肉の袋
それを聞いたヒロキは、とうとう観念したみたいに、もごもご言うのも止めて、呻き声混じりのため息を吐いた。
「堕ろさないですか」
漸く喉が通って声が出る。女は、キッと目じりに力を込めた。堕ろせるはずありません、なんと言われても譲れません。
「そうですよね、中絶手術、怖いですもんね」
彼女が、わずかに怯えの滲む顔で黙った。彼女の握りしめられたこぶしが、無意識に腹のあたりに寄せられていった。
「婦人科怖いですよね」私はうわごとのように、それでいて奇妙に浮き足だった声で一人、喋っている。
「わかりますよ」女は返事の代わりに、あの、とか、ええと、とかの意味のない言葉を漏らす。
「ひとりで病院、行ったんですね」
「いやですよね、あれ」私はいま自分がどんな顔をしているのか、全然わからなくなっていた。
「脚、信じられないくらい開いて、すごく情けなくて惨めな感じ」
診察台の合皮がペタペタと貼りつく腕、次第に冷えていく足指、感覚を失っていくふくらはぎ、あらゆる感情が重力に従って降りてきては、とうとう耐えきれず染み出してきたみたいにじっとりと濡れていく背中。聞いたことのない音、開いたことのない場所、見たことのない人、産まれてこなかった人。
ただただ、格子模様の天井を眺めては、おどろおどろしい血まみれの胎児の姿を空想した。できるだけ人間離れしていてほしかった。どのくらいの大きさなのかも知らない、人の姿をしているのかも知らない。いつしかそれは、呪いを吸って肥大して、視界いっぱいを覆った。膨らんではこぼれ、膨らんではこぼれた。目から溢れて耳を伝って、首までしとどに濡れた。看護師さんが、無言でそれを拭った。
「堕ろせなんて言わないですよ」言えないですよ。私にはとても。
私は、先ほど私の顔にしがみついて呼吸を奪っていた、ふにゃふにゃと柔らかくスライムみたいにねばついたものが、そのときに空想した想像上の胎児の姿だと気づいた。なるほど、だから、ヒロキにはそれが見えなかったのだ。私がそれに塞がれて死にそうになっていることに、気づけなかったのだ。ヒロキは、私の言わんとしていることを察して青ざめたまま、私の顔を呆けて見つめている。青ざめる程度の反応はあるが、ヒロキは脚を開いていないし、腹の中に知らない器具を入れられてもいないし、胎児の姿を空想してもいない、あの日から空っぽの腹を抱えて暮らしていたのは、私だけだ。私だけの孤独だったのだ、と気づいてしまうと、いっそ清々しいような、ヤケクソの気分になってきて、笑ってしまう。できうる限り惨たらしくこの場で死んでやりたいと思う。例えば、自爆したり、したい。
「あの……」
私が笑っているのを見て、女が戸惑ったように少し頸を傾げた。
「別れますよ」
私は笑いを堪えながら、はきはきと答えた。「すぐにでも。今ここででも」望み通りの回答をしたはずなのに、女は眉を寄せたまま、少しもうれしそうな顔をしない。「うれしいですか?」それが気にくわなくて、いらいらしながら聞いた。「うれしくないんですか? 何も言わないの、なんでですか?」まゆ、何言ってるんだ、落ち着け、ヒロキが慌てて私の肩を掴んだ。触られた瞬間、剥きだしの筋肉を鷲掴みにされたような痛みが走った。感じたことのない異物感に怯えて、全身の皮膚が捲れ上がったみたいだった。反射的に振り払って、その拍子に私の手が靴箱の上を薙ぎ払う。鍵をかける小さな置物が吹き飛んだ。陶器でできたそれは、玄関タイルに叩きつけられて惨たらしく飛び散った。
その音に、女が反射的に肩をびくつかせる。
「痛い! 触らないで!」
「まゆ、落ち着いて、ちゃんと話そう、ちゃんと話すから、わけも、全部話すから、ちょっと待って」
「え? なにを待つの? 話すことなんてないよ? じゃあ全部この人の嘘なの?」——ヒロキは一瞬きまり悪そうに声を詰まらせた。「——違うでしょ? この人が嘘ついてるんじゃないなら、ない、ないよ、話すことなんてなんにもない、ヒロキはこの人と話して。この人と話して!」
