13.海の魔術師

 途中まで言い掛けていたシーラは青ざめた顔で背伸びをすると、イルハの耳に口を寄せて小声で囁いた。


「お酒を飲んでいるって知られたら、捕まっちゃうかな?」


 イルハから僅かに息が漏れる。

 安らかさと優しさを混ぜたそれは、シーラへと曲がりなく伝わったようで、遅れてシーラからも安堵の息が吐かれた。


「大丈夫ですよ。我が国の法の及ばぬ場所でいくらお酒を飲んでいようとも罰せられることはありません」


「それなら、好きに見て行って!ちょおっと散らかっているけれどね」


 イルハの声音は確実に、役人たちに向けてきたものとは異なっていたが、本人でさえ気付いていないことで、余裕のない役人たちが気付くはずもなく、分かっていたのはリタだけだった。

 そのリタはシーラの後ろでにこにこと微笑んでいる。


「では後ほど法務省から監査部門の担当官を派遣しますので、船を改めさせてくださいね。あなたにも船の所有者として立ち合って頂きますので、そのつもりで」


「担当官って?イルハは来ないの?」


 イルハの表情が固まった。


「イルハも来たらいいのに」


 さらに言うシーラの後ろから視線の圧を感じたイルハがそちらを見やれば、ぐわっと目を見開いたリタの視線が熱心に何かを訴えかけている。

 先までのリタの嬉しそうな顔を把握していなかったイルハは、ここでは辞めてくれと思うも、リタの気持ちも分からないではない。


 この場の様子を知った今、船の改めを担当官任せにするのは至極不安だ。


「この後の予定を調整しましょう。特別な事例ですから、私も改めに参加します」


 何故かシーラが「やったぁ」と叫び喜んでいた。


 受付所の上役の男は監査部門と話を付けてくると言い、さっさとこの場を立ち去った。

 若い新人の役人が、その背を恨めしそうに見送っては、もうすべては自身の手から離れたと悟り、置物のように座っている。



 イルハはもう一度シーラが記入した来訪登録の用紙に目を落とした。


 魔術師の欄にしっかりと丸が付いている。

 多くの場合、ここに虚偽が生じるから、シーラの発言に問題はなさそうだ。


「シーラ、もうひとつ」


「まだ問題があった?」


「いえ、この国では異国人が魔術を使うことを禁じています。心得ておいてくださいね」


 シーラは胸を張り笑顔を見せる。


「大丈夫。私の魔術は航海用だよ!」


「よろしい。では、後ほど。リタ、後で迎えを出しますから、それまで昼食でも取っていてください」


「お昼ご飯?イルハと一緒?」


「私はまだ仕事がありますから、リタと食べて来てください」


「そうなんだ、残念だね。でもお金がないよ」


「気にしなくていいですよ。リタ、ご馳走してあげてください」


「では、中央広場のリリーの店にでも参りましょう」



 王宮の受付所にいつもの平穏な時間が戻って来たかと思ったときだった。


「ありがとう、イルハ。後でね!」


 その声は一段とよく通り、王宮に務める役人の幾人かは仕事の手を止め、声の主を探しては振り返る。

 一方残る者たちの多くは顔を俯けて仕事に没頭する姿勢を見せていた。


 その誰もが一様に青褪めた顔をしているのは、どうしてだろう。




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