第22話 香り
「あっ おつかれさまー 」
先に私に声をかけてきたその人は、佐倉渚さん。
昨年の1月に広告代理店から転職してきた佐倉さんは、男性社員顔負けの営業成績で常にトップに名前を載せているだけでなく、商品部も兼務して企画や戦略も担当している。
「できる女性」「キャリアウーマン」 そんな言葉が、もれなくついてくる社内でも貴重で優秀な人材というのは周知の事実。
しかも、美貌と洗練されたスタイルも兼ね備えていて、そのクール・ビューティ的なところが、男性だけでなく、私たち女性社員の憧れにもなっている。
私も佐倉さんに対しては、控え目に憧れている一人ではあるけれど、私なんかとは違う別の世界の人のような、遠い存在だと思っているのと同時に、あまり近づきたくない気持ちがある。
それって いつだったか? ずいぶん前? 大樹とのデート中に、あの時は友達(おそらく)と一緒だった佐倉さんとすれ違った時の、何とも言えないオーラを纏った彼女の存在感がとても強烈だった印象と、その後に大樹がふざけて口にした 絶対にありえない変な妄想が、ずっと私の頭の奥の奥に こびりついて離れないままだから、というのも含まれている。
それでもショールームの受付を担当している私は、同じくショールームの活用を企画し先頭に立って指揮をしている彼女とは、最近では挨拶程度に簡単な言葉は交わすこともあるわけで、だから遠いといっても、実は物理的にはそんなに遠い存在ではなく、むしろショールーム内で仕事をしているもの同士、近い存在にはなっていた。
「おつかれさまです 」
そんな佐倉さんと、いきなり鉢合わせてしまった私。 突然のことで、緊張のあまり及び腰になってしまうのは仕方がない。
とりあえず簡単に一言、頭だけを下げて そそくさと立ち去ろうとすると、
「今日は 終わり? 半休? 」と、続いて話しかけられてしまった。
ビジネス調の落ち着いた声質と物腰。
仄かに漂う嫌みのない大人の香りのするフレグランスが、更に私を緊張させる。
そんな佐倉さんに比べて、私は、オフィス通勤者のドレスコードギリギリセーフレベルのラフな外見。 ミディアムストレートの黒髪を、アクティブなポニーテールにして、薄紅色のシャツを緩く羽織り、カジュアルなブラウンのチノパンにスニーカー姿、スニーカー? ううん、もはや運動靴だ。
一方で、隙のない高級感のあるグレーのパンツスーツを、きっちりと着こなし、ヒールを履いているせいもあってか、上から私を見下ろしているかのような彼女の前から、とにかく早く逃げたい気持ちになっていた。
ただ着ているものの差だけではなく、いつもながらに佐倉さんから感じられるオーラも 正直 かなり苦手。
「はい 半休なんです。 スイマセン、お先に失礼しまーす 」
私は引きつった笑顔で軽く頭を下げて足早に佐倉さんの横をすり抜けた。
佐倉さんの視線が、なんとなくまだ背中に刺さっているような気がしたのは思い込みし過ぎだと思うけれど、とにかくエレベーターに駆け込んで下降、従業員用の通用口を出ると、なんていうか、息詰まりから解放された気分になって、私は思わずフゥーっと息を吐きだした後で、もう一度 ホッと一息ついてしまった。
見上げると太陽光が眩しい……
とにかく、梅雨の明けた今年の夏はホントに暑い! いや 今年の夏も暑い。 でもこんな暑さの中、スーツで外回りだなんて、営業関連の部門のみなさんは、本当に大変だと思う。
それにしても、どうして佐倉さんは、いつもあんなに涼しげな顔をしているのだろう。
さっきの咄嗟の鉢合わせがきっかけで、あらためて冷静に佐倉さんのこと、たとえばショールームで施工業者さんに指示をする姿だとか、商談ブースでお取引先様と打ち合わせをする姿、部下の男性社員を従えて颯爽と歩く姿、クールだけど、清潔でスマートで全然嫌味なところもなくて、たまに見せる笑顔は柔らかくて…… いろいろな彼女の画像をイメージしていると、だんだんとさっきの逃げ出したくなった苦手意識よりも、憧れとか羨望といった好意的な気持ちのほうが強くなってきているのが自分でもわかった。
そんなことを考えながら、ワイヤレスイヤホンからの軽快なJ-POPに合わせて駅まで急ぎ、ちょうど良いタイミングで乗れた電車の中でダラダラとスマホを眺めていると、待ち合わせをしている駅に到着。 電車内もそうだったけど、平日の昼だというのに、駅構内も意外に閑散としているわけでもない光景が新鮮に映った。
そして13時30分。 いつもながら待ち合わせの時間ぴったりに大樹が来た。
すでにレプリカのユニホームを着てグッズを肩にした熱烈応援モード全開の大樹。 私はおおげさに驚いて笑っているうちに、頭の中から佐倉さんの画像だけは消えていった。
遅い昼食は、とりあえず駅近くのバーガーショップで。
早速、大樹がスマホから割引クーポン券を提示してハンバーガー1つにつき200円引きとポテトのSサイズをゲット。 2F窓側のカウンター席に座った私たちは、道行く人を窓から見下ろしながら、昼食をとっていると、私たちと同じようなカップルが応援スタイルで歩いているのを発見した。
たわいもない話をしながらも、そんな光景を目にすると、大樹は俄然張り切って、今夜の試合のことを熱く語り始める。 その目の輝きは、まるで心底 観戦を楽しみにしている野球少年そのものだった。
そんな感じで、ひとしきりの時間を店内で過ごし、お腹も十分に満たされた。
外を見ると炎天下…… 空調の効いた店内から出るには、ちょっとだけ勇気が必要だ。
「早めに行きたいけど、ヤバいくらい暑いしなー ま、指定席だし焦ることないかー でも どうする? 」
実は昨夜の電話では、当然、試合前の練習から見るんだ、と 鼻息も荒かった大樹も、さすがに昼間のこの暑さに少し及び腰になっている。
「私は、どっちでもいいよー けど でも、暑いよねー やっぱり 」
そう言いながらスマホで何気にスタジアムの位置検索をしていた私の手が止まる。
「あ、じゃぁ これから図書館は? 市立図書館って スタジアムの近くみたいだし 」
「おー いいなー 適当な時間まで過ごせるし 涼しいしタダだし いいじゃん! 」
大樹らしい、いつもながらの合理的な解釈、そしてなによりも、読書好きの私には嬉しい場所だったりする。
彼のスマホでバスがもうすぐ到着することを確認して、バーガーショップを出て、駅前の停留所へと急いだ。
すでにバスは発車待機をしていたが、駅始発なので余裕で座ることができた。
涼しいバスの中でも、大樹は終始ご機嫌で、今日の試合の見所や今シーズンの野球のことについて、いろいろと私に教えてくれた。
私は大樹ほど野球には詳しくない。 だから全部を聞き取って理解することはできないけど、彼が饒舌に語る仕草を見るのが楽しくて、適当な相槌を打ちながら彼の話を聞いていた。
ただ 100% 大樹の話に集中できていたわけではなかった。
実は昼食を終えたくらいからだろうか、それからずっと気になってしまっていることがあって……
それは更衣室を出て鉢合わせをした時に佐倉さんから漂ってきた さりげなく品のある香り。
その香りが、私の鼻というよりも、頭、いや感覚的に残って離れてくれない。 離れてくれないどころか、少しずつ鮮明になってきているのだ。
(どうして?)
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