最後は悲鳴になった。ヒロキの服を掴んで部屋の外に突き飛ばすと、ドアを閉め、鍵を閉め、口も目も耳も閉じた。何も漏れてこないよう、何も入ってこないようにしっかりと閉じた。それでも、体というものは肉でできた袋なので、臓器の蠕動に従って胃の中のものが押し上げられ、出口を求めて食道を上ってきた。堪えきれず、思い切り廊下に嘔吐した。ヒロキと食べた最後の食事が、半分消化された状態で、蛆虫の死骸みたいに床に広がった。こんなものを胃袋に入れて過ごしていたことが、ひどくおぞましく感じた。
口をゆすいで、顔を洗って、財布と、年金手帳だのパスポートだの実家の鍵だのが入っている貴重品袋、携帯電話を職場に持っていく鞄に投げ込んで、あとは何が必要か、見渡して、しかしもう四年、いや五年も住んだこの部屋には私のものが多すぎて、途方にくれた。
後ろで、鍵を持っていないヒロキが何ごとかを叫びながら、激しくドアを叩いている。時折、ヒロキに向かってはきはきと怒りをぶつけるような、女の声も聞こえる。また何も入ってこないように耳を塞いで、小さく、小さく体を丸め、立てた膝の間に頭をうずめながら、なんでよお、と呻いた。しばらくして、お隣さんか誰かに咎められたのか、扉を一枚挟んだ向こう側からは人の気配が消え、静かになった。
結局、ヒロキと彼女がどんな話をしたのかは知らない。
中絶という、原則から外れる行為は、かならず精算しなければならない。タイミングが悪かっただけだと示さなければならない。——誰に? 堂々と、後ろにずれただけだと証明して見せなければならない。——誰に? 私の精算行為は、ヒロキとめでたく結婚して、順序正しく妊娠して、無事出産に至ったときに完了する予定だったのだけれど、そのときにはじめて、私たちの失敗はなかったことになるはずだったのだけれど、産まれてこなかった人のことはなかったことになるはずだったのだけれど。
ヒロキにとってはそうではなかったのだな。
ひとり、ひとしきり吐いて空っぽになった胃袋をぶら提げて歩きながら、考えた。そして唐突に理解した。ヒロキからしたら、精算は私が堕胎したそのときに終わってたんだな。
お互い新卒の内定が出たばかりで、あのタイミングで学生結婚して出産なんていう選択は確かになかったけれど、先延ばしにしただけで何も終わっていないと思っていた。そう思っていたのは私だけだったんだな。
ああそうか、きっと彼は楽しくセックスがしたかったのだ。相手はさておき、女とセックスがしたかったのだ。セックスをすることによって妊娠するかもしれないのは、確かに彼ではない。彼は私との精算を完了していると思っていたわけで、私のように、彼との精算に拘泥する必要は、なかったのだ。だから順番を狂わせるような妊娠が怖くてセックスを拒みがちな私のことを、きっとどこかで煩わしく思っていたのだ。過去のことだと、もう済んだ話だと。
胃袋は空っぽの肉の袋になった一方、私の大切な空洞のなかには憎悪が溜まっていく。いったいこの体のどこからこんなものが染み出してきたのか、こんなものを内に隠したまま暮らしていたのかと驚くような、汚泥のような憎悪が溜まっていく。胃袋の中身は吐き出せても、これの吐き出し方はわからなかった。あの日から、私の体の中には救われない空洞があったが、その空洞がゆっくりと埋まっていくのが分かった。また脚でもなんでも開いて、あの見たことのない器具で、引きずり出してもらうほかないのかもしれないと思った。
「なかったことにしないと」
精算を終えずに放逐されることを、精算のために空けておいた子宮に今や憎悪だけが溜まっていることを、なんとかしてなかったことにしないと。携帯電話がしつこく鳴り続ける。見慣れたヒロキの名前が降り積もる。
いつまでも逃げているわけにもいかず、日が暮れる前に私は部屋に戻った。ドアの前に座り込んでいたヒロキが、「まゆ」と安堵したような、すがるような、圧し潰されたような声を上げた。圧し潰されたのはお前じゃない、とまた憎悪が蠢いた。廊下はには悪臭が立ち込めていた。その日、夜中までヒロキの戯言を聞いたが、言っていたことのほとんどはもう忘れてしまった。荷物は十日でまとめるから、残ったものはすべて捨ててほしいと告げて、
——その日の朝がヒロキの顔を見た最後だ。
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