辿り着く



 携帯電話が、ぶー、ぶー、と規則的に顔の下で振動する。反射的に電源ボタンを押して止める。


 目を開けて、薄目でホーム画面に表示された時間を確認した。七時二十五分。できれば三十分まで、目を閉じていたい。再び目を閉じた刹那、スヌーズなる機能を有したそいつはまた鳴動しはじめる。私は意を決して起き上がった。すこぶる気分がいい。冷たい床を踏みしめて、洗面所へ数歩で辿り着く。洗面所の床は、かすかに心許ない柔らかさで両足を支えた。鏡の向こうとこちらとで向かい合った自分の顔は、いつもよりも角がとれて、やさしげに見えた。


 普段はぬるま湯で洗顔するのみだが、蜘蛛に食われた翌朝は、朝から泡洗顔をすると決めている。チューブから不透明なペーストを手のひらに出して、泡立てネットでやわやわと泡立てる。

 私はゆるめの泡が好きだ。水を加えながら両手いっぱいになるまで泡立てる。顔をうずめると、ジャスミンの香料が鼻をくすぐった。額の中央、鼻すじ、小鼻、顎先、こめかみ。あぶらの出やすいところを丹念に撫でる。ぬるま湯で丁寧に泡を落とす。水を切って再度、鏡の中の自分を直視する。

 やはり、いつもよりなんとなく輪郭が光っているような、まるで善人のような顔になっている。そういう顔になった自分を眺めていると、最初から、まさしくそういう人間だったような気がしてくる。最後にほんの少し前髪についてしまった泡を洗い流して、化粧水を手に取った。

 蜘蛛に食われた翌朝は、肌のきめまで整っているような気がする。いつもより手早く化粧を済ませて、クリーニングから帰ってきたばかりのやわらかいニットを頭からかぶった。


「行ってきます」


 支度を終え、バッグを手に押し入れの扉に向かって声をかける。当然、蜘蛛は何も応えない。

 靴を履いて——気分がいいので、まだ二回しか履いていないオレンジ色のパンプスで行こう——、マンションの廊下へ出た。十月に入り、暦のうえでは秋口とはいえ、日が昇ればまだ肌にちりりと刺さる。



***



 蜘蛛が棲み着いたのではない。

 蜘蛛の棲む部屋に、私が住み着いたのだ。


 元恋人と住んでいた部屋を出て、築四十年になるこの古いマンションに転がり込んだ。今思えば、たしかに、不動産屋は「虫は苦手ではないですか」としきりに聞いてきたが、そのときはてっきり古い建物だからゴキブリの一匹二匹が出るや出ずや、の話をしているものと思っていた。引っ越しの日、衣類を仕舞おうと茶いろく日に焼けたふすまを開けたところで、上段にうずくまる丸い姿を見つけたのだった。


「犬? じゃない、——え、虫?」


 暗い押し入れの中に携帯電話のライトをかざしてのぞき込む。犬ほどもある大きな黒い影が、身じろぎもせずに脚を畳んで丸くなっている。ちょうど、人間で言うところの肘を折りたたんで、腹の下にしまうようなかっこうである。


「死骸かな」


 私は誰にともなく呟いて、携帯電話のライトを近づける。その空気の振動に、ようやく寝床を侵す私の蛮行に気づいたらしい相手はぴくりと動いた。動いたが、体を起こす気力もないのか、すぐにまた脚を折った。生きてはいるが弱っているらしい。前の住人が出て私が入るまでの間にどのくらいの期間があったのか分からないが、もしかすると飲まず食わずだったのかもしれない。


 気の毒に思った私は、いったん押し入れから離れて、昼食にとコンビニエンスストアで買っておいた弁当の蓋を開け、そこに水を張る。薄いプラスチックの蓋は頼りなくぺなぺなたわんだ。それを両手でそろそろと抱え、再び押し入れを覗く。先ほどと変わらぬ姿勢で、彼は蹲っている。どうぞ、と囁いて水を差し出す。しかしどうやら、私のほうに向けられているのは彼の尻らしい。彼は私が水を差し出していることに気づく気配もない。つやつやとした毛に覆われた、まるいかわいらしい尻だ。


 高校生のころ、禅寺で受けた座禅研修のおり、こういうのの上に座ったな。こういう、黒い楕円の硬いざぶとん。およそ現実感のない光景に、私はぼんやりとそんなことを思った。


「もしもーし」


 私はつい油断して、猫の子でも撫でるようにその尻のあたりをつついた。——その瞬間、「——いやッ……」彼は、ぐわ、と脚を立て振り返ったかと思うと、後ろ側の四本の脚で全身を持ち上げた。そして残る脚を万歳するみたいに高く掲げ、思い切り体を広げて威嚇をした。驚きのあまり私は尻もちをつく。追い討ちとばかりに、彼は持ち上げた脚を激しく押し入れの床に叩きつけた。バチンと硬質な音が響く。そして勢いをつけて再び万歳をする。いったい、そのふさふさした体のどこから、こんな石を割るような音がたつのか。私は瞠目して見上げた。


 蜘蛛だ。


 見たことないくらい大きな……。

 毛むくじゃらの。


 丸い腹から一転、とげのような毛に覆われた脚が、ちょうど蟹を裏返したみたいに、胸から十本、放射状に伸びている。……十本? 私は目を離せないまま、もう一度数える。やはり、足は十本生えている。彼はもう一度、押し入れの縁をたたくようにして威嚇をした。


 水を入れた容器が彼の脚に弾かれ、押し入れの中に水が散る。そこで初めて、私が持ち込んだものが水だと気づいたらしい。彼は押し入れの中にこぼれて溜まる水を見つけるや威嚇など捨て去り、持ち上げていた脚を下ろして口をつけ始めた。

 どうやらよほど渇いていたらしい。押し入れ上段の板にしみ込んで減っていく水を、一滴たりとも逃すまいと、体を小刻みに震わせながら啜っている。私はその姿を見上げながら、驚きのあまり飛んで行った心臓が帰ってくるのを待つ。しばらくするとどくどくと喉のあたりに拍動が戻ってきて、その拍動を速める興奮が恐怖によるものなのか、何かえたいの知れない期待によるものなのか、測ることもできず、私は黒い蜘蛛の姿を飽かず眺めた。水を飲み終わった蜘蛛が、ふすまを伝って降りてくる。ゆっくり、脚を上げては、とっかかりを探って空を掻く。

 その巨体にも関わらず、所作にはわずかの音もない。八本プラス二本の脚がシステマティックに上がり下がりして、気づけば蜘蛛は私の膝のあたりに脚をかけている。そろり、そろりと圧し掛かってくる大きな体の重さは、どの男のそれとも違っていて、私を妙な安心感に包んだ。


 あ、と思った次の瞬間には、蜘蛛は私の痩せた胸に、器用に牙を差し込んだ。そして、くらりと視界を喪った。あれほど鋭い牙に貫かれておきながら、痛みは大して続かなかった。



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