第23話 恋愛小説


「おお~! マジ 生き返る〜 」 


 図書館に入るなり 大樹の声が反響してしまった。


 だって、思わずそう言いたくなるほど、灼熱の屋外から キンキンに冷えているとは言わないが このロビーホールに入ってきたときの体感温度のギャップは 大きすぎたから。 

 降車したバス停から図書館までは横断歩道を入れても100mもない距離だけど、図書館ロビーが、まるでオアシスのように感じられた。


 5年前に建て替えられたこの図書館は、本の貸し借りや閲覧といった一般的な図書館の機能だけではなく、会議室や多目的ホールなども兼ね備えた複合型の文化施設で、広く市民に開放されていて、平日でも利用者が絶えることはない。

 吹き抜けの屋内ロビーの中心は、水の流れる庭園風にアレンジされていて、適度にベンチも配置されて、避暑と憩いを求める人たちにとっても最適の空間となっている。 そんな最適な空間にも、チラホラと私たちと同じような応援スタイルをした野球ファンの姿があった。


「じゃぁ 俺 雑誌コーナーで …… まぁ テキトーな時間になったら電話するし 」


「いいよー わかった 」


 私の返事を聞くまでもなく、大樹は小走りに貸し出しカウンター正面の雑誌コーナーに駆けていった。


 野球とプロレスの雑誌を読みたいけど、秋にチケット予約をしているサッカー観戦のための情報源としてサッカー雑誌も捨てがたいと、こちらに来るバスの中でも張り切っていたから仕方がない、

 嬉しそうに走り去って行く彼の背中を追いながら、時間を共有できない寂しさを、ちょっぴり感じてしまう。


 でも、まぁ、男性の脳と女性の脳、もっと言えば、彼と私の脳は一緒であるはずがないし、そもそも根本から違うのかもしれない……


 そんなことを考えながら、私は文学書や文芸書 文庫本や写真集のある2Fのフロアにエスカレーターで上がり、自動ドアから中に入った。


 その瞬間、あの図書室独特のノスタルジーをそそる匂い。様々な時間が交差する 本の森の香りが私を出迎えてくれた。 そしてそれは、暑さで苛立ってしまいそうな私の気持ちを、優しく癒やしてくれるような気さえしてくるから、とても不思議。 何とも言えないこの感覚を大樹と共有できたらいいのだけれど、彼のキャラからすれば、さすがに理解されないだろうなー。 ま、根っからの読書好きである私の 単なるわがまま ということで。


 様々なジャンルで分類された書棚が整然と並ぶ静かな空間を、私はゆっくりと歩き、行き着いた日本文学のコーナーで、作家順に並んだ「あ」行から、特に目的なく背表紙を指差しながら、タイトルを見流していく。 


「あー これ…… 」 「これも…… 」 


 過去に読んだことのある本の何冊かある中で、特に面白くて印象に残った本や感動した本を、少し手にとってはパラパラと読んでは懐かしみ、クライマックスのシーンに行き着いて回想する。


 図書館の独特な雰囲気の中で、ペーパーを捲りながら実物の作品に触れ、その世界の中にトリップするという醍醐味が蘇ってきた。


 そんな私も図書館好きと自称しながらも、最近はスマホで小説のサイトに入り、気を引くタイトルの作品を選んで通勤時に読んだりしている。 ネットの手軽さもあってか、ここの図書館に仕事帰りや休日に立ち寄っていた回数が、以前と比べても めっきり減ってきているのは事実だ。 


(やっぱり 今日、ここに来て正解だったー!) 


 そんなことを繰り返しながら、再び背表紙のタイトルだけを追っていくと 「True Love」 というタイトルと 見慣れぬ作家名の本が目に留まった。 ハードカバーは草臥れ感はなく綺麗な状態なので、おそらく最近こちらに並べられたものであると思われる。


(新しい作家さん? それとも私が知らないだけ?)


