何かが滲む
職場は、家の最寄り駅から地下鉄で十分、歩いて五分の川沿いにある。一度だけ大きな道路を横断しなければならない。信号待ちに視線を落とせば、真新しいオレンジ色のポインテッドトウパンプスと、ネイビーのワイドパンツのコントラストが、目にも鮮やかに輝いて見える。昨日磨いただけあって、素足にサテンのような艶まで走っている。化粧のりもすこぶる良い。
「まゆさあん」
おはようございまあす、と間延びする声に呼ばれて振り返れば、くだんの妊娠中の後輩が手を振っていた。
「しおりちゃん。おはよう、早いね。いつも十時出社じゃなかった?」
「昨日までは十時出社に設定してたんですけど、さすがに昨日引き継ぎやばいなって思って、今日から九時出社に切り替えましたあ」
そう言って様子を窺うように見上げる彼女の頬は、皮膚から薄ら透ける血管やそばかすもそのままに、軽く粉をはたかれただけに見えた。そういえば妊娠が分かったころから彼女の化粧はどんどん薄くなっている気がする。蜘蛛に食われた翌朝は化粧のりがいいのもあって、私は普段つけない朱赤の口紅を塗ってきたけれど、薄化粧の彼女の横に立つには少々派手かもしれない。ほんのわずか、居心地の悪さを覚えた。頑張ってる感、が出てしまっているかもしれない。
「まゆさん、今日のリップすてきですねえ。もしやパンプスと合わせてます?」
私の内心でも読めるのか、彼女は無邪気に続ける。オレンジ似合いますよねえ! その笑顔には——引き続きほんの少しこちらの様子を窺うような気配はあれど——、媚びや害意は見当たらなかった。しおりちゃんは、そうだ、とてもいい子なのだ。新入社員の頃から面倒を見ているからかずいぶん慕ってくれている。
つい昨日、自身の唇を腐らせながら吐いた毒のことなど、思い出せもしない。すべて、蜘蛛に食わせた。
「やっぱり女の子の後輩はそういうのにも気づいてくれるから張り合いがあるねえ」
「そりゃ私はまゆさんの追っかけなので。こんなに見てるのは私くらいですよお」
「そのバッグも私の真似して買ったもんね?」
「うふふ、ボーナスが吹き飛びましたけどお」そう言って彼女は、私と同じブランドの型違いのバッグを軽く持ち上げて見せる。その手は素爪だ。そういえば彼女はネイルもやめたのだ。濃いブラウンの本革バッグに不似合いの、プラスチックのキーホルダーが揺れる。私の視線を気取ってか、「一応、つけとけって夫が言うので」と彼女ははにかんだ。大事にされてるね、と言ったところで、通用門に到着する。
「あ、私郵便室に寄ってから上がりますから、またあとで!」
「荷物? 荷物なら私が持って上がるよ。どこからの荷物?」
「ありがとうございます、でも封筒なので大丈夫です!」
彼女ははきはきと礼を言うと、守衛室のほうへ小走りで向かっていった。
彼女のバッグにぶら下がる「お腹に赤ちゃんがいますキーホルダー」を見ても、妊娠してから化粧や服の趣味が変わっていく彼女を見ても、もはや少しもいらだたない。ちゃんと溶かされて啜られて空っぽになれたことに安堵して、私は入館証をゲートにかざした。エレベーターホールで待っているあいだに、携帯電話をちらりと確認する。通知欄には、今日も変わらず「笠原ヒロキ」の名前が並んでいた。
自席について、パソコンを立ち上げる。同期から、社内チャットのメッセージが届いていた。「おつー。お昼どお?」「いいけど、十三時から打ち合わせあるから近場で」手早く返しながら、カレンダーを開く。今日は午前中に部課打ち合わせが一件、十三時からプロジェクト単位の打ち合わせが一件。プロジェクト打ち合わせ後に全体スケジュール巻き直して、たぶん打ち合わせ中に予算問題が出てくるから全体見積もり精査して、そうだ、現場担当の子捕まるかな、詰めたいことがある、あとで電話しておこう……。メールをチェックしながら一息ついたと同時に、九時のチャイムが鳴った。始業のチャイムが鳴っても、しおりちゃんはまだ席に来なかった。
「はいおはようさん。……なんだ、葛西さんは遅刻かあ? 今日から九時出社にするって聞いてたけど。まあ妊婦さんはのんびり歩くもんだもんな、仕方ないかあ」
始業ぴったりに席に戻ってきた課長が、特段悪感情もない様子で言う。口々に挨拶を返す課員ににこにこと笑いかけて、彼は最後に私の顔を見た。悪気はないのだろうが、しおりちゃんが聞いたら傷つくだろう。彼女はのんびり歩いてなどいない。
「いえ、遅刻ではないです。一緒に来ましたが郵便室に用事があると。すぐ来ると思いますが」
「なんだ、一緒に来たの! 相変わらず仲がいいね!」
悪い人ではないのだ、課長も。デリカシーがないだけで。曖昧にうなずいて時間稼ぎをしていると、すみませーん、間延びした声でよたよたとしおりちゃんが駆け込んできた。給湯室でトラブってて、と軽い調子で釈明する顔色は、しかし紙のように白い。私はぎょっとして、彼女の顔を凝視する。
「しおりちゃん、肝が冷えるから走らないで。顔色悪いけど、体調よくないなら、医務室で——」
「ああ。いえいえ、大丈夫です!」
「でも」
「貧血ぎみなんですよお、実はさっきも給湯室でちょっとフラーっとしちゃって。それで着席遅れちゃったんですう。よくあることなんですよお。ご心配おかけしてすみません!」
しおりちゃんは、不自然なほどはきはきと言って、笑った。 彼女が薄く纏ういらだちの膜を察して、私は思わず「それなら、いいけど……」とうなずいて、黙る。そのいらだちは、腫物を触るように扱うなということだろうか。
だが私は、妊婦が体調のすぐれない様子のとき、心配する以外の選択肢がない。いらだたれようが、この先も心配する素振りを見せるほかない。むしろ、なぜ私しか声をかけないのだろう。なぜ誰も気を遣わないのだろう。みんながちゃんと気にしていれば、私だけが妙にしおりちゃんの妊娠を気にしてるみたいな雰囲気じゃなくなるし、しおりちゃんも、「そういうものなのだな」「妊婦を過剰に気遣うことは、社会人として仕方のないふるまいなんだろうな」「お決まりなのだな」と察してくれようものを。課長は奥さんが妊婦だったときもあるだろうに、なんて使えないのだろう。まさか、奥さんが妊娠中も、こんなふうにデリカシーも気遣いもなかったのだろうか。
じわりと、せっかく蜘蛛に食われてきれいな空洞になったはずの私のなかに、濁った泥がにじみ始める。
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