃないからって理屈で、増員なし」


 乗ってこない私にいらだったのか、彼女の言葉は次第に棘を鋭くしていく。


「そういうのが同じ女の立場を悪くするんだよ」


「ねえ、けど子どもは女一人じゃ産めないよ。そんなの言い出したら自分の首が締まるよ。私たちだけでも、しかたないことよねって空気作っておかなきゃ、いつかは我が身だよ」


 分が悪いのは同期のほうだと、彼女自身もわかっている。そうなんだけどさあ、頭じゃわかっちゃいるんだけどさ……。ため息まじりに、彼女は振り上げたこぶしを下ろした。


「どうしても、しわ寄せがきてる、貧乏くじ引いてる、って思っちゃう。それなのに、私たちには男の子たちみたいに、あいつらは女だからしかたないって見下して留飲を下げることも許されない」


 呻く言葉は、今日一番真に迫っていた。彼女の呻きが、空洞になった私の中に泥のように溜まっては、私の体を重くした。それ以上話せることもないのはわかっていたから、ひと区切りを示すために私はお水に口をつけ、不必要なほど丁寧に飲み込んだ。しょうがないよね、しんどいもんねえ、がんばろ、ところでさ。私たちは暗黙の了解のもと、秋服のセールだの、デパートコスメのクリスマスコフレだのの平和な話題で、残りの昼休憩を平穏にやり過ごした。これが、貧乏くじを引いている私たちなりの折り合いのつけ方なのだと、合意をとったようにスムーズな移行である。さすがにまる六年も同期をやっていたら、言わずとも伝わるのだ。


 昼休憩から戻ると、バッグに入れっぱなしにしていた私用の携帯電話に、着信を示す通知がついていた。白々しく表示される「笠原ヒロキ」の名前に、ほんのわずか、腹の空洞にさっき溜まった泥がうごめいて、不快感がせり上がる。けれど、彼の名前を見て覚える不快感は、痛みと呼べるほどのものではもはや無かった。ただの蠕動、ただの反射。なぜなら、彼に対する執着や情もまた、とうに蜘蛛に食わせたあとだからだ。


「どうしてももう一度話せないか」


 機械的な動作で通知を削除して鞄に仕舞おうとしたところで、ポンと小さな通知音がして、そういえばマナーモードにしていなかったな、と表に返せば、画面には削除したばかりの笠原ヒロキの名前とメッセージが表示されていた。


 話すべきことがあるかを考える。


 住んでいたところの契約関連のことは終わっているし、忘れ物があれば捨ててくれと伝えてある。それ以外に何かあったかしら。


「誕生日にまゆのお母さんがまゆにプレゼントしてたネックレスを見つけたんだけど、流石にこれは捨てずに返したい」


 まるで私の思考が読めているみたいに、追撃でもう一通メッセージが届いた。少しだけ考えて、「わかった。亀滑通りの【オリーブ】で二十時に」と返信する。じつに二か月ぶりに、彼からの連絡に応えたことになる。【オリーブ】は、前に二人で住んでいたころ、何もしたくない日曜の夜なんかに、たまに行っていたファミレスである。そういえば、最後にヒロキと食事をしたのも、【オリーブ】だったな。私が食べたのはドリア、ヒロキが食べたのは、何だったっけ。




 二か月前、真っ盛りの夏が忌々しく空に蓋をしていた時分に、突然訪ねてきたその女の言うことには、春ごろから笠原ヒロキと肉体関係を持っていて、このたびめでたく懐妊したことから、笠原ヒロキにぜひ婚姻というかたちで責任を取ってほしいということであった。


 突然訪ねてきたその女を出迎えたのは、宅配か何かだと思ってドアを開けた私だった。知らない顔の女に、私はしばし停止した。一方で女は、不自然なほど決意に満ちたまなざしで、私を射抜くように見据えた。


「ええと、お部屋をお間違えでしょうか」


「いえ。笠原さんの同僚の花井と申します」


 花井と名乗る華奢な女は、そう言って固い表情のまま頭を下げる。「まゆ?」私が玄関でまごまごしていることをいぶかしんで、ヒロキが顔を出す。「大丈夫? なんかあっ——」何かあったのか、と聞きかけて、そして女の姿を見つけて彼もまた停止した。きっとその瞬間の彼と私の顔は、双子のように似通っていたと思う。十年近く、一緒にいたのだから。女はそれに、気づいただろうか。ヒロキの姿を見て、彼女は一層、眉のあたりに力を込めた。


「笠原君、どうして電話に出てくれないの? ずっとかけてるのに」


「いや、ええと、休日だから職場の携帯見てなくて、——ああ、えっと、まゆ、こちら同僚の花井さん……、花井さん、仕事の話なら、外で……」


 笑ってしまうほどしどろもどろになったヒロキに、私はなんだか全てを察してしまって、思わず口を開けて彼の顔を見つめた。フル回転しているのだろう彼の脳の、駆動音まで聞こえるような気がした。


「仕事の話なんてないよ」


 彼女は硬い表情のまま、少しだけ語気を強めた。そして私の方に向き直ると、意を決したように、「私、妊娠してるんです。笠原君の子どもです」と言った。


 妊娠? 子ども? 彼女は確かにそう言った。


 もしかして浮気相手か、とは思ったけれど、子ども、は予想外だった。血の気が引くというのは、こういうことなのだろうな、と他人事みたいに思った。視界に白いもやがかかったり晴れたりで、一切のものが遠く感じる。まずは耳から冷えて、周囲の雑音が消え、その代わりにごうごうと自分の血の流れる音がいやにはっきりと聞こえる。彼女の吐き出した、こ・ど・も、というひと文字ひと文字が、スライムみたいな粘度の高い物体となって、混ざり合って、顔に叩きつけられているみたいだ。溺れて息ができないから何も答えられずにいると、代わりに口を開いたのはヒロキだった。


「いや、なん……そんなわけないだろう、どうして、」


 だが何ら意味をなさない音を発しただけだった。

 私がスライムに溺れて窒息しそうなのに、死にそうなのに、ヒロキはそんなことにも気づかないで、あわあわと釈明するようにこちらを見たり、あちらを見たりしている。彼の脳が焼けるほど回っている。そんなことより、私を助けてほしかった。


「だから、ごめんなさい、笠原君と別れてください」


 花井と名乗る女は、ヒロキの狼狽を無視して私のほうを向いたまま、そう言って殊勝に頭を下げた。


「別れてもらえなくても、私堕ろしませんから。検査して、認知もしてもらいますから」





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