 新しい本との出会いは真っ新な気持ちになれる。 そして初めて目にする作家さんという興味にもそそられてしまい、とにかく ちょっとだけ目を通したくなった私は 迷いなくその本を手に取った。 こんな手軽さが図書館にはある。 ちなみに私は事前に物語の内容についてのあらすじやプレビューは、あえて読まないことにしている。 自分で先入観なく、先行のイメージをすることもなく、ゼロから物語の世界に入りたいから。 ゆえに、正直 面白くない「外れ」にあたってしまうこともあるのだが。


 True Love…… 本当の愛? 何やら重そうなタイトルだけど、恋愛ものは嫌いじゃないし、面白そうだったら、このまま借りても良いかな? ここの図書館のカードはいつも財布の中にある。


 私は涼しくて静かで書架に囲まれた空間で、ワクワクした気持ちで最初の一行から活字を目で追ってみた。 と、言っても、今は短時間の立ち読みレベル、斜めに走り読みしながら、面白くなければ、次の本を読もう、それくらいの気軽な気持ちでページを捲る。


 本のタイトルから恋愛系の内容なのはわかっていたのだが、少し読んだところで、これは同性愛についてのお話、レズビアンの物語であることに気がついた。

 私はレズビアンではない。 だから少し離れた第三者的な視点から、何も知らないまま、ニュートラルな感覚で物語に入っていけたのかもしれない。 それでもそれは、今 一人だからであって、大樹と一緒だったら、この本は早々に書棚に返していただろう。


 斜め読みしているにもかかわらず立体的な描写とテンポのある展開は、物語の中に自然と私を導いてくれる。 いつのまにかスゥーっと同性の恋人同士の恋愛ストーリーに引き込まれていく感覚が、どこか心地良くて、私は軽く書棚に体を預けながら立ち読みに没頭した。


 ふと? あの香りが漂っていることに気づいた。 それはリアルな香りではなく、私の感性が感じていた香り。 ここで? どうして? 戸惑いを持ちながらも、綴られた文字は私を誘い続け、やがて物語は女性同士がキスから始まり情熱的な愛を交わすシーンへと差し掛かってきた。


 ふたりの紅く柔らかい唇が重なり、優しくて温もりのある綺麗で可愛らしいキスは、やがて粘っこく情熱的で妖艶なキスへと変化していく。 同性だからわかるその感覚、繊細だけど過激、綺麗だけど卑猥なキスシーンの描写に、なぜか心を惹かれてしまった。 ううん 違う、惹かれたのではなくて、引きずり込まれてしまった。


 もちろん女性同士にも、性愛行為があることくらいは知っている。 そのテのAVだって嫌々ながらも大樹に観せられたこともある。 

 だけど、そのくらいの知識しかない私に、このあとに続く性愛シーンの描写は、身体が熱を持ち、足が震えてしまいそうなくらいに刺激的だった。


 そろそろ…… このあたりで読むのをやめないと……


 でも、あの香りに包みこまれ、いつしか主人公に置き換わってしまった私は、どうしても文字から目を離すことができなくなっていた。 レズビアンの恋愛経験がない私は、当然 性愛経験もない。 だけど今、未知の性愛へのトリップへと突き進んでしまっているのだ。


 図書館という公共の神聖な場所であるにもかかわらず、そして大樹という恋人が近くにいながらも、女性同士の官能的なシーンに没頭し、昂ってしまう私。

 そんな恥ずかしさと背徳感が頭の中で警鐘を鳴らす。


 それでも私は、止めることができない。


 それから先、女性同士のセックスの柔らかさや優しさや美しさ、温かさ、甘い香り と、男の人との行為にはない、男の人以上の激しさや情熱と粘着、そして指や唇のテクニック、それによって得られる快感が、止めどなく しつこいくらいに描かれ続けていた。


(あ…… ヤバい どうして? どうしよう……)


