10.騒がしい来訪者

 翌日である。

 嫌な予感がしていたイルハは、書類を届ける口実を作り、予測した時間に合わせ来訪登録の受付所へと足を進めているところだった。


「本当に身の上を証明する書類は無いんですか!」


「何も持っていないよ」


「それなら正確にご記入ください!」


「正確に書いたんだってば」


「どこがです。まず、ここ!海って!何ですか、海って!これじゃあ、話にならない」


 若い青年の荒々しい声を聞き、イルハは予感が的中していたことを悟った。


「私は海の民なんだよ」


「海の民だって、どこかの国で生まれているでしょう。その国を書きなさい」


「まぁ、本当なんですよ。シーラちゃん、海の上で生まれたそうなの」


「船上ですか?それでも国籍くらいあるでしょうよ。何ですか、空欄って」


 どうやら出生国および国籍の記載内容について、揉めているようだ。

 シーラは幼く口を尖らせていて、リタの方が熱心に役人の話を聞いていた。


「国籍って言われても。本当にないんだから」


「そうだとしても!生年月日まで空欄なわけがないでしょう!」


 どうも問題は、出生国と国籍だけで終わらない。


「正確に覚えていないんだけど。それでいい?」


「良くありません!正確に思い出してください!」


 イルハの母の服に身を包んだシーラは、来訪登録の受付所に並ぶ他の者らから浮いていた。

 風貌だけは異国の娘というより、この国に元からある娘に見える。


 イルハは少しの間、母の服はよく似合うなと感心し、感傷に浸った。

 淡い黄色のワンピースから思い出されるのは、懐かしい母の温もりと、イルハにとっては少々苦々しい記憶だ。


 相変わらず肩周りなどは大き過ぎるようだが、それでも裾を引き摺る長さではなかったのは、昨夜のうちにリタが手を加えたからに違いない。

 それでもシーラに似合っているのだから、ぴったり合うサイズでこの国のワンピースを仕立てれば、もっとよく似合い、美しく見えるのではないか。



 イルハの胸に何か詰まったような、不快ではないものの、今までにない感覚があった。

 朝はいつも通りで、昼食はまだ取っていないのだから、胃もたれではないだろう。

 しかしこの感覚が何か、イルハには確認する時間がない。


 そろそろ行かなければ。



「何か問題がありましたか?」


「えぇ、聞いてくださいよ、この娘が……えっ!」


 シーラを担当していた役人は振り返った瞬間、ぎょっとして背筋を伸ばし、顔色を青褪めた。

 シーラの対応をしていたのは、今年入省したばかりの新人の男で、イルハの声をまだちゃんと認識出来ていなかったのだ。


「さ、騒ぎ立てして申し訳ありません。こ、こ、こ、この者がおかしなことばかり申しまして」


「イルハ!」


 嬉しそうに飛び跳ねた娘の声に、新人の役人はさらにぎょっとすることになった。




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