 心臓はドクドクと脈打ち、私は右手の人差し指を噛む。 さらに強く噛む。 そして私は寄りかかった書架に、より一層体重を預けるしかなかった。


 正直…… 震える両膝で火照った身体が支えられない、それくらいに下半身が熱く疼き始めていたから。 それでも、この場にそのまま しゃがみこむのは、恥ずかしいという ギリギリの理性はわずかに残っていた。


(本当にもうやめないと…… でも…… もう少し もう少しだけ)


 昂っている気持ちの中で葛藤しながら、それでも目と脳は文字を追ってしまう。


 と、その時…… 


 遠くから微かな自動ドアの開閉音がして、同時にフワァ~っと、わずかに空気が揺れるのを感じた。 そして、そのあとすぐに人の気配とともに、こちらに近づいてくる足音が耳に入ってきた。


(もしかして?) 


 大樹だったら、どうしよう! 咄嗟にそう思って、私はドキドキしながら、急いで本を閉じ、震える手で棚に返すと、彼と交わす言葉を必死で探そうと頭の中を巡らせる。

 耳を澄ますと、足音と気配は私が立っている書棚の隣の列に入って止まった。 でも、次はこちらの列に来るかもしれない。


「何してんの?」「何読んだの?」「これ? これってレズじゃん」「エロいなー」…… 息を潜めてジッとしている今の私を見て、彼が口にしそうな言葉をシュミレーションまでしてその返答を用意した。 そして恐る恐る書棚隙間から隣の列を覗いてみた。


 見えた背中は大樹ではなかった。


 フゥ~~ 一気に脱力した。 


 え?待って? 私は大樹ではなかったことに安心しているの? たしかに彼氏には見られたくない姿だったことに違いはないのだけれど。 

 そうじゃない、その人が彼だったとか違う人だったとかよりも、私はドップリとハマって抜け出せなくなってしまった未知の妄想の世界からやっと逃げ出すことができたこと、そのことに安心して胸を撫で下したのだ。 


 もう一度、深く一息を吐き出すと、動揺している気持ちだけはリセットできた。 まるで悪い夢にうなされ、目が覚めて何もなくホッとしたような感じだと、そんなつまらない こじつけを頭の中で巡らせて、なんとか自分を取り戻そうと頑張った。 


 だけど…… 私の身体は?


 とりあえず洗面所に入って鏡を見ると、潤んだ目をした私の頬が赤く火照っているのがわかる。


 でも、これは暑さのせいだから。 そして、未だに おぼつかない足取りは、立ち読みで疲れたせい。 そんなふうに鏡の中の私に言い聞かせ、もう一度大きく深呼吸をして、気持ちを整える。


 冷静に振り返れば、私は別に悪いことをしたわけではない、恋愛小説のラブシーンを読んでしまって感情が昂ってしまっただけのこと…… 


(そう ただそれだけのこと とにかく切り替えよう!)


 洗面所を出ると、私はそのまま大樹のいる1Fに階段を使って降りて行った。手すりを持って。


 大樹は大樹で、閲覧用のテーブルに何冊かのスポーツ系の雑誌を持ち込んで熱心に没頭している。 私がそばまで近寄ると気配を感じてか、ふっと思い出したように顔を上げ、1Fフロアの壁に掛かっている時計を見た。


「おぉ! わるいわるい もうこんな時間かー そろそろ行くか! 」 


 彼は急いで乱雑に置かれた雑誌を両手に抱えて席を立った。


「あっ 待ってー これは? これも でしょ? 」


 サッカー雑誌が一冊 ブース机の端に残っていたので、私が手渡すと、


「おー ヤバい ごめん サンキュー! あはは たくさん読みすぎた! 」


 彼はそう言って笑顔で受け取ると、急ぎ足で雑誌コーナーの元の位置に戻しに行った。


 大樹の無邪気な仕草とどこかコミカルな反応に、私はさっきまでの動揺していた気持ちが、だんだんとフェードアウトしていくのを感じた。


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